新たな戦いの幕開け
享保十二年〔一七二七年〕江戸城大奥。
三月に入り、春の足音が聞こえて来る季節となってきたが、江戸の町はまだまだ冷え込む日が続き、暖かくなるのはもう少し先になりそうであった。
その平穏な日々は突然終わりを告げる。
大奥に謎の侵入者が入り込んだのである。
大奥が外敵の侵入を許したのは三日月党以来であった。
「万理様、お逃げ下さい」
女中たちの叫び声に恐怖で声も出ない万理は必死で逃げようとするが、行手を遮るように侵入者は前に立ちはだかる。
「万理、お前に恨みはないがこれも命令でな。お命頂戴致す」
侵入者が刀を万理に向けて一閃させるが、横から受け止められる。
「泉凪!」
「万理、大丈夫か?」
助けに入ったのは大奥別式鬼頭泉凪である。
「何者か?」
泉凪は剣を構える。
侵入者は剣を持つ右手を耳の辺りまであげて左手をそれに添える独特の構えを見せた。
泉凪はそれが示現流の蜻蛉である事を即座に見破る。
「これは示現流。薩摩の者か」
万理を安全な場所に逃すためにもここでこの外敵を食い止めなくてはならない。
泉凪は迷わす技を繰り出す。
「鬼頭流一乃型明鏡」
泉凪が一文字斬りを仕掛けると同時にその刀は振り下ろされた。
「示現流蜻蛉」
両者はほぼ同時に技を放つ。
泉凪は蜻蛉を避けるために身をひるがえして剣を振るが、予想を超える相手の速度の斬撃にかわすのが僅かに遅れた。
「うぐ。。」
鮮血が飛び散り泉凪の左肩が斬られた。
だが、辛うじて致命傷や重傷となる一撃は避けられた。
「泉凪!どうしたのじゃ?」
「月光院様、侵入者です。近づいては危険でございます」
「侵入者じゃと?」
月光院もよもやの事態に動揺を隠せない。
「。。蜻蛉がかわされるとは」
泉凪は怪我をした左手に構わず一歩踏み込む。
「三乃型霧氷」
再び蜻蛉の構えをさせてなるものかと泉凪は死中に活を求める一撃を繰り出した。
泉凪の放った突きは侵入者の胸を貫くと思われたが怪我の痛みで身体の動きが鈍り突きが浅かった。
だが手応えはあった。
浅いとはいえ相手の胸を突き刺している。
致命傷は無理でも動けなくさせるくらいの効果はあったはずだ。
しかし、侵入者は胸から泉凪の剣を自身の手で抜き取った。
「ばかな。。確かに手応えがあったのに動けるとは」
「ちっ。流石にこの怪我でこれ以上は無理か」
侵入者は自分の怪我を見てこれ以上は戦えないと判断したのか退却して行く。
「今日のところは引き上げる。次は会う時までその首を洗って待っているがいい」
「待て!」
泉凪が懸命に後を追おうとするが、左肩の怪我の痛みでうずくまってしまう。
「泉凪!大丈夫か?」
「月光院様、申し訳ございません。不覚を取り、侵入者を取り逃しました」
「とにかくすぐに手当じゃ。誰か、医者を呼んで参れ」
月光院に声に女中たちが素早く対応し医者を呼びに走る。
「この大奥に潜入するとは何者なのじゃ。泉凪がこれだけの怪我を負わされた上に取り逃すとは。。」
月光院の言葉に万理が小さな声で答える。
「あれは薩摩の忍びです」
「薩摩じゃと!」
⭐︎⭐︎⭐︎
「桜姫、泉凪様が大変でございます」
大奥からの知らせに桜は急ぎ泉凪の元へ向かった。
泉凪は大奥内の月光院の別室で寝かされていた。
「桜、参りました」
「おお、桜。よく来てくれた。泉凪は無事じゃ」
月光院の言葉に桜もほっと胸を撫で下ろす。
「泉凪!大丈夫か?」
「ああ。だけど左肩をやられてしばらくは動けそうにない。まさかあれほどまで腕が立つとは。油断していた」
「泉凪がこれだけの傷を負わされた上に泉凪の突きを受けても倒れずにそのまま退却して行ったとの事じゃ。これは並々ならぬ相手じゃ」
「相手はわかっているのですか?」
桜の問いに月光院はある人物を呼び寄せた。
「それは私よりも彼女から聞いた方がよいであろう。万理、入りなさい」
「はい」
