12
それから、放課後まで僕らは授業を普通に受けた。
その間何かが起こることもなく、あまりにも穏やかな時間が続いたので僕は拍子抜けしていた。
栗も教室に戻ってきていた。何事もなかったように授業を受けていた。
ちらちらと栗を観察したが、目が合うなんてことはなかった。僕には目もくれず真面目に黒板とノートの間で視線を行き来させていた。
花芽は、授業中の間ずっと居眠りを決め込んでいた。高校の授業なんて彼女にとっては退屈なのだろうが、あんなことがあった後ですぐ寝られるのは流石だ。
一方で僕はほとんど授業が耳に入っていなかった。
当然だが、窓を破った件で僕と花芽は放課後に呼び出されていたし、栗と花芽が気になって何度も見ていたからだ。
昼休みの間は花芽が傍にいたおかげで根拠のない自信で溢れていたが、授業中という孤独な空間ではどうしても先々の不安が浮かんでしまう。
呼び出しのこと。栗のこと。それから、僕自身のこと。
たくさんの悩みの中で思考が右往左往して、どれにもはっきりした答えが出せない。
僕はこれから一体どうすればいいのか………
「優、さっさと行きましょう!」
「ああうん………もう放課後?」
思惑の海に沈んでいるうちに授業は終わっていたらしく、教室内に残る生徒は半分以下になっていた。帰る準備万端の花芽が僕の机まで来ていた。
「えっと……行くってどこに?」
「しっかりしなさい。職員室に呼び出されてたんでしょ」
「ああ、窓ガラスのことか………でも……」
他に問題は山積みだ。僕はこれから職員室に行くべきなのだろうか?……
「顔あげなさい。悪い癖よ」
「えっ?」
「どうせ色々考え事をしていたのだろうけど、今は悩むときじゃないわ」
花芽に従い顔を上げると、花芽と目線が交わる。すると、僕の心にかかっていた靄が晴れわたっていった。
「よし。良い顔になったわ」
「やっぱり花芽は凄いな。僕はどうしていいかわからないのに、君はいつもはっきり決断してくれる」
「呼び出されたのに逃げるなんて臆病なこと、あたし出来ないもの」
「花芽らしい理由だね」
「らしい……うん、優もあたしのことわかってきたじゃない。嬉しいわ」
〇
職員室で僕らを待ち受けていたのは担任の凛ちゃん先生に加えて、もう一名。
「花芽」
渋い声で一言発した人物は、来賓用のソファに座る大柄な男だ。
「どう、して………」
花芽はか細い声を出して、立ち尽くしていた。
昨日の栗の話と照らし合わせると察しがつく。
おそらく、この男は天華院家の当主、そして花芽の父親だ。
「えっと~、あなたたちを呼んだのはお昼の窓ガラスの話ね、本来なら私が事情を聴いてから、その後どうするか色々と決めるんだけど………ね、そういうことなの」
先生は曖昧に言葉を濁して、困っていることを全面に押し出す。
たとえ保護者を交えて面談するにしても、ものの数時間で学校に親がいるという状況は異常だ。
理事長と天華院家には繋がりがあるという噂は真実。
つまり、この学校では花芽がどれだけ奔放にしようが、監視下にあるということなのだろう。
「まどろっこしい話はいい。花芽、座れ」
花芽の父親は、僕や凛ちゃん先生を無視して花芽にだけ語りかける。
「どうした?早くしろ」
花芽はじっとしたまま動かない。さっきまでの威勢は全くなくなっていた。
僕も花芽父に気圧され、ただ立ち尽くすことしかできない。
「………逃げるわよ」
沈黙の中、花芽が僕の手を握った。それが合図なのだと瞬時に判断した。
「うん」
Uターンして、職員室の外へ走る。
凛ちゃん先生が何やら叫んでいたが全く無視だ。
「君と逃げてばっかりだから癖になったみたいだ」
「以心伝心ってやつね。夫婦の絆だわ!」
花芽と走っていると心に風が吹くような感覚がする。実際は逃げているだけなのだが。
「逃げるのは臆病者のすることじゃなかったのか?」
「ときに一時撤退を決断するのも勇気なのよ」
どこへ向かっているのかわからなかったがいちいち聞かなかった。花芽はこの先のプランを考えているはずだ。
「花芽のお父さん凄い迫力だったな。もう何が起こっても動じないって思ってたけどビビっちゃったよ」
「あの人、話なんてする気がないのよ。自分のいうことをきかせたいだけ。どうせ時間の無駄なのよ」
「でも、すぐに逃げなくてもよかったような気もするけど…」
「そうね。凛先生には悪いことをしたと思ってるわ」
花芽が素直に詫びているのは意外だった。
「君でも他人のことを考えたりするんだね」
「優はあたしのことを何だと思ってたのかしら」
「僕以外の人には興味ないのかと。だって、人前でも好き勝手振舞うし」
「僕以外は……か。ふ~ん、優はあたしのこと自分だけのものって意識してたんだ」
「君はいつも言ってるだろ!ほら、人前で、そ、その、僕の妻だとか……」
顔がぽっと熱を帯びたのがわかった。
「んん?あたしが何を言ったって?」
「だ、だからっ……っ…恥ずかしいのでもう勘弁してください…」
花芽はよく堂々と言えるものだ。僕は人前でなくても十分きつい。
僕をからかうことに満足したのか、花芽はふふんと鼻を鳴らすと、
「ま、たしかにあたしは優しか興味ないけれどね」
「やっぱり合ってるじゃないか」
「ただ一つ勘違いしないでほしいのは、人前で自分らしくしているのと、他人を顧みないのは違うわ。あたしは無礼だと思われて仕方ないことはしてるけど、不快にさせることはしないわ」
「無礼な自覚はあったのか」
また一つ花芽のことがわかった気がした。花芽なりに周りのことを見ているらしい。
この後もしばらく緊迫感のない会話をしばらく続けているうちに、目的地に着いた。
学校の敷地内の隅。校舎の陰になっていて、寄り付きがたい雰囲気だ。人の気配はない。
「さ、帰るわよ」
学校の敷地はフェンスに囲まれている。視界に入る範囲では外に出られそうにない。
「どこから出るんだ?」
「ここが一番人目に付きづらいのよ」
花芽はさも当たり前のようにフェンスを昇り始める。
「もう僕、君がお嬢様だって信じられなくなってきたよ」
3m以上は高さがある。脚を踏み外せば大怪我をする高さだ。
「ねえ、普通に校門から出ない?」
「優、怖いの?」
「い、いや、怖いわけないじゃないか!!」
普通に怖い。
僕は木登りの高さで勝負するような少年時代を送ってない。筋金入りのインドア派だ。
「今日は正面突破は無理よ。お父様の護衛もいるはずだもの」
「勝てないのか?」
「自分で言うのも変だけれど、あたし箱入りお嬢様よ。昨日は不意をついたから何とかなったけれど、あんなゴリラが服着たような人たちを倒せるように見えるかしら?」
喋ってるうちに花芽はフェンスを越えて、敷地外に華麗に着地していた。
やっぱりか弱いようには全然見えない。
「ほらほら優も早く来て」
「心の準備をさせてほしい!」
見栄を張った報いだ。
僕は覚悟を決めてフェンスに足をかけた。