4月26日(金)② 紬希の異常な愛情
遠くから、微かにクラスメイトたちの楽しいお喋り声が聞こえてきていた。今、この森の中には僕と紬希の二人きり。互いに無言のまま、気まずい空気だけが流れてゆく空間に少しソワソワし始めた僕は、以前からずっと気になっていたとある疑問を、紬希に投げてみることにした。
「……あのさ紬希、一つ聞きたいんだけど……」
「なに?」
「どうして紬希は、そこまで他人の為に一生懸命になれるの? 自分が傷つくことも構わずにそんなことができるなんて、並み大抵の人ができることじゃないよ」
彼女が性格的に普通の女子高生とはかけ離れている稀有な存在であることはよく分かっている。
でも、だからこそ僕は知りたかった。彼女が何のために人助けをするのか。何のために「放課後秘密連合団」なんて子ども染みた名前の部活動を創設したのか。
――すると紬希は、不意にスカートのポケットをまさぐり、あるものを取り出して僕に見せてきた。
それは、紬希が「クマッパチ」と呼称して肌身離さず大事に持ち歩いている、あの継ぎ接ぎだらけのボロボロなシロクマの縫いぐるみだった。
「この子が、そう望んでいるから」
紬希は真顔のまま、僕に向かって至極真剣にそう答えた。
(またそいつかよ……)と、僕はあきれて頭を抱える。
「あのさ、一つ言わせてよ……ふざけてるの?」
「ううん、真剣」
このやり取り、前にも一度やったような気がする。デジャヴだろうか?
「だから前にも話したけど、それは紬希の我がままをそいつに押し付けてるだけで――」
「そんなんじゃない」
すると紬希が唐突に声を大きくしてぴしりとそう言い放ったものだから、僕は思わず閉口する。
彼女は、クマッパチのボロボロな顔に親指を沿わせ、その感触を確かめるように指の腹でそっと撫でながら、抑揚のない平坦な声でこう語り始めた。
「……以前、凪咲君たちが私の家を訪ねた時にも話したと思うんだけど、私には親が居ないの。お父さんも、お母さんも」
いきなり両親の話を切り出されて、僕は思わず口をつぐんだ。
「一ヶ月前、二人が離婚して、お父さんは家を出ていった。お母さんも、仕事に行ったきり、もうずっと戻って来てない」
確かに以前、紬希の家に初めて訪ねた時、扉の前で同じことを彼女の口から聞かされていたことを思い出す。
「二人とも私を見捨てたの。私のことなんてどうでもよくて、鬱陶しいだけとしか思われてなくて……でも、この子だけは違った。クマッパチだけは、両親が居なくなった後もずっと、私の側に居てくれた。一人ぼっちで孤独だった私を救ってくれたの。私にとって、そんなクマッパチが唯一の家族だった。……私にとっての全てだった」
そう言って紬希は、琥珀色の瞳を縫いぐるみから僕の方へと向ける。その顔は相変わらず無表情のままだったけれど、大きな瞳にはわずかに悲しい光が宿り、震えるように細々と揺れていた。
「だから私は、この子無しじゃ生きられない。こんなにボロボロになるまで付き合わせちゃって、クマッパチには悪いなって思うけど……それでもこの子が傍に居ないと、私が私でなくなってしまうような気がしてならないの」
――僕はこの時初めて、それまでずっと見ることのできなかった紬希の心の内側に触れたような気がした。彼女への理解度が深まって、これまで僕の中で理解不能だった紬希の言動一つ一つに、意味と理由が与えられていく。
……何時だったか、僕らの担任が抜き打ちで持ちもの検査をして、紬希のクマッパチが見つかり、取り上げられてしまったことがあった。
あの時、いつも無感情な彼女が珍しく怒りを露わにして、「復讐する」なんて物騒な言葉を吐き、研修合宿の日の夜、階段に細工をして担任を転ばせるという悪辣な悪戯まで起こしてしまったことを思い出す。
たかが縫いぐるみのために、どうしてそんな暴挙に走ってしまうのか、当時の僕にはさっぱり理解できなくて、そんな紬希を内心ひどく恐れていた。
……でも、紬希にとって家族同然であった縫いぐるみを奪われ、「こんなゴミを持って来るな」と言われて憤りを隠せなかった彼女の気持ちも、今になってみて何とはなくだけれど分かるような気がした。
紬希の家庭事情を知り、本人の心境も知り、密かに心の内で彼女に対する同情を抱きつつあった僕。
