6
廃ビルの屋上から見えるのは一面に広がる虚空。
空間そのものが抉り取られたかのように、町も大地も何もかもが消失していた。
この場所は僕ら以外の誰にも見つからずにひっそりと佇み、虚空に射す斜陽も相まって神秘的な空間を演出していた。
「この場所を知っているってことは、もしかして僕が教えたのか?」
三年前に起こった未曾有の大災害の残骸。ここ一帯は立ち入り禁止区域となっており、僕らは不法に侵入した。
「ええ、よく連れて来られたのよ。ここからの眺めと比べると自分の悩みがちっぽけに思えるようになるってね」
その災害は何の前触れもなく起こった。ある日突然一つの町が丸ごと消失したのだ。
「あなたは世界の歪みと呼んでいたわ。この現象は未来でも原因は解明できていない。あなたはずっと調査を続けていたのだけどね」
僕が昔住んでいた場所。あの人と出会った場所。そして、あの人が消えた場所。
この一年間この場所に関することは徹底的に調べ尽くした。
だが、何一つわかったことはなかった。
所詮ただの16歳に調べられる範囲には限界があったのか、もしくは本当に何も情報がないのか。
どちらにせよ手がかりは全くないままなのだ。
「一人きりのとき、ときどきここに来ることはある。でも、わざわざ花芽が僕を連れてきたかったのはどうして?ここが立ち入り禁止なのはわかってるよね」
消失が起こった土地の周辺一帯は国が買い取っている。
名目上は発電所の爆発とされ、残留物が人体に危険性があるという理由で封鎖されているのだ。
ここに忍び込み続けた僕の経験則では、訪れる人間はいない。
消えてしまったあの人を除けば……
「あたしの高校生活は全部優で出来ているの。好きなものも想い出も全部未来のあなたがくれた」
花芽は巨大な虚空を愛おしそうに見つめる。
「初めてこの場所を見たとき、あたしの世界は変わった。何もなかったあたしは優で全部塗りつぶされたのよ」
「そんな身に覚えのない僕の話をされたって知らないよ」
未来の僕が花芽に何をしようとも、今の僕とは全くの無関係なのだから。
「それでもいいわ。それでも、あたしはあなたからもらったものを少しでも返したいの」
「なら、今じゃなくて未来の僕に返せばいい」
「それは無理よ」
彼女は虚空の方を向いたままぼそりと呟いた。
「もう絶対に無理なのよ」
なんとなくわかっていた。天華院花芽が未来の僕と結婚しているのであれば、わざわざ過去に来る必要はない。
つまり、未来の僕はもういないのだろう。
「今の僕は未来の唸木優じゃない」
「そうね……」
「君が嘘っぽい理由がわかった気がするよ」
花芽が僕に向ける好意の違和感の正体だ。彼女は今の僕を見ていない。だからこそ、好意を純粋に受け入れる気にはなれなかったのだ。
「たしかにあたしは未来の優も大好き……だから疑われても仕方ないわ。だけど、一つだけ信じてほしい」
花芽は僕の方へ向き直ると、僕の手を握る。
「あたしは今の優を幸せにするためにやってきたの!!」
彼女は僕を真っ直ぐ見ていた。
見透し、奥の未来の影を捉えるのではなく、ただ真っ直ぐに今の僕を見ていた。
「校門であたしのこと助けてくれようとしたのよね?」
「うん……ノープランで結局何もできなかったのが恥ずかしいけど」
「違うわ!あなたの行動は確かにあたしに届いた。あのとき優はやっぱり優なんだって確信したもの」
「そっか…よかった……」
少しあの人に近づけた気がする。誰かを助けたいとした行動が通じたのだから。
もっとあの人のようになれるとしたらいつか―――
「あなたの方こそあたしを見なさい!!」
勢いよく両手で僕の頬を挟まれた。勢いが良すぎて、平手打ちを両側からされたかのように痛みが走る。
そして、ぐいっと彼女の顔の方へ引き寄せられる。
「いい?たしかにあたしを助けようと思ってくれたのは嬉しかったわ。だけど、あなたは自分のことを何も考えてない。ボディーガードたちはすごく強いのよ。その上一歩間違えれば、天華院家を敵に回していたかもしれない。わかってる?そうなったら、優はこの先まともに生きてくことが出来なくなるのよ」
「それは……」
あのとき、花芽を助けなければという気持ちでいっぱいで、自分がどうなるかなんて全く考えていなかった。
「誰のために助けようとしたの?あたし?それともあの人?」
