6月4日(火)⑥ 自慢の愛弟子
僕はチヨベの下敷きになってしまったイナリに手を貸し、彼女を抱き起こしてやった。狐耳の幼女は、僕の腕の中でしゅんと小さくなって両耳を垂らし、弱々しい溜め息を吐く。
「うぅ……まさか二回も此奴の尻に敷かれるとは……妾も堕ちたものよのぅ」
「おい、俺とババァが夫婦みたいに例えてんじゃねぇよ。気持ち悪りぃ」
不満を漏らすイナリに向かって、すかさずチヨベがツッコミを入れる。
それにしてもこの少女、抱え上げてみて分かったのだけれど、まるで羽のように軽かった。この子に中身はあるのだろうかと疑うほどに。
「あ、あの、大丈夫ですか? 立てます?」
「うむ、すまぬのぅ。……お主は優しいのじゃな。こんなか弱い老体を座布団代わりに扱うどっかの誰かさんとは大違いじゃ」
そう言って、僕の腕に抱かれながらジーッとねちっこい目でチヨベを見つめるイナリ。「へん、ババァが何かほざいてら」と、その視線を跳ね除けるようにチヨベが負けじと言い返した。
僕は羽のように軽い七歳の老婆を社の外へ連れ出し、縁側の上に座らせた。
「いやはや……それにしても、あの人数で『千里神鏡』を使えたとは驚きじゃ。あの鏡を使うには、覗いた全員の想起する「見たいもの」の対象を限り無く一致させる必要がある。じゃから、当然覗く人数が増えれば増えるほど雑念も多く混じるし、全員の想起する対象を一致させることが困難になるのじゃ。普通なら二、三人でも失敗するくらい難易度の高い技だったのじゃが……」
「まぁ、それだけ皆の思い浮かべたイメージが寸分違わずぴったり重なっていたということじゃろうな」と、イナリは答えた。
……この時、僕はふと、昨日チヨベの妻であるオリザから言われた言葉を思い出す。
『――村長様はうちの娘をたいそう可愛がってくれていてね。そりゃあもう、目の中に入れても痛くないってくらいに。だからミヤナは、毎日村長様のところへ通っては、ひたすら村守人になるための修行に励んでいたんだよ』
「………その鏡が使えたのは、あなたも思い浮かべていたからじゃないですか? 自分の愛弟子であった、ミヤナさんのことを」
そして気付けば、僕はイナリに向かってそう問いかけていた。
僕の放った言葉に、イナリはハッとして顔を上げ、驚いた眼でこちらを見る。
そして、やがて丸くなった目をとろんと緩めると、「ふっ」と短く息を吐いた。
「……そうか、お主には見透かされておったか。妾が生きてきたこの三千年、多くの村守人をこの手で育て上げてきた。無論、あの子もそのうちの一人じゃ。覚えは悪いし自分勝手で師匠の言うことも聞かぬし、まぁ大層手のかかる奴じゃったが……技を学ぶ情熱だけは、誰にも負けぬ奴じゃったよ」
イナリはどこか懐かし気な目をして、過去を振り返りながらそう僕に話して聞かせていた。
しかし、それから不意に首を横に振り、溜め息を付きながら言う。
「……じゃがな、例え弟子の一人が敵に斬り伏せられ、苦悶している姿を見たとしても、師匠は弟子に情けを持ってはならんのが掟じゃ」
「えっ? どうして……」
僕はイナリの発言に驚き、思わず聞き返してしまう。
「心の内より湧き上がる怒りや悲しみは我を忘れさせ、集中力を鈍らせる。それは幻術や妖術を操る者にとって、最大の弱点になりかねんからじゃ。情けが仇……弟子への深い慈悲は、すなわち師匠としての失格を意味する。……じゃから、妾はただ仕込んだ弟子が力不足だったと素直に反省して、次なる候補者を探すだけなのじゃ」
「そんな……」
イナリの言葉に、僕は絶句する。ミヤナを助けたい一心で、つい感情的になってしまっていた僕は、込み上げる悶々とした想いを抑えきれず、思わずこう口にしてしまいそうになる。
「そんなことで弟子を見捨てたりなんかして、それでもあなたは師匠なんですか?――」
しかし、そう口にしようとしてイナリの方を向き、吐こうとした言葉を飲み込んだ。
俯いたイナリの膝に置かれた両手が、ぎゅっと強く握り締められていた。その拳の上に、ポタポタと大粒の雫が落ちる。
「……じゃが……じゃがのぅ……」
拳の上に落ちた雫は、つぅと尾を引いて緋袴の上に垂れ、大きな染みを作った。
「弟子のあんな可哀想な姿を見て、平静で居ろなんて……できるわけないじゃろうが……ぐすっ、ひっく………」
イナリは泣いていた。大粒の涙をポロポロこぼして、子どものように声を上げて泣いていた。
僕は泣いてしまったイナリの震える肩に手を置き、彼女を慰めてやった。しゃくり上げる度に上下する小さな背中を優しく撫でている時、僕はなぜか、涙を流すイナリの姿を見て、密かに安堵してしまっている自分が居ることに気付く。
(……そうだ、これが正しい。これが、本当の師匠としての姿なんだ。間違ってなんかいない)
僕はそう思い、傍に居た紬希と虎舞に目を向ける。二人も僕と同じ考えらしく、虎舞は「馬鹿みたい」とでも言いたげにフンと鼻を鳴らして腕を組んだ。
「……アンタは師匠失格なんかじゃないわ。自分の教え子にあんな酷いことされて、黙ってる方が逆におかしいっての。ねぇ紬希?」
虎舞の問いかけに、隣に居た紬希がコクコクと何度も頷きを返した。
「うぅ……そうか、お主らもそう思ってくれるか。本当は妾も、ミヤナのことが心配でならんのじゃ。あぁミヤナよ、どうしてあんな痛々しい姿になってしまったのじゃ……」
――こうして僕らは、涙脆い老婆が泣き止むまで、ずっと彼女の側に付き添ってあげていた。




