6月3日(月)② 不機嫌な理由
お昼になってようやく、僕らは重労働から解放された。田植えの間ずっと腰を曲げていて、そのまま元に戻らなくなってしまうかと思った。照り付ける太陽の日差しが背中を焼き、額から玉のように流れる汗が目に入って痛かった。おまけに履いていた足袋の中にも泥が入ってしまい、冷たくて気持ち悪くて仕方なかった。
苗を植え終えた田を見てみると、僕たちが植えた場所の列はぐちゃぐちゃで、おまけに植える深さも揃っておらず、所々苗が水の中に沈んで見えなくなってしまっているものもあった。
けれども村人たちの植えたところは、まるで機械で植えたかのように綺麗かつ正確に一列縦隊で並んでいた。綺麗に並ぶよう、一回一回苗を植える度に位置を考えていたのかと思うと、いかに村人たちが田植えの玄人であるかを思い知らされた。
僕らは日陰になっている風車の下へ移動し、そこで休息をとった。風車の下には給水場があり、地下からくみ上げられた清水が絶えずパイプを通って流れ出ていた。くみ上げられた地下水は、そのまま用水路を通って水田へと渡され、やがて川へと流されてゆく。これだけ水が豊富な土地だからこそ、ヨネもあれだけ巨大な実を付けることができるのだろう。
そんなことを思いながら、僕は履いていた足袋を脱ぎ、ずっと中に溜まりっぱなしだった泥を落としていた。
「いやぁあああっ! またこいつが付いてるぅ!」
「大丈夫、私が取ってあげるから」
いつの間にか足元を這っていた縞々《しましま》模様の巨大ヒルに気付いて悲鳴を上げる虎舞。その横に居た紬希が、指先から伸ばした糸で付いていたヒルを器用にこそぎ落とし、指でつまんでポイと田んぼに投げ捨てた。
「あんな気持ち悪いの、よく平気で触れるわね……」
「意外とムニュムニュして気持ち良いよ。両手でつまんで引き伸ばすとガムみたいに伸びるし、面白い。虎舞さんもやってみたら?」
「死んでも御免よ!」
それは僕も虎舞に同意見だった。
「ってか、私たちは早くあっちの世界に戻りたいってのに、何でこんな泥まみれになって働かなきゃならないわけ⁉︎ ……それに、確か元居たあっちの世界は日曜日だったから、今日は月曜日のはずでしょ? 学校行かなきゃならないってのに、こんなことしてる場合じゃないわよ!」
虎舞はそう言って頭を抱える。確かに、こっちの世界に飛ばされて一晩経ったから、僕らの元居た世界では曜日が変わって月曜日になっているはずである。
「でも、こっちの世界とあっちの世界で時間の流れが違う可能性もあるから、一概にそうとも言いきれないわ」
紬希がそう意見する。
「えっ? ……ってことは、こっちでの一日が、あっちでは一週間だったりとかするの? もしそうだとしたら、私たち失踪したって思われちゃってるわよ」
もし、こちらで進む時間の流れが、元居た世界で進む時間の流れより早かった場合は厄介だ。そうなれば、この世界に留まれば留まるほど、あちらの世界では倍以上時間が進んでしまうから、下手すればウラシマ効果が発生しかねない。僕らの住んでいた家は無くなり、知人は皆死んでいるか、しわくちゃの老人に変わり果てている未来を想像してしまい、ゾッとする。
「……早いところ、なんとかしなきゃいけないよね」
僕はそう独り言ちる。けれど、この世界と元居た世界とを繋いでいた緑色の石も、まだ相変わらず反応しないままだし、あの石が光ってくれない限り、僕らはずっとこの世界に閉じ込められたままだ。
少しして、僕らの休んでいるところへ、くわを担いだチヨベがやって来る。
「おいテメェら、いつまでサボってやがるつもりだ。とっとと次の田へ行く準備するぞ」
そう言われて、即座に虎舞が反応した。
「はぁ? まだここに腰を下ろしてから十分も経ってないんだけど。お昼くらいゆっくり食べてもいいでしょ」
「昼飯くらい十分で済むだろうが。まだ田植えを終えてねぇ田がたくさん残ってんだ。さっさと食って準備しとけ」
そう言ってチヨベは僕らを睨み付けた。そんな彼の態度に虎舞はムッとして眉をひそめ、負けじと言い返す。
「十分⁉︎ 昼休みがたったの十分なんておかしいでしょ? そんなんじゃ体が幾つあっても足りないっての。あぁもう無理! やってられない!」
虎舞は投げ出すようにして立ち上がると、被っていた麦わら帽子を地面に叩き付け、地団駄を踏んでその場から逃げるように去ってしまった。
