赤薔薇
時は八代将軍徳川吉宗の時代。
吉宗の側近として仕えた最強と言われる御庭番が存在した。
その名は松平桜。
だが、彼女は激しい戦いによる負傷により御庭番の役を解任され、今は吉宗の養女徳川桜として江戸城の「表」と大奥を繋ぎ役として政務を務めている。
あれから一年が経とうとしていた。
一七二六年も秋から冬に入り、江戸の街にも本格的な冬の寒さが訪れていた。
昨日から降り続く雪に江戸の街は見渡す限り白化粧に変わり、冷たい空気に包まれていた。
「さ、寒い。。」
この寒空の中、一人の少女が夜の江戸の街を彷徨っていた。
歳は十八歳ほどであろうか。
菅笠に手甲を付けている事から旅人であった。
空からは朝日が見え始めてきて、冬の明け方の寒さは尚更少女の身体にこたえた。
寒さに震えながら必死で歩いているが、空腹にも耐えかね、とうとう道端にへたり込んでしまう。
「こんなところで野垂れ死にする訳には。。」
何とか立ちあがろうとするが、もう身体に力が入らなかった。
少女はそのまま倒れて意識が遠のいていった。
「お父さん、しじみ買って来るね」
長屋から女の子が戸を開けて元気よく外に飛び出だした。
朝のお味噌汁に入れるしじみを買いに行くところであったが、長屋を出て少し歩いたところで、倒れている少女を見つけた。
「ちょっと、お姉さん。大丈夫?」
女の子は急ぎ家に戻り父親を呼び、倒れていた少女は助けられた。
「。。ここは?」
「お父さん、お姉さん目が覚めたよ」
「おお、良かった良かった」
「あの。。私は」
少女は自分が何故ここにいるのか必死で思い出そうとしていた。
「お姉さん、道に倒れていたんだよ。最初見つけた時には死んでいるのかと思ってびっくりしちゃった」
女の子にそう言われて少女は思い出した。
「そうだ。私、寒さとお腹が減って動けなくなっちゃって。。ご迷惑をおかけしてすみません。私の荷物は?」
「ああ。抱えていた風呂敷ならほれ、そこに」
荷物をまとめていた赤い風呂敷は枕元に置かれていた。
荷物と一緒にあった長刀も信吉は知っていたが、見て見ぬふりをしていた。
この少女が何者かはわからないが何か事情があるのだろうと思ったからである。
少女は布団から起き上がり、親子にお礼を言って長屋から出て行こうとするが、父親に止められる。
「あんた、何も食べてないんだろ。大した物は出せないが飯くらい食べていきな」
「いえ、これ以上お世話になる訳には。。」
そこまで言ったところで腹の虫が鳴り、再びへろへろとおぼつかない足取りになってしまった。
「ほら、お姉さんそれじゃ歩けないでしょ。うちで食べていきなよ」
女の子にもそう言われて恥ずかしくなったが、確かにこのままここを出てもまた行き倒れになるのは目に見えていた。
少女はすみませんと頭を下げてご好意に甘える事にした。
父親は女の子が買って来たしじみを味噌で煮込んで鍋料理を作って来れた。
「さあ、遠慮なく食べるがいい。この寒さだ。身体も冷えているだろうから鍋がいいと思ってな」
「ありがとうございます」
しばらく言葉も発せずに夢中で食べる少女であった。
「お父さん、娘さん。ありがとう。おかげで助かりました。私、赤松茉衣って言います。小田原から江戸に用があって来たのですが、持っていた金子がギリギリだったので、食べ物も買えなくなって動けなくなってしまったんです」
この時代に苗字のある人間は代々家を継ぐ者であったり、苗字を名乗る事を許されている者だったので、信吉はこの子はどこぞの後取りなんだなと思いながら聞いていた。
「そりゃ大変だったな。俺は飾り職人の信吉っていうんだ。こっちは娘のおかよ。歳は七つだ。女房には先立たれてこの通り二人暮らしさ。茉衣さんって言ったな。江戸には誰か知り合いでもいるのかい」
「姉が一人いたのですが。。」
茉衣がうつむいて言葉を途切れさせたのを見て、信吉は事情を察した。
「お姉さんに不幸があったのか。。」
信吉の言葉に力無くうなずく。
「姉が亡くなったと聞いて供養のために江戸に来たんです。しばらくは江戸に滞在するつもりなので、これから住む場所も探さなくてはならなくて。。」
「ならばお前さんさえよければここにしばらく居るがいい。わしら親子二人暮らしだ。遠慮なく過ごしてくれ」
「いえ、食事までご馳走になってその上そんな。。住む場所は自分で何とか探しますので」
「何とか探すって言ってもお金もないんだろ?働くと言ってもすぐにまとまったお金はたまらないぞ」
