5月17日(金)② 恐るべき薬品
<TMO-1088>
秘密基地に着いた時には、もうすっかり日が暮れてしまっていた。
いつものように裏山の神社まで続く長い山道を歩き、神社の裏手に佇む井戸の底へ、縄梯子を伝って降りてゆく。
秘密基地を訪れる度に毎回このような険しい道のりを行くおかげで、普段運動をしない僕でも、この頃少し体力が身に付き始めていた。自慢するわけではないが、能力者である紬希に遅れを取らないよう、こちらも体を丈夫にしておかなければならないと、最近になって早朝にジョギングをしたり、筋力を鍛えるトレーニングも始めた。何の能力も持たない僕が少し体力を上昇させたくらいで能力者に太刀打ちできるはずもないから、結局はただの気休めにしかならないのだけれど、それでも逃げ脚くらいは速くしておいて損はないだろう。
そんなことを考えながら、僕は汗をかきながら井戸の底まで降りてきたのだが、基地の入口を見て「あれ?」と思わず声を上げる。
それまでぽっかりと大穴が開いていただけの入り口に、いつの間にか重厚な鉄製の扉が嵌め込まれてしまっていたのである。
「いつの間にこんなもの……」
「……きっと、小兎姫さんが作ってくれたんだと思う。中の改装の方も、もうかなり進んでいるかもしれない」
紬希の言葉に、僕はドキドキしながら扉に手を掛けて内側に開く。開けた途端、石と木の良い匂いが漂ってきた。
紬希の言う通り、部屋の中は以前とは見違えるような空間に変化を遂げていた。それまで岩肌がむき出しになっていた周囲には漆喰で固めた赤レンガの壁が巡らされ、高い天井からはワイヤーに繋がれた裸電球が幾つも吊り下がり、部屋の隅々までを明るいセピア色に照らし出していた。
更に部屋の奥には骨董品の丸テーブルや椅子が幾つも積み上げられており、後はその家具を広間に並べれば、洞窟の模様替えも一区切りというところまで漕ぎ着けているようだった。部屋の壁際には大画面テレビやモバイルスピーカーまで置かれており、娯楽部屋としても使える空間になっているようだ。
確か、以前この基地を最後に訪れたのが一週間ほど前だったはず。一週間見ない間に、基地の内装は驚く程に様変わりしていた。超高速で何でもこなすことのできる小兎姫さんの手腕には本当に恐れ入る。仕事が早いことはもちろん、これだけの凝ったインテリアを自ら創り出してしまう彼女のセンスに脱帽だった。この積まれている大量のアンティーク家具も、隅に置かれた大画面テレビもスピーカーも、調達費は全て器吹が自腹を切って揃えたのだろうか。もしそうだとしたら、かなりの大盤振る舞いである。
「……凪咲君、こっちだ」
すると、隣の洞窟へ通じているもう一つの鉄扉が開いて、中から長雨が顔を出した。
彼に手招きされて奥の部屋に入ってみると、その部屋はさっきのカフェのような心温まる内装とは百八十度真逆の雰囲気があり、部屋の隅から隅まで禍々しい空気が詰め込まれたような、異質な空間が広がっていた。
部屋の周囲には薬品実験をする為の様々な器具や装置が置かれ、壁に据えられた薬品棚には薬名の記してあるラベルを貼られた色鮮やかな小瓶が所狭しと並んでいた。開け放たれた引き出しにはメスや鉗子などの手術道具がぎっしりと詰まっており、まるで手術室のようにも見える。
そして反対側の壁には、一面に大小の銃器がずらりと、まるで昆虫標本のように並べて掛けられていた。どうやらここは器吹の薬品実験室を兼ねた商売品置き場――つまり武器庫でもあるらしい。
見る限り危険なものに満ち満ちた部屋の隅には小さなデスクと椅子が置かれており、そこにぶかぶかの迷彩服の上から裾の長い白衣を羽織った器吹が足を組んで腰掛けていた。彼はニヤリと得意げな笑みを浮かべて僕らの方を見る。
「来たか二人とも! 私の部屋にようこそ。歓迎するよ」
どうやら器吹本人は有能な学者を気取っているようだが、その外見はこの悪趣味全開な部屋の雰囲気とも相待って、もはや頭のおかしい狂人科学者にしか見えなかった。
「君たちに是非見てほしいものがあるんだ! 初めて見た時は俺もたまげたよ。あのカメレオン男の持っていた薬はただの薬品なんかじゃなかった。これを見てくれ!」
器吹はそう言って、机の横に置かれた巨大な電子顕微鏡まで椅子のキャスターを転がし、双眼レンズを覗いて両手でねじを調節する。顕微鏡からはいくつものコードが伸び、デスクの上に置かれたパソコンのディスプレイに繋がっていた。顕微鏡の台上には例の飴色の薬品の入ったシャーレがセットされ、器吹がピントの調整を終えてパソコンの電源を入れると、ディスプレイに顕微鏡を通した薬品の拡大画像が映し出された。
その画像には、至る所に何やらゴマ粒のような細かい点が散らばっていた。よく見ると、それらの粒は何かの細胞のようである。
