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花芽の無事な姿が目に入ると、急に体に力が入らなくなった。
全身の力を使い切ったのだ。
僕も花芽の隣で仰向けになる。
「やっぱり、この夜空を見てるとあたしの悩みなんてちっぽけに思えてくるわね」
真っ黒な空にたくさん星々がちりばめられているのが見える。
「そうだね。僕らはちっぽけだ」
花芽の方に顔を向けると、目が合った。
互いに合図したわけでもなかったが、この後どうなるかは自然にわかった。
身を寄せ合い、顔がすぐ傍まで近づいていた。
花芽は目を瞑り、唇を突き出す。
僕も自分の唇をゆっくり近づけていき―――
「ストップ!!ストーップ!!ストーーップです!!」
僕らの唇の間に栗の手のひらが挟まる。
「さっさとずらかりますよ」
栗が誘拐犯を捕えて、僕ら二人をのぞき込んでいた。
「わざわざあたしたちのキスを邪魔しなくてもよかったんじゃないかしら」
花芽は立ち上がると、栗を押して僕から離そうとする。
「へー、強がりですか?成人してからもキス一つで顔を真っ赤にしてたくせに」
「そっ、そんなことはないわっ」
しどろもどろになる花芽は俯いてもわかるくらい顔が赤かった。
その姿を見ていると、我に返ってさっきのことを思い出した。
僕は花芽とキスをしようとしてたなんて―――
「はいはい、先輩も冷静になって照れるとかそーゆうのいいんで、急ぎますよ」
「もう犯人は捕まえたんだから、急ぐ必要ないんじゃないか」
だいたい僕にはもう立ち上がる気力もない。
「もうすぐ、ここに天華院啓曹がボディーガード総出でやってきます」
「りっちゃん、あなたが呼んだのね」
栗は頷いた。
二人で助けに行きたいと僕の無茶な要望の飲みながらも、現実的な代替え案も考えていたということだろう。
「まだ、解決しなきゃいけないことがありますからね。例えば、花芽ちゃんがどうして消えなかったのか、とか。………お化けじゃないですよね?」
栗は花芽の体をぺたぺた触って確かめている。
「あたしが無事なのはもちろん―――」
僕に視線を向けてきた。さっきの余韻が残っているからか、少し照れ混じりの視線だったが。
「愛の力よ」
「そんなわけないじゃないですか。きっと理論的証拠が何か―――」
「ぷっ……りっちゃんが理論なんて口にする日が来るなんてね。どうやって敵を倒すか、と今日の晩御飯くらいしか頭に入っていないと思ってたわ」
吹き出す花芽に、栗は飛び掛かる。
さっき脚に怪我を負ったとは思えない動きだった。
「じゃあ、栗の頭に入ってる敵の倒し方を今から実践してやりますよ」
「やってみなさい?今のあたしは愛の力で無敵よ」
二人で取っ組み合いだした。
もちろん、本気の殺し合いとはかけ離れた遊びのじゃれ合いだ。
「逃げるんなら、早く逃げようよ」
僕の言葉は届かずに、そっちのけで取っ組み合いを続けている。
そうこうしているうちに、車のエンジン音が聞こえてきた。それも一つではなく、かなりの数だ。
「ほら、言わんこっちゃない」
二人も気づいたようで取っ組み合いを止めた。
「思ったより早かったですね。じゃあ、行きますか」
栗と僕が階段へ歩き出そうとしたとしたが、花芽だけ動く素振りを見せなかった。
「あたしはいいわ。二人はさっさと逃げなさい」
「えっ?……父親が来るとまた軟禁状態になるのに…いいのか?」
誘拐があったことで、おそらく父親の束縛はさらに厳しくなるだろう。
花芽は犯人に丸一日監禁されていたのだ。せっかく得た自由を手放すような真似を僕は理解できなかった。
「だからこそよ。本当の問題は何も解決してない。あたしはお父様に立ち向かわないといけないのよ」
「でも……」
言い淀んだのは栗だ。理由はなんとなくわかった。
「前回は僕が花芽の父親に立ち向かってなんとかしたんだな」
「そうよ。前の優はお父様にボディーガードより自分の方が有用だと示すことで、あたしの自由を約束させたのよ」