そんな中、紬希がさらにこう言葉を続けた。
「……だから私は、そんなクマッパチへの恩返しとして、この子の持っているある一つの夢を叶えてあげたいと思っているの」
「……はい?」
僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。……なんだか、また話が少し紬希の危ない妄想めいたものに傾いてきている気がする。
僕は縫いぐるみを友達だと言い張る無邪気な子どもと相手をしているような気分で、紬希にこう尋ね返す。
「夢を叶えるって……縫いぐるみが、夢なんて持ってるの?」
「そう。『世界を救うヒーローになること』――それがこの子の夢なの」
「…………」
……それは、あまりに壮大で、あまりに誇大で、そしてあまりに大雑把で、まるで特撮アニメにハマっている夢見がちな少年なら誰もが一度声を大にして言ってしまうような、今となってはもはやテンプレと化してしまったのではないかと思うくらい、極々ありきたりな夢だった。
「……つ、つまり紬希は、その縫いぐるみ――クマッパチの夢を叶えるために、毎日ヒーロー染みた人助けをやってるってこと?」
「そう。この子がそう望んでいるから、私はその通りに動いているだけ。『放課後秘密連合団』を設立したのも、全部クマッパチのアイデアなの。私ひとりじゃ世界を救うのは無理だろうから、チームを作って仲間を集めれば、きっと世界も救えるはずだって」
そこまで話を聞いて、僕はふと、入学式の日に教室で自己紹介していた時のことを思い出す。
「じゃあ、クラスで自己紹介した時に『能力者と友達になりたい』って話していたのも……」
紬希は「その通り」と言わんばかりにこくりと頷く。
「そう。私みたいな能力を持つ者が、他に誰も居ないとは限らない。だから、初めてクラスで自己紹介した時、私と同じ能力者がいれば仲間に引き入れようと思ってああ言ったの」
「…………」
僕は溜め息を吐いて項垂れた。彼女がクラスで妙ちきりんな自己紹介をしたのも、日々飽きもせず街中を駆け回って人助けをしているのも、「放課後秘密連合団」を学校非公認のまま勝手に立ち上げてしまったのも、全てはあのボロボロな縫いぐるみ「クマッパチ」のためにしていることであって、それ以外に理由はない。――と、そういうことらしい。
たかが縫いぐるみ一つのためにここまでやってのけることができる少女なんて、きっと後にも先にも彼女以外には居ないだろう。そのあまりに重過ぎるクマッパチへの愛情に、僕は何も言葉を返せなかった。
「……あのさ、ついでだから一つ聞くけど、どうして連合団を立ち上げた時、最初に僕を誘ったの? そもそも、僕は紬希が求めているような能力者でも何でもない、ただの平凡な人間だ。なのにどうして、僕とここまで関わろうとするんだ? もしかしてそれも――」
「もちろん、クマッパチがそうしろって言ったから」
「それじゃ答えになってないよ!」
まるで子どもの茶番劇に付き合っているように思えて辟易してきた僕は、もうみんなの居る所へ戻ろうかと愛想を尽かし、彼女に対して背を向ける。
「………それに――」
すると、ふと背後から、つぶやきのような紬希の小さな声が漏れた。
「――あの力を見せた後でも、凪咲君はこうして普通に私と接してくれるから……」
「えっ?」
その言葉が小さくてよく聞こえなくて、僕は思わず紬希の方を振り返ろうとする。
――と、その時、遠くの方でクラスメイトが僕を呼ぶ声がした。いつの間にか自由行動の時間が終わり、招集がかけられていたらしい。紬希が他の生徒に見つかったらマズいと思い、僕は慌てて彼女の方を振り返ったが……
振り返るわずか数秒の間に、彼女は僕の前から跡形もなく姿を消していた。
それまで静寂に包まれていた場に突然影のように現れ、そして影も残さず消えてしまった紬希。気配を殺し、僕の前から音もなく去ってしまった彼女は、まるで本物の忍者みたいだった。
――結局この日、紬希の隠密行動鍛錬と称した僕らへのストーキングは大成功に終わった。なぜなら、遠足が終わって全員が学校に帰り着くまで、僕以外に誰も彼女の姿を見た者は居なかったからだ。




