18
その日はよく晴れていた。
私、天華院花芽は車窓を眺めながら、時折視界に入る桜をぼんやりと見つめていた。
父が主催するパーティーに向かう途中だった。
車内には付き人が二人、一人は運転席に座り、もう一人は助手席に座っていた。
一方の私は新品のドレスに着飾られ、まるでお人形のように後部座席にちょこんと座っていた。
付き人が私に話しかけることはなく、私から付き人に話しかけることもない。
車内は常に沈黙していた。
沈黙は車内に限った話ではない。私の日常は沈黙に満ちていた。
家内や学校内であっても私に話しかけてくるような人間はほとんどおらず、もちろん私から話しかけることもない。
そんなお一人様のプロである私は、この沈黙の時間を少しでも華やかにする術を熟知していた。うち一つが流れる景色に四季を見出すことだ。
私を乗せた車は目的地の会場へと淡々と進み続ける。
もう何度も通った道なので、どこに桜があるかまでも完璧に覚えていた。
だから、異変にはすぐに気づいた。
いつもとは違う道に入った。ビルに挟まれて薄暗く、往来の少ない道だ。
「道、間違えてないか?」
助手席の付き人も妙に感じたようで、運転手を訝しむ。
「いや、こっちであってる。なぜなら―――」
運転手は一度言葉を区切り、次の瞬間、思い切りブレーキをかける。
「ここで降りるからな」
身を前に投げられそうになるが、シートベルトが食い込み、私の体を支える。
しかし、意識はふらりとよろめく。
ゴンッ、と鈍い打撃音がした。
このときの私には見えていなかったが、運転席の付き人が助手席の付き人の頭を叩きつけていたのだ。
助手席の付き人は意識がないのか、じっとしたまま動かない。
「さあお嬢様、いっしょに来てもらおうか」
運転手が下卑た笑みを浮かべて私に手を伸ばす。
もはやボディーガードではなかった。黒服の彼らは表情を顔に出さない。
(いや!……)
拒絶したいのに声が出なかった。体も動かない。
唯一動く心臓は勝手にバクバクと鳴り響いている。
男は私の腕を掴み―――
「お嬢様っ!!」
助手席の付き人が運転手の男に掴みかかる。気絶したふりをしていたのだろう。
「お逃げください!!」
私は頭の中が真っ白だった。
前方の座席で男たちが激しく取っ組み合う様を、唖然と見ている。
「急いで!!」
私の傍のドアが自動で開いた。
ボディーガードが隙を付いて、運転席のボタンを押したのだ。
私はそこで我に返り、車を飛び出した。
動揺から方向もわからなかったが、とにかく逃げた。少しでも遠くへ。
途中でヒールは脱げた。
走る度にアスファルトが足裏をガリガリとひっかいて痛い。
背後から足音が聞こえ始める。
必死に脚を動かすが、足音はどんどん近づいてくる。
息が苦しい。限界が近いことがわかる。
追いつかれる―――そう確信し諦めかけたとき、声がした。
「着いてきて!」
顔を上げた。正面にいたのは見知らぬ少年だ。
少年は私の手を優しく握る。
このとき、私は不思議と心が軽くなった。この人なら大丈夫、きっと私を助けてくれるって。
すると、不意に視界がぼやけた。世界が曖昧になり、次第に消えていく。
そうか、これはあたしがまだ私だった頃の記憶―――
目を開くと、薄暗い天井があった。
やたらと柔らかいベッドの感触とだだっ広い部屋を認識し、あたしは現状を理解し始めた。
優のマンションでお父様に待ち伏せされていた。
そして、ボディーガードに意識を刈り取られて、家に連れ戻されたのだ。
ここはあたしの部屋。
外は暗いからそんなに時間は経ってないはずだけれど………優は?
すぐに部屋から出ようと、ベッドを降りドアノブに手をかけた。
しかし、ドアは開かない。お父様が外側から鍵をかけていたのだ。
今まで敷地内から出られないことはあっても、部屋に閉じ込められることはなかった。
なんだか心細くなってきた。優―――
(ダメ!!)
浮かんできそうになる気持ちに蓋をした。
こんな気持ち抱いてはいけない。
もうあたしにはその資格がないのだから。
それよりも、自分の心が弱くなっていることに目を向けないと。
もっと恐ろしい経験なんていくらでもしてきたというのに、心細いと感じてしまう。
まるで昔の私みたいに。
きっと心が高校生だった頃の体に引っ張られている。
だから、弱くなってつい助けを望んでしまいそうになる。そのことが一番恐ろしかった。
今の優は危ない。どうにか自力で抜け出して、合流しないと。
今までだって出来てたのだから何とかできるはず。
さっきの夢だって、同じ状況を今回は自分で切り抜けた。
適当な理由をつけ車を停車させ、誘拐犯が正体を現す前にあたしは脱出した。そして、私が初めて優に出会ったときと同様優に出会ったのだ。
前回と違うのはあたしが彼の助けを必要としなかったこと。
だからきっと一人でも大丈夫。あたしは自分にそう言い聞かせた。