「おい待ちやがれ! 何処行くつもりだよ、おいっ! ……ったくあの野郎」
チヨベは困ったように頭をかきながら唸っていた。
○
それから、僕らは次の田へと移動したのだけれど、やっぱり虎舞はやって来ていなかった。
僕は心配になって、田植えの合間にそっと抜け出し、田の周辺を回って虎舞の姿を探した。しばらく探し回って、やがてチヨベの運転してきたトラクターの荷台の下に、体を横たえて休んでいる虎舞を見つけた。
皆から見えないよう、日陰になった狭い場所に隠れて潜むその姿は、まるで車の下で丸くなっている猫を見ているようで、時折り虎舞の頭から生えた猫耳が、彼女の感情の揺れに合わせてピクリと反応していた。
「……何見てんのよ、変態」
「起きてたのか」
相手を突き放すような彼女の態度を見て、いつも通り平常運転な虎舞であると分かった僕は、なぜか逆に安心してしまい、荷台の車輪を背もたれにして地面に腰を下ろした。
「私を連れ戻しに来たのなら、とっとと帰って。私はもうあそこには戻らないから」
虎舞は意固地にそう言ってくるけれど、僕は聞かなかった振りをして、座った地面の横に虎舞の水筒とお弁当をそっと置いてやった。
「はいこれ。お昼食べてなかったでしょ? お腹が空いてないかなって思って、持って来たんだ」
そう言って、僕はお弁当の包みを開く。紐で縛られた大きな緑の葉っぱの中には、お団子のような白くて丸い食べ物が三つ入っていた。
「『ニギリモチ』って言って、ヨネをこねた中に焼いたお肉と野菜を詰めた携帯食なんだって。外はもっちり、中はジューシーで、すっごく美味しかったよ」
荷台の下からキュルル……とお腹の鳴る音が聞こえた。どうやら僕の言葉を聞いて食欲が湧いたらしい。
すると、荷台の隙間からスッと手が伸びて、水筒とニギリモチが一つ、奥へと引き込まれていった。それから数分経ってからもう一度横を見ると、お弁当の包みはすっかり空っぽになっていた。
お腹一杯になって満足したであろうと思った僕は、ここで虎舞に聞きたかったことを尋ねてみることにした。
「……あのさ虎舞、こっちの世界に来てから、何だか凄く気が立ってるように見えるんだけれど、何かあったの?」
ずっと前から気になっていたことを、思いきって本人の前で打ち明けてみる。暫しの沈黙が流れて、少ししてから、荷台の下から返事が帰ってきた。
「あのチヨベってやつの態度が気に入らないの。傲慢だし、意地っ張りだし、色々とウザいし……まるで――」
そこで、彼女の言葉が一瞬止まる。
「………まるで、私の親父を見ているみたいでさ」
その言葉を聞いた僕は、これまで虎舞がどうしていちいちチヨベに何か言われては突っ掛かり、反抗的な態度を示していたのか、その理由を全て理解した。
確かにチヨベの性格は、以前紬希と一緒に虎舞の家を訪ねたとき、門前で遭遇した虎舞の父親にそっくりだった。虎舞が不満を抱かないはずがない。彼女にとって、チヨベと向かうことは嫌いな父親と向き合うことそのものに他ならなかったのだ。
「ほら、分かったらさっさと行きなさいよ。ほら、アンタの相棒も心配になって見に来たみたいよ」
そう言われて前を見ると、遠くから紬希が走ってくる姿が見えた。どうやらまた盛大にコケたらしく彼女の全身は見事なまでに泥まみれだった。
「ほら、早く行って。こんなところに三人も集まったら、あのクソ親父までやって来ちゃうじゃないの」
そう言われて、僕は仕方なく立ち上がると、走って来る泥だらけの紬希に向かって手を振り、虎舞の居るトラクターの荷台から離れた。
「虎舞さん、居たの?」
駆けつけた泥まみれの紬希からそう尋ねられ、僕は返事に困ってしまう。
「うん。でも体調が優れないから、今は休んでいたいって。だから、そっとしておいてあげよう」
そう誤魔化して、僕は田植えの作業をしている田へ急いで戻った。
でもそれから田植え作業をしている間中、僕の中で虎舞の放ったあの言葉が、ずっと心の片隅に引っ掛かったまま離れなかった。
……どうやら僕らが解決しなければならない問題は、僕らが元居た世界に戻ることの他にもあるようだ。さらなる新しい課題を前に、僕は重い頭と重い腰を抱えながら、必死になって田に苗を植え続けていた。




