4月24日(水) 化け物
<TMO-1021>
4月24日(水) 天気…曇り
〇
この日も僕は、放課後になって町の巡回のためにさっさと荷物をまとめて学校を出ていく紬希の背中を追いかけていた。
こんなふうに彼女の後を飼い犬のようについて行く日々は一体いつまで続くのだろう? ひょっとしたら、この先卒業式の日までずっと続いてゆくのだろうか?
そこまで考えるのは大げさだろうと思ったけれど、ここ数日ばかり毎日紬希のことばかり考えていて、学校が休みの日にも彼女のことが頭から離れなくて、精神的にも疲弊してしまっていた。
――そんな、紬希に対する不満が募る中で迎えた今日。とうとう僕の中で我慢の限界に達する事件が起きてしまう。
学校が終わった帰り、いつものように紬希と二人で表通りを歩いていた時のこと。
通りの向こうから、リードが付いたままの小さな犬が走ってきた。その後ろから、慌てた叔母さんが追いかけてくる。おそらく、リードをうっかり手から離してしまったのだろう。その犬は叔母さんから逃れるように進路を変えて車道の方へと飛び出してゆく。
気付いた時には、既に紬希が駆け出していた。
「あっ、紬希待って――」
僕は咄嗟に彼女の行動を止めようとしたが、遅かった。犬が飛び出した車道のすぐ背後から、トラックが猛スピードで迫っていた。叔母さんが悲鳴を上げた。紬希が道路脇に植えられた生垣を跳び越え、犬を抱えて瞬時に後ずさる。
トン、と軽い音がして、紬希の身体は宙に浮いた。
そのままくるりと回転し、道路脇の生垣に背中から倒れ込む。紬希の腕に守られ、辛うじて無事だった傍迷惑な犬は、紬希の手からするりと抜けて、駆けつけた飼い主の叔母さんの元へと戻っていった。叔母さんは自分のペットが無事であったことに喜んで散々舐めるように撫で回した後、助けてやった僕らにお礼の一つも言わずに、まるで赤の他人を装うようにしてそそくさとその場を去っていってしまう。
僕は、礼儀知らずな叔母さんの遠退く背中を軽蔑の目で一瞥し、それから慌てて生垣の中に倒れている紬希の元に駆け寄った。
「紬希! 大丈夫か⁉︎」
潰れた生垣の中に紬希は倒れていたが、彼女はすぐに起き上がり、制服に付いた木の葉を払い落としながら、「このくらい平気」と答えた。そして何食わぬ顔で立ち上がると、再び何も無かったように通りを歩き始める。見た感じは大丈夫そうなので、僕は安堵して胸を撫で下ろしていたのだが……
――この時、僕はもっと早く気付いてやるべきだった。大通りを抜け、人気のない狭い路地に入り込んだ辺りで、ようやく紬希の様子が少しおかしいことに気付く。
彼女の白い頬の上を、一筋の汗が伝い落ちていく。足元は妙にふらつき、暫く歩いてから、紬希は路地を仕切る塀に体を持たれかけた。
「? 紬希、どうかした――」
僕はそこまで言って、ふと彼女の左腕に視線を落とし、絶句した。
その腕は、普通なら絶対に曲がらないであろう方向に強引に捻じ曲げられていた。どこかの皮膚が破れているのか、歪に折れ曲がった手の指先からは、赤い血が滴り落ちている。
きっと、ついさっきあの犬を助けようとした時、走ってきたトラックに体をかすめて、その際に片腕を接触させてしまったのだろう。
「……ちょ、その腕! 早く救急車呼ばないと!」
そう言ってスマホを取った僕の手を、紬希の右腕が掴んで引き留める。
「別に、私は平気」
「平気って、お前何言って……」
「私の能力、忘れたの?」
紬希は路肩の電柱に身を潜めて制服の上着をそっと脱ぎ、それから左袖が血で真っ赤に染まったシャツのボタンを一つ一つ外してゆく。露わになった血塗れの腕を見て、僕は思わず目を覆った。
紬希の捻じ曲がった左腕、その腕から無数の白い糸が湧き出て、まるで包帯のように彼女の細い腕にするすると巻き付いてゆく。
「大丈夫……多分、後少しで折れた骨の位置が元に戻るはず、だから……っくぅっ!」
