6月4日(火)⑤ 鏡よ鏡……
――こうして、延々と続く回廊を走らされ、見たくもない悪夢を見せられ、散々な目に遭いつつもどうにかイナリ村長の元に辿り着くことのできた僕たち。
だけど、まさかこんなに小さな狐耳の幼女が、実は村一番の長老であると分かり、僕ら一行は呆然としてしまっていた。
「まったく、本来なら余所者は問答無用でお引き取り願うところなのじゃが……でもまぁ、アンタらが悪い輩ではないことなど前から把握しておったし、どのみちここへ来るだろうことも分かっておった。悪いのはお主らを連れて来ると予告しておらんかったチヨベの方じゃ。おかげで本当に曲者がやって来たと勘違いしてしまったではないか」
「はぁ⁉ 何で俺のせいになるんだよ! 誰を連れて来るなんていちいち手紙出すほど俺ぁ暇じゃねぇやい!」
明らかに後付けで分かったふりをして罪を擦り付けようとする少女と、罪を着せられて怒るチヨベ。二人の言い争いを傍で見せつけられる僕らは呆れてしまい、怒りを通り越して、もはや溜め息しか漏れなかった。
しかし、どうやらこの村長は、余所者である僕らを追い払うつもりはなく、むしろ歓迎してくれる心づもりでいたらしい。ただ、僕らの来訪が予め彼女の耳に伝わっていなかったらしく、突然お邪魔してきた僕らを不審者と勘違いしてしまったというのだ。
「――いやはや、それにしてもすまなかったのう。遠路遥々やってきたと言うのに、こちらの歓迎が過ぎたみたいじゃ。お詫びに何かしたいところなのじゃが、生憎妾から差し出せるものなど何も無くてのう」
狐顔の少女イナリは僕らにそう謝罪すると、とても長老とは思えない軽やかな足取りで石段を登り、社の縁側にひょいと腰掛けた。その様子を側で見ていた虎舞が、納得できないとでも言うように苛立ちの声を上げる。
「もう、何なのよこの村は! こんな敵味方も区別できないちびっ子に村長を務めさせるなんて、どうかしてるわよ!」
「やれやれ、さっきからうるさい小娘じゃのう。こう見えても、妾は三千年の時を生きておる妖狐なのじゃぞ。今でこそ、こんな貧相な体になってしもうたが、昔は背も高くてボンキュッボンの、それはもう誰もが目を奪われるくらいの絶世の美女だと界隈でもてはやされておったのだぞ」
「アンタの昔の自慢話なんか聞きたくないわよ!」
このまま二人の口喧嘩を延々と聞いているのも億劫だと思った僕は、双方の間でパチパチ飛び散る火花を消すように「まぁまぁ」と間に割り込んだ。
「あの、イナリさん。僕らがここへ来たのは、ある事をあなたにお尋ねしたくて――」
僕がそう切り出すと、イナリは鬱陶しげに手を振り、「あぁ、言われずとも分かっておるわ」と、僕の言葉を遮るように答えて、腰掛けていた縁側からひょいと飛び降りた。
「お主らが何処の誰なのかも、妾にはちゃんと分かっておるのじゃ。――どうしてお主らがこの世界に来なければならなかったのか、その理由もな」
その言葉を聞いた途端、僕らは驚愕のあまり言葉を失う。
――この幼女、僕らが別の世界から来たことを知っている?
僕たちが異世界へ飛ばされてしまった経緯を既に見抜いてしまっていたこの幼い老婆は、茫然としている僕らの前で「ほっほっほ」と声を上げて愉快に笑っていた。
◯
「……アンタ、私たちがここじゃない別の世界から来たことを、最初から知っていたの?」
「モチのロンじゃ!」
虎舞の問い掛けに対し、鼻高々にそう答えて両腕を腰にやるイナリ。しかし、いくら村人の皆から敬われる村長とはいえ、彼女の一挙一動どれを取っても子どもっぽく、いちいちポーズを決める度にあどけないオーラが全身からあふれ出てしまうせいで、威厳なんて微塵も感じられなかった。
「社に置いてある『千里神鏡』を通して見れば、たとえお前たちの居た別世界だろうと天国だろうと地獄だろうと、どんな場所でもお見通しなのじゃ!」
イナリはそう言ってひらりと身を翻すと、社の正面に立って、それまで閉じられていた両開きの戸に手を掛け、一気に手前へ引き開けた。
戸の奥には神棚が置かれており、古ぼけた台の上に、大きな丸い鏡がお供え物のようにして中央に置かれていた。どうやらあの鏡で、僕らの居る世界の様子を見ることができるらしい。
――『神は鏡の如く全てを見通すものだ』と、以前どこかで聞いたことがある。……もしそうだとするなら、あの狐耳の幼女は、神様ということになるのだろうか?