流石、優秀な方の僕だ。なかなか機転の利いた手段を取ってる。
「ちなみに、具体的にはどうしたんだ?」
「ボディーガードと決闘したわ。ボロボロにされたけれど、諦めが悪すぎたせいでお父様が折れたのよ」
「今の僕とあんまりやってること変わらないよね!?」
比べられて全否定された僕の惨めな気持ちを返してほしい。
「でもやっぱり違うわ。前のあたしは何もせずにただ助けられただけだったもの。だからこそ、今度は自分の力で証明しないといけない」
栗はさっきから黙ったままだ。
父親に花芽が立ち向かうかどうかが時の分岐点、とでも考えているのだろう。
今度は本当に花芽が消えるかもしれないことを恐れているのだ。
「………僕も残るよ。別に愛の力を信じてるわけじゃないけど、さっきだって僕らが来たから花芽が消えなかったのかもしれないし」
「消えてしまってからでは遅いんですよ」
栗は花芽に案ずるような視線を向ける。
「りっちゃん、実はけっこうあたしのこと好きでしょ?」
「茶化さないでください!だいたい、花芽ちゃんも優先輩も不安じゃないんですか?」
花芽は栗の肩をぽん、と叩いた。
「たしかにさっきは震えが止まらなかったわ。でも、消えるかもしれないからって何もしないなんて、前回の人生と同じよ。あたしたちは、それを変えに来たんでしょ?」
花芽は屈託のない笑みを浮かべる。それこそ恐怖なんかが入り込む余地のないくらいに。
「優も気持ちは嬉しいけれど、あたしは一人でも大丈夫。いいえ、むしろ一人で向き合うべきなのよ」
この笑顔の裏側に弱さを孕んでいることを知っている。
本当は少し強がっていて、不安が隠れていることを知っている。
「僕は花芽の力になる気はないよ。君の言う通り、君の問題に君一人で向き合うことに水を差したりはしない。だけど、これはもう君だけの問題じゃないんじゃないか?」
「あたしだけじゃない?」
「ああ、もう僕の問題でもある。僕は花芽といっしょに日常生活を送りたいんだ」
「それ、結局あなたのわがままってことよね?」
花芽は僕に怪訝な視線を送る。
「そう。ただの願望だ」
優しさとかじゃない。そんなものは重要じゃないんだ。
「僕は僕自身のためと、それから僕と君のこれからの関係のために、いっしょに立ち向かうよ」
花芽は少し悩んだが、最後は頷いた。
「………ま、あたしのことが好きすぎるってことね。いいわ、許可してあげる」
僕は栗に視線を送る。それで、どうなんだ?という視線だ。
栗はこれまでで一番大きなため息をついた。
「……仕方ありません。後でどうなったかちゃんと教えてくださいよ」
栗は僕と花芽に背を向けて去っていった。
「さてと……邪魔者がいなくなったことだし、心行くまで愛を深め合いましょう!!」
栗が屋上の扉から出た瞬間に、花芽は僕に飛びつこうとし―――
「言い忘れてましたけど、先輩に手を出したら許しませんから」
「ちっ………潔く去りなさいよ」
栗は最後に花芽を睨むと、今度こそ本当に去っていた。
「覚悟はできてるかしら?」
二人きりになった後、花芽は真面目なトーンで僕にそう訊いてきた。
「僕のことは何でもわかるんじゃなかったか?」
花芽は首を振った。
「わからないわ。だって知り合ってまだ数日よ。決めるのは全てあなた」
「たしかに」
僕は軽く笑い、そして少しの間を置いてから答えた。
「僕はいつか天華院花芽と結婚するかもしれないんだ。それくらいの覚悟はもう決まってる」
花芽の父親には色々なことを言わなくちゃいけない。
誘拐のこと、犯人のこと、花芽のこと、僕のこと、僕と花芽のこと。
花芽の命の危険があったからこそ、彼が自由を制限してまで花芽を守ることには説得力があった。簡単に否定はできない。
だけど、僕は花芽と二人ならなんとかなる気がした。
これまでの花芽への妄信とは違う。花芽のことを信じ、僕自身のことも信じている。
もう僕らならちゃんと向き合える。
お前は花芽の何だ?ともう一度問われたら、僕はこう答えるつもりだ。
それを決めるのはこれからだ、って。