21
冷たい床の感触。
次に感じたのは、関節の痛み。
………いつものベッドじゃない。
あたしはすぐに目を開き、起き上がろうとした。
しかし、目を開いても暗闇が続き、体を起こすことはできなかった。
「ようやくお目覚めのようだな。お嬢様」
聞いたことのある声だ。
そして、声の主の正体がわかったところであたしは今の状況を大体把握した。
両手両脚を縛られ、目と口を塞がれている。
あたしは、誘拐されたのだ。
「数日前は車から突然逃げ出すから感づかれたのかと思ってヒヤヒヤしたぜ。だが運よくバカな父親が家に閉じ込めたおかげで、簡単に運び出せたがな」
この男は天華院家のボディーガードに扮して、ずっとあたしを誘拐する機会を狙っていたのだ。
前の世界では優に助けられて逃げ延びた後、この男は逮捕された。
だけど、今回は事件の前にあたしが逃げ出した。
だから、これまでにこの男は何もしていないことになっている。
あたしは油断していた。これまでに何度も誘拐されたことはあったし、もっと危険な相手に狙われたこともあったから。
「さて、お嬢様。今からお前の大好きなお父様に向けてビデオレターを送ってやる。いい声出せよ」
あたしは椅子に座らされ、口にはめられていた猿ぐつわが外される。
口が自由になった瞬間、噛みついてやるつもりだった。
だが―――
「ううっ!!」
お腹を蹴りつけられた。
「そうだ。そのまま大人しく呻いてろ」
「ふざけないで!あんた、絶対に許さないから」
あたしは威嚇するふりをして、周囲の音を聞き分けていた。
足音は三つ。
そして、あたしの口を自由にしたということは、どれだけ叫んでも誰にも気づかれない場所ということ。
「おい、撮影を始めろ」
「こんなことして許されると思ってるわけ。あんた、すぐ捕まって終わるわよ」
「口の減らねえガキだ。お前はうめき声だけ出してればいいんだよっ!!」
再びお腹を蹴りつけられ、あたしは苦悶の声をあげる。
ピッ、という音がなり、撮影が始まると男は語り始めた。
「見ての通り、お前の娘を可愛がってるところだ」
「うっ!!」
あたしはこらえたが、それでも声が出てしまった。
下手に騒いだところでさらに痛めつけられるだけだとわかっていた。
あたしに今できることは冷静に機を伺うことだけだ。
「ちっ、もっと痛がれよ。……もういい、妙なことを喋る前に口を閉じさせろ」
あたしの口に再び猿ぐつわが嵌められた。
「聞いたか?お前の娘の苦しむ声。だがなあ、俺の娘はもっと苦しんだんだよお!!」
感情にスイッチが入ったようで声を荒げる。
どうやら身代金目当てで誘拐したわけではないようだ。
「俺の娘は三年前の発電所の爆発事故で死んだ。おかしいと思わないか?何百人と犠牲者が出たってのに今じゃ世間ではもう忘れられてる」
世界の歪みと呼ばれる現象。巧妙に隠蔽され、単なる爆発事故ということにされた。
メディアが繰り返し取り上げることがなければ、関係の薄い人々はすぐに忘れ去ってしまう。
しかし、遺族だけは決して忘れることはない。
「色々と不自然なんだよ。なあ、発電所を所持していた会社は天華院グループ傘下の子会社だよな。
それから、事故の調査を担当したのも天華院グループの子会社だ」
お父様が隠蔽に関与していたことは大人になってから知った。
お父様は政界とも繋がりが強いから手際よく対応できたのだろう。
だが、世界の歪みの原因については、未来でも解明されていない。
「不公平だと思わないか?俺の娘が死んだってのに、事故の責任者である天華院啓曹は何のお咎めもなしに娘と毎日楽しく生活してやがる」
だんだんと声に怒気が混じり、あたしのお腹を何度も蹴りつける。
ムカついたが、じっと耐える。
もっと情報を引き出さないと。反撃はここじゃない。
「なあ天華院啓曹、何を隠してる?」
椅子に座らされていたあたしは、首を絞められたまま立ち上がらされた。
「こいつの命が大事なら、3日以内にお前が隠していることを公表しろ。さもなければ、こいつは殺す」
男の狙いはわかった。
そして、密着している今この状態はチャンスだ。まさか両手両脚を縛られたあたしに抵抗されるとは思っていないだろう。
「天華院啓曹、お前を必ず破滅させてやる」
男が撮影を切ろうとする。
今だ。
まずは重心をずらし、男の体重を利用して―――
体に上手く力が入らないことに気づいた。全身に広がる違和感と寒気が襲ってくる。
痛みのせいじゃない。これは過去の自分を奪った罰だ。
時間遡行の副作用が今更現れたのだ。
「後はこれをやつに送り付けるだけだな」
乱暴に床に叩きつけられた。
「最後にあいつの前でお前の命を奪うのが楽しみだ」
顔は見えないのに、男が歪んだ笑みを浮かべているのが目に浮かぶ。
痛みと不調で考えが上手くまとまらない。
こんな状況のとき、いつもどうしてたかしら?―――脳裏に浮かんだのは優の姿だ。
優はあたしがピンチのとき、いつも助けに来てくれた。
どんなときでも危険を省みず、あたしの前では何てことないって言わんばかりの笑顔を見せるのだ。
だけど、そんな優はもういない。
あたしのヒーローをあたしは二度も消してしまった。
一度目は自らの手で殺め、二度目は人生を捻じ曲げて凡人へと変えた。
「それまでは、たっぷりと憂さ晴らしに付き合ってもらうぞ」
それから誘拐犯はあたしを痛め続けた。
言動が衝動的だから、杜撰な計画だと思っていた。だけど、あたしが思っているよりずっと周到で大規模な計画のようだ。
そして、お父様が来たとしても、復讐心でいっぱいのこの男は間違いなくあたしを殺す。
きっとここがあたしの最期だ。そう悟った。
これまで多くの罪を重ねてきたあたしには相応しいのかもしれない。
それに、あたしの目的はもう達成できたのだ。
償いがしたかった。
世界のためだとか色々と理由を付けて過去に来たけれど、本当は全部優のためだ。
ずっと傍で優を見続けてきた。
優はいつでもあたしや誰かのために行動し続けた。
その結果自分がつらい思いをするとしてもお構いなく。
きっと世界を滅ぼすなんて決断に至ったのも誰かのためだ。
そんな優をあたしは見ていられなかった。
殺す前の彼はほとんど壊れていた。だから、優の未来を変えたかったのだ。
たとえ、平凡な人生になったとしても。
たとえ、自分を肯定できなくても。
たとえ、あたしと結ばれる未来がなかったとしても。
もっと自分のことを考えてほしかった。
周りを不幸にしたとしても自分自身の幸せを追い求めてほしかった。
優の未来が少しでも良くなるのであれば、それで良かった。
だけど………もう少しだけ望んでいいのなら、優と幸せな人生をいっしょに過ごしたい。
どうせ叶わないとは、わかってる。
過去を変えた結果、今の優には拒絶されたし、もう助かりそうにもない。
だから、全く無意味な妄想なのだけど、終わらない痛みを紛らわすには丁度よかった。