もし、あんな幼女が神様だというのなら、彼女に支えられるこの世界は、きっと退屈しないだろうな……そんなくだらないことを考えて、僕は溜め息をつく。
イナリは神棚の前に置かれた台の上に飛び乗って正座すると、僕らの居た元の世界を映すことができるという神境と向かい合った。しかし鏡を覗いても、そこには狐顔の幼い少女が映っているだけだ。
「さて、この『千里神鏡』を使うには、妾の持つ妖力を鏡面に流し込まねばならないのじゃが、それだけでは足りん。同時に鏡を見るお主ら一人一人が、全く同じ対象を鮮明に思い浮かべることが必要なのじゃ。誰か一人でも何か別のことを考えたり、少しでも雑念が混じれば、鏡は見るべき対象を失って途端に曇ってしまう。皆の思いを一つにせねば、この鏡は見たいものを映してくれぬのじゃよ」
そこまで言い終えると、イナリは僕らの方に振り返り、静かに問い掛ける。
「……さて、それでも良いというのなら……お主らは、何が見たいのじゃ?」
――問い掛けられた僕らは、互いに顔を見合わせた。
そんなの、問われなくても初めから決まっていた。そのために僕らは、大変な思いをしてまでここまで足を運んで来たのだ。
――そして、それはチヨベもまた同じだった。社の前に集う僕らの隣へ、真剣な目をしたチヨベがどすどすと踏み込んできて、イナリに向かい言い付ける。
「いいから、とっとと始めろやババァ」
「はぁ……相変わらずお主はいつも口が悪いのう。この罰当たりが」
「うっせぇクソババァ!」と言い返すチヨベを尻目に、イナリは前へ直って再び鏡と向かい合う。そして鏡の前に両腕を差し出すように伸ばすと、すぅと息を吸い、小声で何やら呪文を唱え始めた。
イナリが呪文を唱えている間、僕らは互いに目配せを交わし、それから正面に置かれた神鏡をじっと見つめた。
僕らが思い浮かべる対象は、ただ一人だけ。
――そう、僕らが元居た世界に、今も取り残されてしまっているチヨベの娘、ミヤナの姿だ。
(どうか無事で居てくれ……)
僕はミヤナの容姿を、思い出せる限り鮮明に思い出そうとした。ベッドに横たわる彼女の姿、彼女の胴や腰周りを覆っている重厚な鎧、失われた左腕には包帯が巻かれ、今も苦しみ悶えている痛ましい姿が目に浮かんだ。
……と、その時、それまでイナリの顔を映していた神鏡の鏡面から、眩い光が放たれた。その光は僕らの目をくらませ、目の奥に何か熱いものを流されていくような感覚が走る。
そして、目を焦がさんばかりの光に耐えかねて、思わず目を閉じてしまった瞬間――
「あっ……」
まぶたの裏に、ある光景が映った。
――そこは、僕らがいつも学校帰りに立ち寄っていた「放課後秘密連合団」の秘密基地「ユナイターズ・カフェ」の中だった。
それまで、じめじめとした薄暗い洞窟だった場所を、小兎姫さんが一生懸命に改修してシックなカフェの内装に模様替えしてくれた、僕らにとって思い出深い場所。キッチン前に置かれたL字のカウンターテーブルや丸テーブル、そして、その上から吊り下げられた暖色の照明が、辺りを明るく照らしている。
そして、部屋の奥には一台のベッドが置かれており、そこに、一人の女性が横になっているのが見えた。
アマゾネス風の鎧を身にまとった、猫耳の女性。僕らの世界であんな格好をして出歩けば、絶対にコスプレか何かと間違えられてしまうだろう。
ミヤナだ! と僕は叫んだが、その声はあちら側には届いていないようだった。ベッドの横には小兎姫さんと空越君が居て、心配そうに彼女の様子を見守っている。二人の姿も、何だか久々に見たような気がする。
左腕を失い、苦しげに表情を歪めつつも、ミヤナの胸は上下に動き続けていた。彼女はまだ生きている。そう分かって、僕は安堵の溜め息を吐く。
「おっ、おいミヤナっ! 大丈夫か? しっかりしろミヤナ――っ! ……っておわっ!」
その時、僕の横でチヨベの叫び声が聞こえ、それからガタガタッ! と何かが倒れる音が響いた。
すると、それまではっきり見えていた秘密基地の映像にぼんやりと靄がかかり、やがて幻のように消えてしまった。
――目を開けると、僕らの前にチヨベが倒れていた。まぶたの裏に映っていた自分の娘に近寄ろうとして、誤って足を引っ掛けて転んでしまったのだろう。神棚に置かれた丸鏡は倒れることなく無事だったけれど、台の上に座っていたイナリを巻き込んでしまい、彼女はまたチヨベの背中に下敷きにされて、すっかり伸びてしまっていた。
「きゅうぅ………」




