25
これまでの人生において吹っ飛ばされるという経験をしたのは初めてだった。
栗に蹴られて、壁まで吹っ飛んだのだ。
おかげで栗のお母さんが心配して部屋に入って来てごたごたしたのだが、何とか誤魔化した。
それから、再び向かいあわせに座り落ち着いてから、僕は自分に起こったことを詳しく説明した。
「……なるほど。たしかに先輩からすれば、巻き込まれっぱなしだったというわけですか」
やっと僕の苦労をわかってくれた。
みんな自分が知っているからって僕に説明しなさすぎだ。
「一つ質問なんだけど、栗と花芽って未来ではどういう関係だったんだ?」
「そう……ですね。いい友だちだったと思いますよ。一時期は対立したりしましたが」
栗は懐かし気に目を細めた。
言葉以上に二人が親密であったことが伝わってくる。
「だったら、どうして助けにいかないんだ?」
栗は視線を落とす。
「理由の一つは、出来るだけ過去に干渉したくないからです。もう一つは、どうせ意味がないからです」
「意味がないってどういうことだよ?未来に戻れないんだったら、誘拐なんて大事件なんじゃないのか?」
「……優先輩にまだ言ってないことがあるんです」
よっぽど言いたくないことなのか、栗は視線を落としたままだ。
僕は口を挟まずに続く言葉を待った。
「未来からやってきた栗たちはですね………いずれ、存在ごと消えるんです」
存在が消える、そのことを良く知っている。
存在が消えるということは誰からも忘れ去られるということだ。
友だちからも。家族からも。そしてもしかすれば僕からも。
「一度目の前で見た先輩にはあまり驚くことではなかったですか?」
「そうじゃない!!どうして……どうしてそれを知っていながら過去に来たんだよ!?」
「もう栗にはこの方法しかなかったんですよ」
ずっと前からの覚悟だったのだろう。栗の声に揺らぎはなかった。
「花芽は?花芽は知ってたのか?」
「いえ、知らなかったと思います。知ってたら、悠長に先輩を変える、なんてほざいてないでしょうから」
栗には時間がなかったのだ。未来の唸木優を止めるには、すぐにでも僕をどうにかする必要があった。だから、なりふり構わず襲ってきたのだ。
「ちょっと待って。もしかして、あの人も未来から来たってことか?」
「あの人……一年前の先輩の前で姿を消した女、ですね」
栗は眉間に皺を寄せる。
「おそらくあの人も未来人です。とはいえ、未来でも存在が消えたままですから記録に過ぎません。時間で言うと、今から三年前に巨大な世界の歪みが観測され、その後一年前に小さな歪みが観測されました。三年前にやってきて一年前に消えたんだと推定されています」
世界の歪み、花芽からも同じ言葉を聞いた。
「じゃあ……三年前の災害はあの人が未来から来たことで起こった?それなら―――」
「もう災害は起こらないです。栗たちは先人が開けた大きな時間の歪みを利用して来てるんです。これ以上大きな時間の歪みは起こらない、と聞かされています」
「そうか……でも二年後には二人とも……」
「いいえ。時間はもうないんです。花芽ちゃんはすぐにでも消えてしまいます」
「っ!―――」
僕は無意識に奥歯を嚙みしめていた。痛みが頭に響くくらいに強い力で。
散々僕を、僕の心を振り回しておいて、消えるなんて許せない。
「人はそれぞれ定められた時間の流れを持っています。その流れは通常大きくずれることはありませんが、人生の中でその流れが変わってしまう分岐が発生する点がいくつかあります。そして、もし未来の人間が分岐を自ら変えた場合、時間の流れに矛盾が生じ、その人間は消滅してしまうんです」
「つまり、もう花芽は変えたのか」
「そうです。先輩と出会ったあの日、本来は先輩に助けられるはずだったのに花芽ちゃんは拒んだ」
花芽と初めて出会った日、たしかに僕は花芽を連れて逃げようとしていた。
だけど、何故か助けられるのではなく、逆に花芽に連れられていっしょに逃げる羽目になった。
「あんなことで―――」
「あんなことじゃありませんよ。花芽ちゃんは優先輩と出会うことで人生が変わったんですから。内気で親の言いなりだった花芽ちゃんは、先輩と過ごすことで少しずつ前向きで明るい性格になっていくんです。まあ、かなりわがままにもなりましたが」
たしかに花芽は父親に束縛されている。内気な性格として育ってもおかしくはない。
「とにかく、もう花芽ちゃんは助からないんです」
助からない、栗は断言した。
だけど、僕はここに来る前から決めていることがあった。
例え何を知ったとしても、どんな状況になったとしても、また命を狙われても、絶対に変えないと決心していたことだ。
僕は自分の決心をはっきりと口にした。
「それでも、僕は花芽を助けにいくよ」
「それが、どういうことかわかってます?」
「もちろん」
僕がしようとしていることが、栗にとって、花芽にとって、どういう意味を持つのかはちゃんとわかっている。
「いいえ、わかってません!!先輩は栗や花芽ちゃんの覚悟を全部無駄にするつもりなんですか!?」
栗は机をバシンと叩いた。