「……あの、これって何ですか?」
おずおずと僕がそう尋ねると、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに器吹は得意になって解説を始める。
「これは植物細胞の一種だ。だが通常のものと違って異常な繁殖性があり、投与されると一時的にウイルスのように体内に寄生して増殖し、体組織に影響を与えるんだ」
この薬品の解析には器吹であっても困難を極めたらしく、徹夜で作業していたのか、彼の目元には濃い隈が浮かんでいた。彼の着ている狂気的な衣装とも合わさり、その外見はなんともおどろおどろしく不気味だった。
「おそらくこの薬品は、何らかの植物から抽出される毒を加工して作られたものだね。その毒素についてあらゆる分析を試みたが、既存するどの薬品、麻薬等の成分ともまるで一致しない。未知の毒物に人為的な手を加えることによって、投与された者の代謝を一時的に活性化させたり、筋力や骨格強度を上昇させるといった効能を付与することに成功している。だが毒素の影響で、薬の効果が切れると強烈な中毒症状を引き起こし、倦怠感やめまい、一時的な失明、そして強い吐き気に襲われる。投与される期間が延びるごとに、この中毒症状も悪化していく傾向があるようだ」
器吹の口早な説明に、僕ら聞く側の理解を追い付かせるのもやっとだった。
――要するに簡潔にまとめると、この薬品は世界中の何処にも存在しない未知の植物の毒素によって作られた、一種の身体強化薬であるらしい。
「……なるほど、一時的に自らの体を強化できる反面、原料である毒素によって体を蝕まれ、それ無しでは居られない体になってしまう――まるで諸刃の剣だね。だけど、それだけの情報では製薬場所を突き止めるのは難しいんじゃないのか?」
長雨の質問に、器吹は口角を釣り上げてニヤリと笑い、鼻高に答えた。
「心配御無用! 既にもう場所は特定済みだ。簡単な話だよ。この薬品を詰めてあった注射器の製造会社と契約している薬品メーカーを洗い出して、そのリストの中から美斗世市内に製造工場を持つ条件で絞り込んでみたのさ。そうしたら――ビンゴ~~!」
器吹がパソコンのキーボードを早々と叩き、ディスプレイにある薬品メーカーのウェブサイトが表示される。
「……『クリプト製薬』?」
一見何の変哲もない薬品製造会社のウェブサイトに見えるが、この会社が飴色の薬品を秘密裏に作成しているというのだろうか?
「器吹の調査によると、ここから少し離れた美斗世市境界の山間部に、このメーカーの薬品製造工場があるらしい。新薬開発の為の研究所も併設されているようだ。警備はそれ程厳重ではないが、クリプト製薬と時雨組が裏で手を組んでいると見て間違いないだろうね」
長雨がそう言って銃に化けたウニカをホルスターから抜き、弾倉を開いて中に弾を込め始める。
「襲撃する気なのか?」
僕がそう尋ねると、彼は「念には念を、ってね」と軽く目配せする。
「だが、あくまで名目は偵察だ。別に僕一人とウニカでもできない仕事じゃない。でも、こちらとしては助っ人が居てくれた方が安心なんだが、乗る気はあるかい?」
そう言われて、僕は即座に断ろうと思った。以前亀蛇と闘った時にも危うく命を落としかけたというのに、再び自分の命を危険にさらそうとする馬鹿は居ない。
――でも分かっている。断る選択肢なんて、彼女の前では初めから存在していないも同然だということを。
「私たち連合団員の一人が助けを求めているというのなら、喜んで手を貸すわ。何をすればいいの?」
何故なら、我らが連合団団長である紬希は、助けを求めている仲間のことを決して見捨てたりはしないからだ。
「凪咲君は嫌なら来なくてもいい。とても危険だから、私と長雨さんの二人で行くわ」
そう言われて、僕は腕を組み考える。
おそらくこれから行くところは、僕のようなただの人間には命がいくつあっても足りないような危険な場所なのだろう。だから本音を言ってしまえば、紬希と長雨の二人で事足りるというのであれば、是非ともそうしてほしかった。
でも、そんなことは許さないと言う自分も心の中に居た。なんだか、自分が能力者ではないからという理由だけで省かれているようで、納得できなかった。どうせまた足手まといになるだけかもしれない。後々、馬鹿な選択をしたと自ら後悔するかもしれない。
でも、それでも僕は……
「――僕も行く。君たちと違って何の力も持ってないけど……それでも僕だって、連合団の一員なんだ」
そう決断した僕に対し、長雨は了承を示すように黙って頷き、紬希は無表情かつ無言のまま、僕に向かってグッと親指を突き立てたのだった。
 




