5月5日(日)⑧ 痛みを洗い流して
<TMO-1054>
僕は紬希を連れて浴室に入ると、脱衣部屋の床にゆっくりと彼女を下ろしてやる。
「服を脱がせて」
「はい?」
そして唐突に彼女からそう命じられ、僕は挙動不審に陥った。
「あの……本気で言ってる?」
「凪咲君なら、別に構わない」
「いや、普通ならそこは構うべきところなんだけど……」
僕はあきれて言い返すけれど、紬希は何の反応も示さず、ただ目の前で僕が服を脱がしてくれるのをじっと待っている。腕がまだ完治していないのは仕方がないけれど、それなら腕が治るまで待っても良かったのでは?
「凪咲君は、私の体の傷を見るの、もう慣れているんじゃないの?」
いやそういう訳じゃなくて――と、言いかけて口をつぐむ。
(そうだ、この子は普通じゃないんだ……)
これまで、彼女の常軌を逸した言動を見せられる度に、幾度となくそう思い知らされてきた。紬希は普通の女の子とは恐ろしいほどに思考感覚がズレてしまっている。いちいちそこに突っ込んでばかりいたら収拾がつかなくなってしまいそうだ。
そう思った僕は、諦めるように溜め息を吐き、仕方なく彼女の着ている泥と血にまみれたボロボロな衣服を、おぼつかない手付きで一枚一枚丁寧に脱がせていった。
目を背けながら下着も脱がせて、生まれたままの姿に戻った紬希を、僕はそっと前に抱き上げた。まるで割れ物でも扱うように、ゆっくりと彼女を浴室へと運ぶ。彼女の白い肌に刻まれた幾重もの傷跡は、先の戦いで負った怪我の酷さを痛々しく物語っていた。傷に触れると、継ぎ接ぎのザラザラとした感触が生々しくて気持ちが悪い。
「そこで……ゆっくり降ろして」
僕は慎重に屈んで、彼女を風呂椅子の上に下ろそうとした。
「……っくうっ!」
と、その時、紬希の口から小さな悲鳴が上がり、膝と腕の方からゴキッと、骨と骨の嚙み合わさる音がした。途端に彼女の体がビクンと打ち震える。
「ちょ、いきなり動くなって……うわっ!」
驚いた僕は、濡れた床に足を滑らせてしまい、思い切り背中から倒れてしまう。
――その瞬間、手に柔らかなものが触れた。
触れたものの正体を悟った途端、僕は背中に走る激痛よりも、羞恥で顔が熱くなっていく感覚の方をより鮮明に感じた。倒れた僕の上に覆い被さるようにして伸し掛かる紬希。彼女の顔が、甘い吐息のかかるほどに近い。
「……ごめんなさい。今やっと、膝と腕の脱臼が治ったみたい。これで、今日負った怪我は全部治ったと思う。……だから、もう一人で動ける。私をここまで運んでくれて、ありがとう」
紬希は、僕の手が自分の胸を鷲掴みにしていることなど何処吹く風で、少しも顔を赤らめることなくそう言った。
◯
シャワーを浴びている紬希の影が、浴室のすりガラスの扉を隔てて映っている。僕は顔を真っ赤にしたまま浴室に背を向けて座り込んでいた。恥ずかしくて忘れようと思っても、両手に触れた彼女の滑らかな肌、指と指の間からはみ出る程に柔らかな胸の感触が、頭の奥に焼き付いてどうしても離れなかった。
「……ってか、腕と脚を脱臼してたのに、よく自分の家に一人で帰れるなんて言えたよな」
まだ怪我が回復していないにもかかわらず無理をしていた紬希に対して、僕は少し苛立ちを募らせ、愚痴を吐くようにそう言葉を漏らした。
「だって、凪咲君に迷惑かけたくないと思ったから。……確かに少し無理をしていたところもあったけど、でも今はもう大丈夫。だから、心配しないで」
浴室の扉の向こうで紬希はそう答える。けれど僕は、そんな彼女の言葉がもはや虚勢にしか聞こえなくて、言い返さずにはいられなかった。
「『心配しないで』って、無理な相談に決まってるだろ。何度も何度も紬希が傷付くところを見せられて、こっちはもう散々に心を痛めてるんだ。……あの時だって、もう二度と起き上がらないんだって、本気で思ったんだぞ。……もっと自分の体、大事にしろよ」
――確か、前にも一度、同じことを紬希に言ったような気がする。
僕はこれまで、彼女が血を流し、苦痛に耐える姿を幾度か目にしてきた。その度に、彼女が死ぬかもしれないという不安や恐怖に襲われなかったことは無い。
自分だけやせ我慢すれば、それで済む話だと紬希本人は思っているのかもしれない。
けれど、それは間違いだ。傍から見ている僕にだって、彼女の抱える痛みが嫌でも分かってしまうのだ。なのに「心配するな」だなんて、自分勝手もいいところじゃないか。
紬希は、しばらくの間何も言わなかったけれど、やがて蛇口をひねる音がして、シャワーが止まった。
「やっぱり、まだ信じきれていないのね。私の能力のこと……」
訪れる沈黙の中で響いたその声には、何処となく落胆の色が滲んでいた。
――ここで、僕はふと、過去のある出来事を思い出す。
以前、能力者である小兎姫さんに、紬希の持つ能力について相談した時のことだ。あの時、ウサギの仮面を付けたグラマーな彼女は、僕に向かってこう話してくれた。
『面倒に思うかもしれないけれど、それでもあの子を信じて、受け入れてあげる広い心が必要よ』
その言葉を思い出した僕は、大きく息を吐いて項垂れた。
何時だったか、正義のために奔走する紬希の面倒を見てやれるのは自分しかいないとか言って、彼女の背中に付いて行く覚悟を決めた時の自分を蹴りたくなる。
……実際は、未だに彼女のことを受け入れられないでいる自分が、まだ心の何処かに潜んでいた。
そのことに気付いてしまった僕は、己に対する苛立ちのあまり、小兎姫さんの言葉に楯突くように小さくつぶやいていた。
「……やっぱり、僕にはまだ無理だよ月歩さん……」
沸き上がるやり場のないもどかしさを抱えて、僕は悶々としたまま、逃げるように浴室を後にした。




