5月6日(月)④ 古井戸の秘密を暴く
<TMO-1058>
「そういえば……」
僕はもう一つ、疑問に思ったことを口にする。
「小兎姫さんはどうして僕らをこの場所に集めたんですか? ここって、昨日僕らが亀蛇と戦った廃神社の前ですよね?」
僕の問いかけに対し、小兎姫さんは顔に付けているウサギ仮面の口元に人差し指を立てて、声をひそめて言う。
「実は、あなたたちに見て欲しいものがあるの。私に付いて来て」
小兎姫さんにそう促され、僕らは茂みの中を移動していき、境内の裏側へ回った。そこは普段誰も立ち入らないような場所で、鬱蒼とした木々が地面に影を落とし、まだ昼前だというのに辺りは薄暗く不気味な静けさが漂っている。
(あれ? 確か、この先にあるものって……)
この時、僕の脳裏に、かつて体験したおどろおどろしい記憶が蘇る。
「あれは……井戸?」
紬希が声を漏らした。彼女の視線の先、茂みの奥に見える、円柱を模った大きな井戸。もう使われなくなってから随分と長い時が経ち、誰の目にも留まらないまま、静かに朽ち果ててしまっていた。
…… そう、僕は前にもここへ来たことがあった。今から二週間ほど前、僕はとある噂に興味を惹かれて、学校裏の裏山に足を踏み入れた。
そして、この古井戸を見つけたのだ。初めて見つけた当時、僕は恐怖のあまり、井戸の側に近付くことすらできなかった。
なぜならあの時、僕は聞いてしまったのだ。井戸の奥底から響いてくる、あの不気味な音を――
「――ウゥゥゥゥゥゥ……」
「ほらやっぱり出たっ!」
背筋が一瞬にして凍り付く。井戸の中から聞こえてきたその音は、前に聞いた時と同じ、まるで女性の嗚咽のような、甲高い泣き声だった。
「……ゥゥゥウウゥゥ――」
――その昔、この井戸に一人の若い村娘が落ちて死んだらしい。
しかし、娘の魂は成仏することなく、今も井戸の中から出られずに、時折悲しくすすり泣く声が聞こえてくるという――
クラスの中でささやかれていたあの噂は、やはり本当だった。あの井戸には本当に女幽霊が取り憑いていたのだ。
僕は恐怖のあまりその場を一歩も動けなかった。今にも井戸の底から何かが這い上がって来そうで、冷や汗が止まらない。
すると、固まっている僕の隣に居た小兎姫さんが、何を血迷ったのか、井戸の方へと近寄って思いきり中を覗こうとしていた。
「ちょっ! 何やってるんですか⁉︎」
「大丈夫、この音は幽霊なんかじゃないわ。下に降りてみれば、声の正体も分かるはずよ。恋白ちゃん、ちょっと手伝ってもらえるかしら?」
小兎姫さんの呼び掛けに、紬希は怖がる様子もなくこくりと頷き、彼女の後に続く。
「おい、紬希まで!」
もう、どうなっても知らないぞ……
僕は半ばヤケになって、二人の後から井戸の方へにじり寄った。
直径二メートルはある円筒の中を覗くと、ぽっかりと空いた穴の底に、長い年月をかけて煮詰められた濃厚な暗闇が奥の方に溜まり込んでいた。鮮明な響きを帯びて湧き上がってくる泣き声と共に、冷たい空気がひゅうと井戸の奥から吹き抜けていく。
「さ、誰から先に下へ降りる?」
「誰が先にお化け屋敷へ入る?」とでも聞いてくるように軽々しくそう尋ねてくる小兎姫さん。
「……あの、冗談で言ってるんですよね?」
「ううん、本気。凪咲君、行ってみる?」
彼女はそう言ってじっと僕の方を見てくるので、僕は痙攣するように首をブルブル左右に振った。
「――あ、それならこいつを先に行かせればいい。小柄だし、井戸に落ちたくらいで死ぬような奴じゃない」
すると、何時の間にか後ろから付いて来ていた長雨が、従者である小悪魔ウニカを指先してそう言った。
「なっ⁉︎ わ、わわわ我はぜっっったいにイヤだぞっ!」
けれどウニカ本人はというと、顔を真っ青にして声を上げ、いきなり、ボン! と音を立てて黒い煙幕に姿を変えると、瞬く間に銃の姿に戻って、長雨の腰に巻くガンベルトへ独りでに収まってしまった。
「はぁ……こいつ、いつも『自分が魔界最強だ』とかほざいてるけど、こういうところはまだまだ餓鬼なんだよなぁ」
「うるさいっ! 余計なこと言うでないっ! マスターのバカぁっ!!」
腰元のガンベルトに収まってしまったウニカを見て、長雨が呆れ顔で溜め息をつくと、拳銃になった少女の金切り声が彼の腰元から響いた。悪魔のくせに幽霊を怖がるなんて、僕にとっては少し意外だった。この少女、思ったより人間味のある悪魔なのかもしれない。
「――なら、私が行く」
そこへ、次に名乗り出てきたのは紬希だった。昨日の闘いであれほど酷く傷付いたというのに、負った傷をたった一晩のうちに全回復させてしまった彼女は、今日もまた、こりもせず体を張って危険行為に挑んでゆく。その強力な治癒力のおかげで、今の元気な紬希の姿があるとはいえ、僕から見れば、その能力は彼女の無鉄砲な行いを更に助長させているように思えてならなかった。