「そ、そうなんですけど。。」
「お姉さん、お父さんがそう言ってるんだからしばらく一緒に暮らそうよ」
「いいんですか?」
茉衣の言葉に信吉とおかよはにこりと笑って答える。
こうして茉衣はこの親子の家でしばらく厄介になることとなった。
⭐︎⭐︎⭐︎
「信吉さんにおかよちゃん。おはよう」
「おはよう茉衣さん」
信吉は飾り職人で、手作りのかんざしやくしを売って生計を立てていた。
「俺は元々は行商人として自分で作った物を自分で売り歩いていたんだが、将軍様の倹約令でそこいらでかんざしを売るわけにはいかなくなってね。
それで小間物屋に売る形に変えたのさ。今の稼ぎ頭はお武家様と吉原の遊女なんだよ。まあ、それでも商売が出来て食っていけるだけ幸せってもんだ」
信吉はそう言うとかんざしやくしを大包に入れて背中に背負い出かける支度をする。
「おかよに茉衣ちゃん。俺は出かけて来るから留守を頼んだぞ」
「いってらっしゃい」
茉衣が来てからはおかよを茉衣に任せて仕事に行けるので信吉も安心する事が出来た。
今までは長屋の隣近所の人たちに面倒見てもらっていたからだ。
茉衣とおかよは年の差はあったが、本当の姉妹みたいに仲良くなっていた。
「お姉ちゃんが出来たみたいで嬉しい」
「お姉ちゃん。。」
おかよの言葉に茉衣は亡くなったという姉の事をふと思い出していた。
「あ。。ごめんね」
おかよは言った後で茉衣の寂しそうな表情に気がついて慌てて謝った。
「いいんだ。私も妹が出来たみたいに思ってたから」
それからしばらくして、茉衣は信吉の紹介もあり、近所の和菓子屋で働ける事となった。
「信吉さん、ありがとう。これでお金を貯める事が出来ます」
「いいって事よ。お互い様だろ」
〔住む家だけじゃなく働き先まで面倒見てもらって。。この親子には私一生頭が上がらないな〕
茉衣はそう思うのだった。
そんなある日の出来事であった。
信吉は参勤交代で江戸を訪れた旗本、内藤影道の屋敷から江戸土産にとつまみかんざしを依頼された。
つまみかんざしとは江戸つまみかんざしとも呼ばれていて小さな正方形の布を折り、組み合わせて花の模様に仕上げて行く京から伝わった技法である。
信吉はこのつまみかんざしで江戸で名の知られた職人であった。
つまみかんざしは江戸で発展したもので、参勤交代で来る大名たちにも人気で江戸土産として買っていく者も多かった。
つまみかんざしを見に小間物屋新井屋を訪れた旗本の内藤影道が信吉の作ったかんざしをえらく気に入って是非作って欲しいとの要望からであった。
「久しぶりに大きな仕事が来たぞ。しばらくは夜通しの作業になるから新井屋さんの長屋を借りる事となった。俺のいない間、留守を頼んだぞ」
「早く帰って来てね」
おかよの言葉に信吉は手を振る。
それからおよそ一ヶ月、信吉は住み込みで新井屋の長屋でつまみかんざし作りに没頭した。
江戸でも評判の高い信吉の作るつまみかんざしは見事な物で、出来上がりに新井屋の主人も思わず声を上げるほど会心の一作となった。
「これは素晴らしい。さすが信吉だ。早速内藤様の屋敷に使いを出そう」
新井屋の手配で屋敷から二人の武士が品物を受け取りにやって来た。
旗本屋敷の武士とは思えない身なりも見た目も良くない浪人風の男たちである。
「お主が信吉か。すまぬが代金は屋敷で支払う。屋敷までご同行願えないか」
「へい。わかりました」
信吉は不審に思いながらも武士たちの後をついて行った。
旗本屋敷の門まで着いたところで二人の武士たちは「ご苦労であった」とひと言言い残して屋敷に入ろうとする。
それを慌てて静止する信吉。
「お武家様、お代を」
信吉が代金を請求するが、武士たちは無言のまま立ち去ろうとする。
「おい、聴こえねえのか?金を払って言ってるんだ。そのつまみかんざしは最高級の生地と素材を使ってるんだ。少なくとも一両はもわらねえと割が合わねえ」
信吉は武士の一人の肩を掴むと、武士は「無礼者」と振り向きざま刀を抜いて袈裟斬りで信吉を斬った。
血飛沫と共に信吉はその場にうずくまり倒れた。
「町人ふぜいが大名から金を取ろうなんぞ畏れ多いわ」
信吉を斬った武士二人はそのまま旗本屋敷へと入っていった。
奉行所からの知らせを聞いて番屋に駆け込んだおかよと茉衣は信吉の遺体と対面する事となってしまった。
「お父さん、お父さん!」
父親を殺されて号泣するおかよを呆然と見つめるしか出来なかった。
