4月11日(木) 新入生研修合宿(一日目)
<TMO-1008>
4月11日(木) 天気…晴れ
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研修合宿一日目。僕たち一学年生徒は、各クラスごとに分かれて計十五台もの大型バスに乗り込み、美斗世市を離れて、何処かも分からないような山の奥地にまで運ばれた。
深い森を抜けて、突然景色が開けたかと思えば、そこには大きな湖が広がっていた。湖畔に合宿所があり、そこで僕らはバスを降りる。
湖畔に連なる建造物の中でも一際目立つその合宿施設は旅館ほどの大きさがあり、十五クラスもある一学年生徒全員を収められるだけの設備はきちんと整っていた。実際にこの施設はホテルとしても使われているらしく、夏になると避暑地を求めてくる観光客で賑わうらしい。
ホテルとして使われていることもあってか、中は綺麗でどこか垢抜けた感じがあった。ロビーも広くて、シャンデリアの煌びやかな灯りがレトロな絨毯やアンティーク家具たちを煌々《こうこう》と照ら出している。広々として高級感があって、まるでセレブにでもなったような気分を味わう。
しかし、いざ研修室と呼ばれる部屋へ行ってみると、そこは先程まで見ていた高級な雰囲気など微塵も感じられない、ただの殺風景な白い壁で囲われた長方形の部屋だった。四方には窓も無く、椅子と机、黒板とホワイトボードがあるのみ。「これじゃあ毎日通っている学校の教室と変わらないじゃないか!」「いや、むしろそれ以下だ!」と、生徒の誰もが愚痴をこぼしてしまうのも無理はなかった。
おまけに、いざ勉強会が始まるとずっとその部屋に缶詰にされてしまい、一時の旅行気分も束の間、僕らは普段学校で授業を受ける時のように黙々と机に向かっていなければならなかった。
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午前中が終わり、昼食を終えた後の昼休み時間、あの監獄から一時的に解放された僕は、息苦しい部屋を飛び出して、新鮮な空気を吸おうと施設の外へ出た。
外は晴れていて、春特有の霞みがかった薄い青空が雲の隙間から所々覗いていた。湖の方から吹いてくる風が冷たかったけれど、空気も澄んでいて気持ち良い。これから天気になりそうだというのに、午後からもまた密室にずっと籠っていなければならないのかと思うと、酷くもどかしい気持ちになってしまう。
「仕方ない、湖の方に行ってみるか……」
吹いてくる風に逆らい、僕は青々とした湖を縁取るように伸びる湖岸へ向かって歩いた。
けれども岸には、既に他クラスの生徒たちが集まり、賑わいを見せていた。あれだけ長い時間密室に閉じ込められていたのだから、皆ここへ気分転換をしに来たのだろう。
僕は岸で戯れている生徒たちを横目に湖畔を歩いていると、岸の隅に古びた看板が倒れているのを見つけた。僕は看板の上に積もった枯れ草を足で払いのけ、霞んでしまった字を解読してみる。どうやらその看板には、「この先、桟橋」と書かれているようだった。
少しばかり距離があるようだけれど、まだ休み時間も半分以上残っていたので、僕は桟橋の方へ足を運んでみることにした。途中鬱蒼とした雑木林の中を通り、トトロの子が入っていきそうな藪のトンネルをしゃがんだまま潜り抜ける。こんな細い道は、岸の向こうで遊んでいる生徒たちには絶対に見つけられないだろう。
ようやく長く続いた藪のトンネルを抜け、痛む膝を抱えて立ち上がると、すぐ目の前に広大な湖が見えた。そして、静かな湖面に浮かぶようにして、くたびれた木製の細い桟橋が伸びていた。
この桟橋は、今はもう使われていないのだろう。辺り一面に茂った枯れ薄が、向こう岸で遊んでいる生徒たちの視界から、この古びた桟橋をすっかり覆い隠してしまっている。
――そんな、古びた桟橋の先に、まるで湖畔で羽を休める鷺のようにじっと立っている、一人の女生徒の姿を見つけた。
冷たい風を正面から受けてなびく黒髪と制服のスカート。風に煽られ細やかな波紋を見せる湖面を前に、凛として立つその女子生徒が紬希だと分かると、僕は反射的に近くの藪の中に身を潜めた。
彼女はこちらに背を向けたまま、湖を前に何やらぶつぶつと言葉を呟いていた。その様子を怪訝に思いながらも、一体何を話しているのだろうと興味が湧き、静かに耳を傾けてみる。
「……うん、分かってる。計画ならもう練ってあるから、心配しなくていい。……うん、それも大丈夫、なるべく人目に付かないようにやるから……」
(あいつ……一人で何を――)
最初、僕は彼女が誰かに電話をかけているのだろうと思った。しかし、紬希の手に携帯電話は握られておらず、左右の手は共に腰横に下ろされている。……なら、どうして独り言なんか――
そこまで思って、僕はハッとした。彼女は独り言を呟いているのではなく、自分の胸元、胸ポケットに差し込まれたボロボロなクマの縫いぐるみ――「クマッパチ」に向かって話しかけていた。
「……うん、今のところ目ぼしい人は居なさそう。……でも、きっと探せばどこかに居るはずだから、頑張って探してみる」
(探す? 探すって……ひょっとしてこの前言っていた超能力者のことか?)
僕はふとそう思い至るが、それよりもまず、彼女が縫いぐるみに向かって話しているという奇妙な構図自体をおかしく思った。しかも、彼女が一方的に話しているのではなく、時折話の間に一定の間が開いているところを見ると、まるで本当に二者の間で会話のキャッチボールが成り立っているようにさえ感じてしまう。
「……うん、うん……えっ? 凪咲君のこと?」
突然自分の名前が彼女の口から滑り出し、僕は思わずびくりと肩を震わせた。
(あいつ……何で僕の話なんかしてるんだ?)
不思議に思い、耳を澄ましてみるが――
「……うん、それは私も同感。彼なら、きっと私たちのことも分かってくれると思うし……確かにそれもそうだけど……でも、私たちだけじゃ難しいと思うし……凪咲君にも、手伝ってもらわないと……」
(手伝う? 一体何を手伝えっていうんだ?……)
そう思いつつ、尚も紬希の独り言に聞き耳を立てていたが、彼女の話す言葉は途切れ途切れで、まるでところどころ文字が霞んで読めない日記を読んでいるみたいに、曖昧な情報しか入ってこない。
僕は、なんだか急に気味が悪くなって、彼女に見つからないよう、そっとその場を後にした。もし仮に、あれが芝居であったとしても、誰も見ていない中でやる意味なんてない。
ならば、つまりあれは……
「……イマジナリーフレンドってやつか」
僕は、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がした。初めて彼女に会った時、自分には縫いぐるみしかお友達が居ないと言っていた紬希の言葉が、更なる真実味を帯びてゆく。あの言葉は、本当に嘘ではなかったのだ。
(――いや、待てよ……なら、僕が友達になってやれば、あいつも少しはまともになるのか?)
すると、突拍子もなくそんな慈悲深い考えが頭の何処からか浮かんできて、僕は思わず頭を横に振った。生徒の繋がりを大切にするような真面目くさったクラス委員長でもあるまいし、あんな縫いぐるみと話すような変わり者と親しくなるスキルを、生憎僕は持ち合わせていない。
そう割り切って、僕は振り返ることもなく、鬱蒼とした森の中に伸びる小道を、駆け足で下っていった。