4月8日(月) 無難な学校生活を……
<TMO-1005>
4月8日(月) 天気…曇り/晴れ
〇
朝、僕はまだ着慣れない新しい制服に腕を通し、新品の革靴を履いて家を出た。
入学式も過ぎ、いよいよ今日から本格的な高校生活が始まる。一昨日、クラスメイトの顔も大体一通り把握したし、担任の先生がどんな人かも分かっているから、入学式の時より少しは緊張感が薄まっていた。
しかし、油断は禁物である。何事も始まりが肝心で、初日から躓いてしまっては意味がない。
「……よし、張り切って行こう」
僕は深呼吸して気を引き締め、胸を張って家の前の道路に出ていく――
ゴチン‼︎
刹那、目蓋の裏で星が飛んだ。
道横からぬっと現れた人影に、真正面からぶつかったのである。僕は衝撃によろめき、思わず数歩引き戻された。
「いったぁ……」
僕は打った頭を押さえながら、反射的に閉じてしまった目を開く。
そして、自分から三メートルほど離れた道の真ん中に、一人の女子高生が倒れているのを見た。
彼女の着ている制服は、僕と同じ美斗世第一高校のブレザーだった。ずり落ちてシワの刻まれた黒のニーハイソックス、めくれたチェックのスカート、はだけた上着に胸元のリボンは傾き、流れるような黒髪がアスファルトの上に散乱してしまっている。
リボンタイが赤だったことから、僕は同じ学校の同級生にぶつかってしまったのだと即座に理解する。
そして、理解すると同時に酷く焦った。ついさっき玄関前で始まりが肝心だと気を引き締めたばかりだというのに、出だしからこれである。
「初っ端から幸先悪過ぎるだろう!」
僕はそう叫びたくなる気持ちをどうにか堪え、慌てて倒れた彼女に駆け寄ろうとした。その時、あるものが目に留まる。
普段なら絶対に見ることのない、はだけたスカートの内側。股下にちらと垣間見えた、太腿と太腿の隙間に埋もれた白の布地。そして、そのお尻部分にプリントされた、ポップな絵柄――
(く、クマさん……)
僕は思わず目を逸らし、近寄ろうとした足を止めてしまう。
他人の履くものの好みなんて人それぞれだということは、僕も重々承知している。ましてや下着など、よほどのことでも無い限り見られることもないのだから、別にどんな柄やデザインであっても構わないはずだ。
……それでも、女子高生が着けるにしては少し幼稚過ぎる下着のチョイスに、僕は倒れている彼女がどんな奴なのだろうと、ふしだらながらも気になってしまった。
倒れていた女子は、僕が手を貸すより前に即座に半身を起こしていた。
そして、乱れた黒髪を振り払い、こちらに振り向く。
たなびく黒髪の下、吸い込まれてしまいそうな程に深い琥珀色をした瞳が、驚愕する僕の姿をくっきりと捉えていた。
――偶然は偶然を呼ぶのか……はたまた神の悪戯なのだろうか。
その子は僕と同じクラスに居た、あの不思議ちゃんだった。
◯
しかしよくよく考えてみれば、彼女の住む部屋のあるアパートは、僕の家から道を二つしか隔てていないのだし、鉢合わせしてしまう可能性は十分にあった。
でも、いくら近いとはいえ、学校が始まった初日に、しかもこうして秒に至るまで正確に、まるで意図して狙ったかのように出会い頭でぶつかる確率は、たぶん雷が当たる確率よりも低いのではないか?
「あ、あの……ごめん、だいじょう――」
「私は平気」
彼女は慌てて差し出した僕の手を無視するようにそっけなく言葉を返して一人で立ち上がると、乱れたスカートの裾を両手で叩き、腰を折ってずり落ちたニーハイソックスを膝上まで引き上げた。女子高生にしてはかなり大きい胸や、むっちりとした太腿など、魅惑的な体格をしているせいで、彼女の何気ない一挙手一投足が妙に色っぽく映ってしまう。
「怪我はない?」
本来なら僕が言うべきはずの言葉を先に言われてしまい、僕はまた困惑する。自分は数歩退いただけで済んだから良かったけれど、盛大にひっくり返ってしまっていた彼女の方が怪我をしていないか、逆に心配だった。
「私のことなら気にしないで。平気だから」
その子は真っ直ぐな瞳をこちらに向け、本当に痛くも痒くもないような顔で、そう答えた。
紬希恋白――。一昨日の自己紹介での鮮烈な印象もあり、まだ顔も名前もはっきり憶えられていないクラスメイトの中で、唯一彼女の顔と名前だけははっきりと覚えていた。細身の体型だが、女性として成長すべき部分はしっかり成長していて、でも背丈は僕よりも少し低め。すべすべとした白い肌が、朝日を受けて眩しく光っている。
そんな麗しき乙女が、僕の隣を無言で歩いていた。登校初日から女子と肩を並べて歩けるのは、男子にとっては夢のような話なのかもしれない。
それでも正直、僕はこの子の隣を歩きたくなかった。確かに見た目は可愛らしいけれど、自己紹介の時の言葉がどうも気になって、話しかけ辛い。「普通の人間には決して持てない特別な力を持っている方――」とか何とか言っていたけれど、もしそうなら、僕みたいに誰よりも極々平凡な男子生徒なんて、すぐに興味を失ってしまうだろう。
そんなことを思いながらちらちら横目で彼女を観察していると、ふと彼女の着ているブレザーの胸元に目が行った。普通より大きめの膨らみを覆い、張り詰めている制服の胸ポケットに、何かが差し込まれている。
――それは、小さなシロクマの縫いぐるみだった。手のひらよりは少し大きいだろうか? 丸耳を生やし、饅頭のようにふくれた頭が、ポケットの口からひょこりと覗いている。しかも、その縫いぐるみは何故か痛々しいくらいに継ぎ接ぎだらけでボロボロだった。生地は古雑巾みたいに色褪せていて、縫い付けられた部分も所々がほつれてしまっている。見るからに汚らしかったし、少し臭そうだった。
「……彼のことが気になるの?」
その縫いぐるみに気を取られていると、唐突に紬希がそう口にしたものだから、僕は思わず「えっ? い、いやあの――」と慌てて彼女の方を見る。
しかし、紬希の目線は僕の方には向いておらず、胸元に差し込まれた縫いぐるみの方に向けられていた。
「……そう、彼のこと、とても気に入ったんだ。……ふぅん、新しい友達になれるかもね」
彼女の口から呟かれたその一言は、果たして僕に向けての言葉だったのか、それとも縫いぐるみに向けての言葉だったのか、僕にはよく分からなかった。
「……あの、その縫いぐるみ、好きなの?」
思い切ってそう聞いてみると、彼女の口から突然言葉が滑り出した。
「クマッパチ」
「……はい?」
「『クマッパチ』 ……それが、この子の名前」
いきなり何を言われたかと思いきや、この縫いぐるみにはきちんと名前が付けられていた。しかも、その妙ちきりんなネーミングセンスに、僕は思わず噴き出しそうになる。
「……私の、たった一人のお友達なの」
紬希恋白――彼女は、少なくとも僕の考える並の女子高生像から完全に逸脱していた。要するに、普通ではなかった。普通の女子高生なら、人間以外の友達(それが超能力者であれ、汚いシロクマの縫いぐるみであれ)を作ろうなんて、まず考えないからだ。