紬希は井戸の底から響いてくる怪音に怖がる素振りも見せず、手先から白い糸を伸ばして近くの木に括り付けると、それをロープ代わりにして体を吊し、一切躊躇することなく井戸の中へするすると降りていった。そんな彼女の姿は、さながら秘境に眠る洞窟を調査しに行く探検家のようである。
「……底に降りれた。下に水は溜まってない。凪咲君も降りてきて大丈夫」
やがて、井戸の下の暗闇から紬希の声が返ってくる。
「いや、降りろと言われても、流石にこんな細い糸じゃ降りれないよ」
「なら落ちてきて。私が下で受け止める」
「うん、それも却下」
そんなできもしないことを平然と要求してくる紬希に、僕は断固拒否を貫く。
「なら私が下に降ろしてあげるわ。ちょっと失礼して……」
月歩さんがそう言って僕の腰に手を回す。そして次の瞬間――
「――はい、到着」
僕を抱えたままの月歩さんが、井戸の底に立っていた。キーンと強い耳鳴りと、激しい頭痛が僕を襲う。どうやら彼女は得意の《《瞬足》》を使って、一瞬のうちに僕を底まで下ろしてしまったようだ。やるのはいいけれど、せめてやる前に一言だけでも言ってくれれば……
そう文句を言いたくなったけれど、どうせまた同じことをされるだろうと思った僕は、喉元で止まっていた文句を飲み込み、無言のまま井戸の底に両足を下ろした。
井戸はすっかり枯れてしまっていて、周りの壁は乾ききり、底にはサラサラとした白い砂が溜まっているだけだった。先に井戸の底に来ていた紬希が、声の出所を探るように壁に耳を当てていた。
――ヒュウウゥゥゥゥ
すると、すぐ横の壁から大きな音がして、冷たい何かが僕の頬をさらりと撫でた。
「うわっ! お、お化けっ⁉︎」
「違う……この壁、小さな穴が空いてる」
恐怖のあまりその場で縮こまる僕の横で、紬希が井戸の壁に空いた穴を指差した。その穴からは冷たい風が漏れており、さっき誰かに触られたと思ったあの冷たい感触は、この風に触れたものだった。紬希が穴に指を差し入れると、途端にそれまで井戸の中で反響していた甲高い音が消え、当たりは静寂に包まれる。
どうやら、僕らが女性の泣き声だと思っていた音の正体は、この穴から吹き抜ける風の音であったらしい。
「この穴、風を押し出してる。……この壁の奥に、何かある」
紬希はそう言って強く拳を握ると、細い腕に怪力を宿し、思い切り穴に向かって拳を打ち付けた。脆くなっていた壁はいとも簡単に崩れ落ち、あっという間に人が通れる程の大きな穴が開通する。穴の奥には三十センチ先すらも見えない濃い暗闇が広がっていた。
「おいちょっと待て。明かりが必要だろう? ここは俺に任せてくれよ」
そこへ、紬希の垂らしていた糸を腕と腰に巻き付けた長雨が、滑るようにして下へ降りてきた。
「ウニカ、例の弾はまだあるか?」
「確かまだ一発だけベルトのポーチに残っておるはずだぞ。だがマスター、分かっておるとは思うが――」
「ああ大丈夫、魔力の無駄遣いはしないよ。一発あれば十分だ」
長雨はそう答えて、腰のガンベルトからリヴォルバー形態のウニカを引き抜くと、弾倉を開けて、ベルトのポーチから一発の銃弾を取り出す。
その銃弾は、先端の弾丸が水晶のように透き通っていて、その表面は水面のように綺麗な艶を放っていた。そんな見たこともない特殊な銃弾をウニカに装填し、紬希の開けた穴の奥、暗闇の中へと銃口を向ける。
「……『アリアインサート――ザ・フレア』!」
長雨が短い呪文を詠唱し、親指でそっと撃鉄を起こす。すると、銃の先端に細く赤い光の線が迸って、見たことのない文字の含まれた円形の魔方陣が、銃口部分に描き出された。
「あの……それって、もしかして魔法?――」
そう尋ねようとした僕の言葉は、引き金を引いたウニカから響く轟音によってかき消された。銃口から浮き出た魔方陣を突き破って真っ白な光弾が飛び出し、くるくると螺旋軌道を描いて天井まで上昇すると、パッと四方に青白く眩しい灯を投げた。
それは電気でも炎でもなく、熱も化学反応も伴わない、僕ら人間にとって全く未知なる光――すなわち、魔法の光だった。
魔法というものを初めて見た驚きもあったが、それよりも、魔法の光によって払われた暗闇の中より現れた光景を前にし、僕たちは絶句する。
四方に伸びる岩壁、高い天井、そして優に三十畳以上はあるだろう広々とした空間……
これまで誰に立ち入られることもなく、誰の目に留まることもないまま、闇の中で静かに眠り続けていた広大な地下世界。その全貌が、僕たちの前に姿を現していたのである。