花芽は絶対離さないと言わんばかりに僕を見つめる。
「君は本当に何でも知ってるんだね……」
花芽は知っているのだ。
僕が去年どうして前の学校を退学して、一年間の休学を余儀なくされたのか、を。
僕がこの一年間どんな思いで過ごしてきたのかを。
現実的な手段では消えたあの人と再び会うことは叶わない。
だから、僕を救ってくれたあの人と同じように、誰かを助けられる人間になれば何か変わるんじゃないかと思ってた。
「どれだけ人を助けたとしてもあの人へは届かないわ」
ただ縋ってるだけなのは自分でもわかっていた。
「だとしても、僕は縋り続けることしかできないよ。他には何もないから……」
「いいえ、あるわ。ちゃんと今を見なさい」
さらに僕の顔は引き寄せられる。
少しでも体勢を崩せば唇が触れてしまいそうなくらい、顔が近い。
「あなたは再び学校へ通い始めた。それって前を向こうとして頑張ったってことよ。あたしは知ってる。心配しなくても優の周りには人が集まってくるわ。それから……」
花芽は言葉を一度切ってから、続きを口にした。
「あたしがいる。あたしは今の優が好き。背伸びしなくたって今の優で十分素敵だわ」
「っ……」
今度こそ本当に純粋な好意。
花芽の掌が冷たく感じるほど顔は火照り上がり、心臓は痛みを感じる程に激しく脈打っていた。
「あたしは優のためにやってきたの。このままの平凡で普通な唸木優が幸せになれるように。もう頑張らなくてもいい。ずっと辛かったのよね?」
「……うん」
一年前僕は全てを失った。あの人は消え、友だちも全て失い、学校を辞めざるを得なくなった。
ずっと喪失感に苛まれてきたのだ。
「涙……」
「えっ?……」
言われて初めて自分の目尻から涙が顔を伝っていることに気づいた。
涙の感触が、溶け切っていた頭が急速に冷やす。
今、僕と花芽は唇が触れそうなほど接近しているのだ。
「悪いっ―――」
花芽からすぐさま離れると、顔を背けた。
涙と照れとでぐちゃぐちゃになった顔を見られるのは恥ずかしかった。
「でも……ありがとう」
「ええ……存分に感謝なさい。それから、あたしに存分に甘やかされなさい」
僕は涙を両手で拭き、顔の火照りも冷めたことを確かめると花芽の方を向いた。
「あれ?どうして君の方も照れてるの?」
日が落ち、辺りはすっかり暗くなっていたが、それでもわかるほど花芽の顔は真っ赤だった。
「い、いえ……冷静になると優の顔がとても近かったから……」
花芽はもじもじと落ち着かなさそうにしている。初恋を知った少女のようにうぶな反応だった。
「未来の僕と結婚してるならこんなこと普段からやってたんじゃないのか?」
「籍は一応入れたのだけれど、その頃からはお互い忙しくてほとんど会ってなかったし……学生時代は付き合っていなかったから、なんかすごく新鮮で……」
「いつもの強気な君はどこいったの?キャラ崩壊してるけど」
「仕方ないじゃない。あたし、世間知らずのお嬢様よ。今までにお付き合いしたことがある相手ってあなたしかいないんだからね!」
「テンプレツンデレっぽいのにセリフが重すぎる」
「勘違いしないでよね!あなた以外興味がないんだから!!」
「わかったっ!君の気持ちは十分わかったから!」
ダメだ。こっちまでどんどん恥ずかしくなってくる。
話題を変えることにした。
「空、見よう」
夜空には満天の星が輝いていた。
「皮肉なものよね。全てが消えたからこそ輝いて見えるものがあるなんて」
ここでは空と僕らを遮るものなんて無くて、澄んで見える。
だからこそ、この場所が僕にとって嫌な思い出だけの場所ではなかった。度々訪れたいと思えたのだ。
「ちょっとだけ見たら、帰ろっか」
春先とはいえ、夜に野外でじっとしていたら体が冷えてしまう。
「ええ」
少し間を開けて隣合わせで座った。この距離が今の僕らの関係だ。将来は結婚しているのに、まだ出会ったばかりの僕らの。
それから、互いに黙ったままぼんやりと夜空を見つめ、どちらが言い出したか満足した頃に切り上げ、帰路に着いた。
花芽を家まで送るつもりだったが、今頃使用人たちが大慌てで探しているからむしろいっしょにいるところを見られない方がいいという理由で途中で別れた。
一人で家に着いたときに気づいた。
僕の心に空いていた大きな穴が、温かいもので少し埋められていたんだ。