万理と呼ばれた女中が返事をして部屋に入ってきた。
身長は桜と同じ一六〇センチほどで、この時代の女性としては高身長の部類に入る。
が、何より最初に驚いたのは茶髪という事だ。
桜は茶髪の女性を初めて見たが、それが違和感なく、むしろ似合うような顔立ちである。
「あなたは。。」
「桜、万理を知っておるのか?」
「いえ。。昨年の年初めに一度廊下で見かけた事がありましたので」
「そうであったか。万理、桜姫に挨拶を」
「桜姫、お初にお目にかかり光栄でございます。私は大奥女中の滝川万理と申します。どうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそ、徳川桜です。よろしくお願い致します」
「桜、見てわかったと思うが、万理は母親は日本人だが父親はオランダ人の混血じゃ。元々は江島付きの女中であったが、江島があのような事になり、私が江島の代わりに主となってきた」
月光院によると、万理は本名をクラウフェルト・万理と言い、日本名は滝川万理。
現在二十三歳。丸山遊郭の芸者であった母と長崎出島のオランダ人商人の間に生まれた子であった。
元々は江島と幼少の頃から顔見知りで、江島が大奥に来た三年後に万理を大奥に呼び寄せた。
そして自らの元で大奥のしきたりや作法を学ばせていたが、江島が例の事件により高遠に追放され、江島付きの女中であった万理も大奥から出されてしまった。
その後十年が経過してようやく大奥に復帰出来る事となり、今は月光院付きの御年寄で序列七番手にまで出世したという事だ。
瞳の色は茶色。髪の毛は茶髪で一見すると日本人に近いが目の堀は少し深く、人形のような可愛らしさあり、見た目も目立つ。
「この大奥に万理を狙う輩によって再び襲われようとしている」
月光院の怒りを込めた眼差しに桜は身を引き締めた。
二年前の宮守志信と三日月党の事件は桜自身、泉凪と協力して何とか退けた相手であった。
その時の戦いで右腕が動かなくなってしまった事も記憶に新しい。
「私は江島から大事な女中を引き受けた以上、万理を助けるためにその連中を打ち倒さねばならない」
「相手は誰なのです?」
桜の問いに月光院は眉をしかめた。
「おそらくは薩摩」
「薩摩?どうして薩摩が?」
その問いに万理が答える。
「それは私と母が元薩摩の人間だからです。私の母は薩摩藩お抱えの歩き巫女でした。丸山遊郭で芸者をしていたのも潜入調査だったのです」
それを聞いて桜も吉原に芸者として潜入調査していた事を思い出していた。
「歩き巫女。。という事はくの一」
桜の言葉に万理はうなづいた。
「母はオランダ人の父との間に私が生まれた事がわかった時点で頭領に話した上でくの一から足を洗いました。なのでどうしてなのか事情が私にはわかりません。何故私が狙われているのかも。母は抜け忍ではありません。きちんと筋を通してくノ一から足を洗っているのに」
万理も戸惑いの表情を隠さなかった。
「月光院様、その戦いに私も加わらせて下さい。泉凪は怪我を負っています。一人では荷が重いでしょう」
「桜、事はそう簡単にはいかぬ。今のお前は御庭番ではなく吉宗殿の義理の娘なのじゃ。私やお前の一存だけでは決められぬ。吉宗殿の許可を得なければならないのじゃ」
「お義父様はきっとお許し下さいますよ。私は剣を取って泉凪と万理さんを助けるつもりでおります」
桜はそう言ったが、月光院は一抹の不安があった。
「そうだとよいのじゃがのう。。」
月光院はそう言うにとどめた。
※薩摩が敵という設定なのですが、薩摩関連の人物は標準語の台詞と致しました。
理由としましては忍びは任務上、その土地の言葉を話せる事。
一番の理由は台詞を薩摩弁に変換するのが面倒という事ですけど。。
そもそも敵地に潜入するのに薩摩弁で話したら正体がバレてしまいますしね。
ご了承のほどよろしくお願いします。