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僕が彼女と初めて出会ったのは、桜が咲き始める頃のよく晴れた昼下がりだった。
住み慣れた町で買い物を終え、そのまま帰宅する途中の道でのことだ。
彼女は向かい側から逃げてきていた。
純白のイブニングドレスを捲し上げ、靴はどこかで脱ぎ捨てたのか裸足だ。
その背後からは、全身黒いスーツにサングラスという怪しい風体の二人の男が追ってきている。
助けなくちゃ、という言葉がすぐに頭を過ぎった。
周囲に人はいない。
警察に電話している余裕なんてない。
今助けるなら、僕自身でどうにかするしかない。
とはいえ、僕は普通の高校生だ。
追いかけてくる屈強そうな男たちに太刀打ちは敵わず、唯一できることといえば、彼女を連れて逃げること。
この町にはそこそこ入り組んだ路地がある。異邦人なら撒けるかもしれない。
だが、本当に助けるべきなのだろうか?
何の事情も知らないうえに、明らかに危険な香りがする。
逡巡の内に、彼女と目が合った。
その瞬間、迷いは決心へと変わる。
今彼女を助けなければいけない。
一歩踏み出してあの人のようになるんだ。
僕は彼女に手を差し伸べ、声をかけようとする。
しかし―――
「しっ、言ってはダメよ」
彼女は人差し指を立て、口元に添えた。
「少し待ってなさい」
落ち着き払った声で命令され、そこで僕の頭は状況についていけなくなった。
彼女は脚を止める。
当然、背後の男たちは脚を止めるわけもなく、追いつかれようとするが―――
「さっきからぞろぞろとしつこいのよ!」
振り返ると共に男の顎を蹴り上げる。洗練された動きは、ドレス姿からは想像もつかないほどのキレとスピードがあった。
驚いたのは男も同様のようで、路上で大の字に倒れる仲間を傍目に立ち尽くしていた。
「これも邪魔ね」
彼女はあっけに取られている周囲をよそに、地面ぎりぎりまで伸びたスカートの裾をビチビチとちぎりだした。
「ふう、だいぶすっきりしたわ」
彼女は顔をあげると、僕の方をじっと見つめる。
瞳は大きく澄んでおり、均整の取れた美しい顔立ちをしていた。ドレスの袖口やスカートの裾から覗かせるすらりとした手足は艶やかで血色が良い。
髪は乱れ、ドレスはボロボロだったが、それでも宝石のように丁重に育てられてきたことがわかる。
「元気そうで、安心したわ」
彼女が僕に向けた表情はほとんど満面の笑みだった。だけど、その笑みにはほんの少しだけ陰りがあって、何か別の感情を抱えていた。
まるでずっと前から深い関係だったような態度だが、僕にはてんで覚えがない。
「あの、どこかで会いました?」
彼女は僕の困惑をよそに、手を取った。
「さあ、逃げるわよ!!」
「えっ?」
彼女は駆け出す。唖然としていた背後の男たちも慌てて追ってくる。
僕は混乱していたが、逃げなければいけないことだけはわかった。
彼女に手を引かれて、僕も走り出す。
それから、僕はさらに困惑した。なぜなら、そこからの逃走ルートが僕が考えていた経路とまったく同じだったからだ。
彼女がこの町に明るいとは考えにくいし、偶然にしては出来過ぎていた。
狭い路地をいくつか抜けると、背後の足音は遠ざかってゆき、ついには聞こえなくなった。
「ここまで来たら大丈夫そうね」
ひと段落着いたと言わんばかりに、彼女は服や足裏についた汚れを払っている。
だけど、僕はいまだ戸惑いの最中だ。
「えっと……いったいどういう?君は?どうして?」
「質問をいっぺんに三つもしたらわからないわ」
彼女は僕の腕を掴むとまじまじと見つめる。
「少し痩せすぎね。息も切れ切れ。もっと普段から運動をした方がいいわ」
「しばらく学校に行ってなかったから……」
もっと訊きたいことがあったが、ぐちゃぐちゃになった頭では質問に返答するくらいしかできなかった。
「助けようとしてくれたのよね?」
僕は助けるなんて一言も言っていない。
「でも、残念だったわね!あたしは一人でも逃げ切れたわ」
まるで思考を読まれたかのようだ。通る道もそっくりわかっていたし、少し不気味にも感じる。
「そう…みたいだね」
「そうよ!あなたがしようとしたことはこれっぽちも意味がなかったわ」
「そんな言い方っ!――――、………」
僕だって決心の上での行動だったのだ。言い返したかったが、彼女の言ったことは事実だ。
僕のちっぽけな決心なんて無駄だった。
「あなたは別に私のために何かしなくてもいいのよ。そんなこと考える暇があるなら自分のことを考えなさい」
何かが妙だった。まるで僕の決心を知っていて、わざわざ邪魔したような口ぶりだ。
「変わらなくてもいい。そのままのあなたで十分だわ」
よく知りもしない相手に上から指図されて、僕は苛立ちでいっぱいになっていた。
色々と言ってやりたいことはあったが、一瞬考えを巡らせた後に一番言ってやりたいことを口にした。
「さっきから色々と、君はいったい何様だよ?」
「あたしが何様かって?」
彼女は僕の言葉が余程嬉しかったらしく、にまりと大きく笑みを浮かべる。
「あたしは天華院花芽。唸木優、あなたの将来の妻よ」