次の瞬間、絡み付いた糸が一気に紬希の左腕を締め上げた。メキッと生々しい音がして、折れ曲がった腕は紬希の小さな悲鳴と共に、元の位置へと矯正される。
「……よし、直った。行こう」
それまで腕に絡まっていた糸は瞬く間に解れて、白い肌の内側へ吸い込まれてゆく。さっきまで折れた骨が突き出てしまっていた傷口も、綺麗に縫合され傷跡を残すだけで、全て元通りに治ってしまっていた。
僕は紬希が一連の挙動を終えるまで、唖然としたままその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「どうして……どうしてそんな、たかが犬一匹のためにそこまでやらなきゃならないんだよ?」
そして、気付けば僕は思わずそう言葉を口にしてしまっていた。紬希は、脱いだシャツを再び着直しながら、仏頂面のまま答える。
「人間だろうと犬だろうと、傷付けばその痛みはずっと消えてくれないし、命を落とせばもう起き上がってもくれない。――でも、私はそうじゃない。どんな傷だって一日あれば消えるし、痛みだって一晩も続かない。だから、どんなに危険な状況でも私が助けてあげるのが一番妥当だし、論理的だと思うの」
そう言って制服の上着に腕を通し、血塗れのシャツが周りから見えないように着込む紬希。そして、着替えを終えて足早にその場を離れようとする彼女の肩を、僕は乱暴に掴んでいた。
「論理的とかそんなことどうでもいいだろ! どうしてお前は自分の命を軽々しく投げ出すような真似をするんだよ!」
僕は彼女を正面に向かせて、目の前でそう叫んだ。僕の叫びは、誰も居ない路地の中に虚しく響き渡ってゆく。
「……お前、おかしいよ。命を失うことが怖くはないのかよ……どうして、もっと自分を大切にできないんだよ?」
そう詰め寄る僕に、紬希は梟のようにかくっと首を曲げて疑問を口にする。
「……どうして、凪咲君が怒っているの? これは私の問題で、凪咲君が困ることじゃない」
分かって欲しい気持ちに気付けない鈍感過ぎる紬希の感覚に対し、僕は激しい怒りを覚えると同時に、身の凍り付くような恐怖を覚え、思わず掴んでいた肩を離し、数歩退いていた。
痛みを恐れず、自分の命を投げ出すことさえ何とも思わなくなってしまった彼女は、もう既に人間ではなくなってしまったのかもしれない。そんな不安が脳裏を過ぎり、全身に鳥肌が走る。彼女の足下から放射状に伸びる長い影が、何か得体の知れない、ひどく恐ろしい怪物の姿に変貌していくような気がした。
「もういいよ……もう勝手にしろよ。もうお前のことなんか知らない、死にたきゃ勝手に死ねよ!」
耐えられなくなって、僕は彼女にそう言葉を投げ捨てて、その場から走って逃げ出した。あんなやつになんか付き合っていられるか。命が幾つあっても足りない。あいつが創設した変な名前の部活動も辞めてやる。もう二度と一緒に帰ってやるものか。
僕はむき出しになった怒りを抱えたまま、息が上がるまで走り続けた。胸の内で飛び跳ねる心臓を押さえ付けながら、立ち止まってちらと後ろを振り返る。
紬希の姿は見えなかった。僕はよろめいて傍にあった電柱に肩を持たれかかる。
こんなに気持ちを取り乱したのは何時ぶりのことだろうと、弾む息を整えながら僕は思った。
でも、怒りに我を忘れなければ、僕はそのまま恐怖に呑まれてあの場から逃げることさえできなかっただろう。……だから、ああする他になかったんだ。
「……でも、少し言い過ぎたかもな」
息が整い、ようやく気持ちが整理できる頃になって、気付けば僕は、ふとそんな無責任な言葉を漏らしていた。あの場に残してきた小さな心残りを、始めは気にしないようにしていたつもりだったけれど、家に帰り着く頃には、いつの間にかその心残りは大きな罪悪感となって膨らみ、僕の背中に重くのし掛かってきていた。
 




