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僕には歳の離れた姉が一人いる。彼女は尋常じゃないくらい頭が良く、将来を有望視されていた。
だが、三年前の大災害以来引きこもってしまった。
その頃からだ、何もかもおかしくなり始めたのは。部屋から一歩も出ず、時折ヒステリーを起こす姉に疲弊しきっていた両親に対し、僕は面倒をかけないように、と聞き分けの良い子であり続けた。
そうやって何年も少しずつ我慢を重ねていくうちに、僕も疲弊しきっていた。
「君、今にも泣きそうな顔してるね」
そんなときに僕はあの人に出会った。
家を離れたくて、一人でベンチに座っているときに声をかけられたのだ。
常識的に警戒するべきだが、そのとき僕は見ず知らずの相手に身の上を何もかも話してしまった。
一目見たときにわかったからだ。この人なら大丈夫、きっと僕を助けてくれるんだって。
あの人は僕の話をひとしきり聞いた後、あっけからんとこう言ったのをよく覚えてる。
「じゃ、君のお姉さん、救っちゃおうか」
もちろん始めは無理だ、と否定した。両親が何年もかけても手に負えなかったんだ。
事情を聞いたばかりのあの人と僕の二人で出来ることなんて何もない。
「でも、君もつらいんでしょ?」
そうだ。
ずっと一人きりで何かに苦しめられてる姉を見るのが辛い。
毎日疲れ切った顔をしている両親を見るのが辛い。
そして、何もできない無力な自分が辛い。
せめて負担を増やさないようにと我慢することすら限界な自分が辛い。
「とにかくやってみようよ。私は君の助けになりたいんだ」
あの人はとにかく困ってる人を放っておけない人だった。
頭より先に体に動いて、並外れた行動力で大抵のことは何とかしてしまった。
しばらくいっしょにいるうちに、もしかしたら本当に何とかできるんじゃないかって思えるようになった。
だけどある日、あの人は僕の目の前で消えてしまった。
いなくなったとかそういう比喩的なことではなく、僕の目の前で透明になって見えなくなってしまったんだ。
このとき、自分の話ばかりしてあの人のことを何も訊かなかったことを後悔した。
年齢も名前もあの人のことは僕は何も知らなかった。
すぐに警察に相談した。
だけど、名前も知らない人間が目の前で消えたなんて話なんて、誰も信じてはくれない。
妄想だとか精神疾患だとか散々な言われようで、頭にきた僕は愚かにも警官に手を上げてしまったんだ。
その後はもうぐっちゃぐちゃだった。
学校でもあの人のことを話し回ってたせいで、僕の周りには誰もいなくなった。
孤独になった僕はふさぎ込むようになり、そんな中で両親が色々と手を回してくれた。
そして、気持ちに整理が着く頃には休学することになっていた。
それからつい最近まで、僕は何かに憑りつかれたかのようにあの人を捜索し続けていた。
僕の中で欠けてしまった何かをずっと探していたんだ。
〇
花芽とデートをした次の朝。つまり、僕の輝かしい新生活の二日目の朝だ。
僕はいつも通り栗と登校しようと待ち合わせ場所に向かった。
「おはよう栗!今日も快晴、まるで僕の新たな学校ライフを祝福してくれてるみたいだね!」
「………」
返事がない。栗はぼーっと地面の方を見つめたまま突っ立っていて、僕に気づいてないようだ。
「おーい、栗さんや。君の敬愛する大先輩がやって来たっていうのに挨拶もなしなのかな~?」
………反応はなし。
いつもなら、「先輩、若干キモいです。というより、すごくキモいです」なんて言って、暴力に訴えようとする頃なのだが……
「まあ、そんなに気づかないのなら仕方ないや。何されたって文句はないよね?」
僕は栗の背後から、手持ちの冷えたペットボトルをそっと栗の首筋に添えた。
「ひゃっ!?」
栗は大袈裟な声を上げて飛び跳ねた。
僕は、次の行動を予測して栗から離れた。
そして、身構えること数秒。
「………あれ?『何するんですかこのヘンタイ!!』とか言って鞄を振り回すのかと思ったけど」
「……すみません、何だか今朝から頭がぼーっとしちゃってて。おはようございます先輩」
「君との登校がかつてない程平和で僕はすごく拍子抜けしてるんだけど、何かあったの?栗、そんなに朝弱い訳じゃないでしょ」
栗との登校は半年前からの習慣だ。もちろん僕は昨日までは休学中だったのだが、栗の登校に毎日途中まで着いていっていた。
「………いえ、夜更かしとかはしてない…んですけど、栗にもよくわからないです……」
「ふーん、じゃあ今日は君の言うパワハラとやらを思う存分一方的にこてんぱんにしてやろうと思う……んだ、けど………あ~、やっぱ調子狂うな。どこかが痛い、とかじゃないよね?」
「心配してくれてありがとうございます。痛みはないのでだいじょぶです」
あまり大丈夫そうには見えない。
これまで後輩らしい態度なんて見せたことがないのに、素直すぎる。
もっとも、今は同級生なのだが。
「それならいいけど………」
「…………」
「…………」
……栗が静かすぎて間が持たない。もう少し落ち着けばいいとは前々から思っていたが、ここまで大人しくなられても困りものだ。
「そうだ、僕の昨日の話、気にならない?」
あんなに花芽を警戒していたのだ。少しは食いついてくるだろう、と思っていたのだが……
「あ~、花芽ちゃんとデートしたんですよね」
興味がなさそうだった。それより、気になることがある。
「花芽ちゃん?いつからそんなに仲良くなったんだ?」
「あれ?私今、そんなこと言いました?」
「うん。まあ僕が花芽のことを呼び捨てにするのは別におかしくないんだけど、栗はむしろりっちゃんって呼ばれて怒るくらいだっただろ」
「昔から栗のことりっちゃんって言ってた気が………昔?それっていつのことでしょうか?」
「僕の方が知りたいよ!!」
なんだか本当に調子が悪そうだった。
昨日のことをさり気なく自慢してやるつもり、だったのだが、登校中はずっとこの調子で半分くらい話が嚙み合わなかった。