「もう一度、先輩の末路を説明してあげます。先輩にとっての分岐は花芽ちゃんを助けることでした。先輩は元々優しかったですが、花芽ちゃんを助けてから無鉄砲さと行動力が加わり拍車がかかります。先輩はどんどん色んな事件や困りごとを解決していくんです。最初はクラス内のような小さなことに対してですが、次第に大きなことに取り組むようになっていきます。先輩は優しさだけで凄いことを成せるような人物になり、たくさんの人を救いました。だけど!それは同時に先輩自身の心を傷つけることでした。人を助ければ助けるほど先輩の心は蝕まれていき、最後には心が壊れて、たくさんの人間を殺め、世界を滅ぼそうとするんです!」
「うん。でも花芽は今誘拐されてる。それに消えかかってる。だから助けに行く。僕はそれでいいって思ってるよ」
「そのために世界が滅んでもいいんですか?これは言わば、花芽ちゃんか世界か、を天秤にかけた究極の選択なんですよ。たった二人の犠牲で世界が救われるなら、それが正解です!!」
「そうじゃない。そもそも今と未来を比べること自体が間違ってるんだ」
「どういうことですか?ちゃんと説明してください」
殺気を感じる。それは普通に生きていたら、知ることのない感覚で、何度経験しても恐ろしい。
だけど、僕は怯むつもりは毛頭なかった。
「今、花芽を助ける。それから、未来を滅ぼさないように考える」
「駄目です。それだと前と同じ、また同じ結末になってしまいます。先輩はここで止めないともう止まらない」
「同じじゃないよ」
僕は栗の手を握った。
「全然同じじゃない。だって未来から来た花芽と栗がいるんだから」
栗は僕の手を振り払わず、大人しくしていた。話を最後まで聞いてくれるようだ。
「ここ一週間くらい君と花芽には振り回されっぱなしだった。でも、それで僕はたしかに変わった。今までの君たちの行動は絶対に無駄じゃなかった」
「いいえ、無駄ですよ。それとも、何か根拠でもあるんですか?」
「僕はここに来て最初に、栗に助けてほしい、と言ったんだ。前の僕でも同じことを言った?」
栗は少し驚いた顔を見せ、それから首を横に振った。
「いえ、たしかに前の優先輩はそんなこと言いません」
「僕は栗に助けてもらいに来たんだ。だって普通に考えて、花芽の居場所なんてわからないし、わかっても誘拐犯から僕一人の力で助け出すなんてできないんだから」
栗はため息をつくと、再びどっしりと座り込んだ。もう殺気は感じられない。
「自分で助けると言っておきながら結局は人頼みって虫が良すぎます」
「でしょ?」
「誇らしげに言うところじゃないです」
「花芽に出会う前の僕は今まで人を助けることを何か高尚なことだと考えてた。人を助けることで自分が変われるとか、助けるためにはすごいことをしなくちゃいけないとか。とにかく助けないとって、多分色々すっ飛ばしてたんだと思う。でも気づいたんだ。そんなことより一番大事なのは、相手を助けたいと思う自分の気持ちだって」
ずっと考えてた。どうしてこの先僕が取り返しのつかない間違いを犯すのか。今の時点で間違えてることがあるんじゃないか。
けれど、何が間違いかはわからなかった。
「僕は未来の自分の過ちを正せるほど賢くはないよ。多分それ自体が間違いなんだ。すごい人間にならなくていい。ただ助けたいって気持ちだけで今の僕はいっぱいいっぱいだから」
「つまり、最悪花芽ちゃんを助けられなくてもいいっていうことですか?」
僕は頷いた。
「もちろん助けられるのなら助けたい。でも、仮に確実に助けられる代わりに大きなものを犠牲にするなら、僕は他の方法を探すよ」
「何ですかそれ。ほんとムカつきます。甘っちょろくて、身勝手で………未来だとそんなこと言ってられません」
栗はほとんどため息のような声を漏らした。
未来の僕と決定的に違うことに失望したのだろう。
でも、別に失望されたって良かった。それで栗が納得してくれるのなら。
「でも今は今だ。未来なんかじゃない」
「栗も花芽も、犠牲とか諦めるとかそんなことばっかり考えてる。過去の自分とか、僕の命とか、自分自身とか。未来がそういう世界なんだっていうのはもう十分わかった。だけど、今はそうじゃない。何かを犠牲にしたり諦めたりしなくたって希望は叶う。甘っちょろくて、身勝手で中途半端でもいいんだよ」
「甘っちょろくて、身勝手で中途半端………ですか」
栗は僕の言葉を反芻すると、肩をすくめた。
「まったく……今の先輩はほんとにダメダメですね。こんな先輩には世界を滅ぼすなんて大それたこと出来ません。でも、諦めの悪いところとか、真っすぐなところとか、そういうところはやっぱり先輩です」
栗は大きく息を吸い込むと、これまでで一番大きなため息をついた。
「ダメダメな先輩には、栗の助けが必要なようですね。まったく………貸し一つですから。今度コンビニスイーツ抹茶フェアコンプリートするまで奢ってもらいます」
栗は立ち上がって、クローゼットへ歩く。
何をするのかをじっと見ていると、
「着替えをじろじろ見るつもりですか?さっさと出ていってください」
「説明もなしに理不尽なんだけど。それで、どうして着替えるんだ?」
栗は口の端をちょんと立て、拳をぱしっと叩く。
「もちろん、花芽ちゃんを探しに行くんです」
その表情は今までで一番頼もしかった。