「信吉さん。。」
奉行所の役人から辻斬りの仕業だろうと伝えられて茉衣はこぶしを握りしめた。
「信吉さんは旗本内藤様の屋敷にかんざしの代金を受け取りに行きました。それがまさかこんな事になるとは。。」
新井屋の主人も突然の事にそれ以上言葉が出てこなかった。
「ほら、これやるよ」
信吉が茉衣に手渡したのは江戸つまみかんざしであった。
それも見るからに上等な品物だ。
「いえ、こんな高そうな物頂けません」
「いいって事よ。茉衣ちゃん女の子なのに飾りっ気もなさそうだし、かんざしの一つくらい持っていて損はないだろう」
「か、飾りっ気。。」
茉衣は自分はそんなに女の子として飾り気がないように見てるのかとガックリしたが、それよりもかんざしの豪華さである。
「でも、それ買ったら一両はしませんか?」
「値を付けるとしたらそれくらいは貰わねえとな。でも茉衣ちゃんならタダでいいよ。おかよの面倒を見てもらっているお礼だ」
そう言うと信吉はかんざしを茉衣の髪に付けた。
「お姉ちゃん似合ってるよ」
おかよからも褒められて鏡を見たが、かんざしなどつけた事のない茉衣は嬉しいやら恥ずかしいやらであった。
「ありがとうございます」
茉衣は信吉からもらった薔薇のつまみかんざしを見つめ、その目は怒りの炎が燃えていた。
「おかよちゃん。信吉さんの仇は私がとる」
それは誰にも聴きとれないほど小さく呟くような声であった。
⭐︎⭐︎⭐︎
信吉を斬った武士二人は旗本内藤影道の屋敷に出入りしている用心棒まがいの浪人であった。
内藤からかんざしの大金として二両を手渡されていたが、内藤に無断で自分たちがせしめたのである。
「かんざしは手に入って金も我々のもの。一石二鳥ってやつだな」
店で酒を飲みながらそう話している浪人風の武士たちを茉衣は店の外から見ていた。
「あいつらか。。」
店から出て屋敷に戻ろうと歩いている二人の前に赤い頭巾に目だけを出して顔を覆い、薔薇柄の黒い着物を来た人物が立っていた。
腰には刀を差している。
「何者だ?」
「お前たちに名乗る名前なんてないが、赤薔薇とでも言っておこうか」
赤薔薇はそう言うと鯉口を切り、刀を抜いた。
二人の武士たちもそれを見て刀を抜く。
「あんなに人のいい信吉さんを斬った罪は償ってもらう。お前たち、三途の川で信吉さんに詫びてから地獄に行け」
「ふん、あの小間物屋の知り合いか。ならばお前も一緒に地獄に送ってやる」
浪人の一人が刀を抜こうとしたが、それよりも速く赤薔薇が刀を抜く。
「秘剣六乃型玲瓏」
目にも止まらぬ居合い抜きの一撃で一人目の浪人は断末魔の悲鳴すらあげる間もなく瞬時に斬り倒されていた。
「てめえ!」
残る一人の浪人が刀を抜くと赤薔薇は刀の切っ先を相手に向けて動きを牽制する。
浪人はそれを強引に突破しようと前に出たところを必殺技の餌食となった。
「一乃型月輪」
右袈裟斬りが浪人の身体を斬り裂き、二人の浪人はわずか十数秒のうちにあの世へと送られた。
「信吉さん。仇は取りましたよ」
赤薔薇は静かに夜の闇の中に消えていった。
⭐︎⭐︎⭐︎
信吉が亡くなった後、おかよは新井屋の主人が面倒を見てくれると申し出てくれたが、おかよはそれを断り、茉衣と一緒に暮らしたいと言い出した。
「茉衣さん、これから茉衣さんが私のお姉さんになってくれないかな?」
「おかよちゃん?」
茉衣はおかよが新井屋に引き取られるのを見守ったらこの家から出て行くつもりだったが、このまま七歳のおかよ一人を残していくのに不安を感じていた。
そう思っていたところにおかよから申し出があったのだ。
「でも、私は江戸の人間じゃないし。。」
「いいじゃないか。おかよちゃんがああ言ってるんだし、茉衣ちゃんも行く宛がないんだろ?」
和菓子屋の主人にそう言われて口籠もってしまった。
確かに姉を亡くしている茉衣には行く宛がなかった。
少し躊躇いはあったが、おかよの顔を見て決意した。
「わかった。私でいいならおかよちゃんのお姉さんになる。ここで一緒に暮らそう」
「やった!ありがとう」
おかよの喜ぶ顔を見て茉衣は心の中で打ち明けられない秘密がある事を後ろめたく思っていた。
〔いずれおかよちゃんにも話さなくてはならない時がくるだろう。。私が剣客だという事を。そして姉さんの敵討ちのために江戸に来た事を〕
赤薔薇こと赤松茉衣は今回の物語の重要人物です。
今後の動向もお楽しみに。
(ハードル上がる事言ってしまったかな。。)