6月2日(日)④ 泥んこジャンパー
<TMO-1166CP>
<TMO-1166>
??? 天気…晴れ 異世界1日目
〇
渦に吸い込まれた途端、まるでテレビの電源を切ったように、プツリと意識が途切れた。意識が無くなってから再び目覚めるまで、果たしてどれくらいの時間が経ったのか分からない。けれど僕の中では、瞬きするほどに一瞬の出来事であるように感じた。
それまで中身の無い抜け殻のようだった体に、ようやく意識と感覚が舞い戻る。そして戻ってきた感覚は、今、自分の体に下へ下へと引っ張られる力が作用していることを暗に伝えていた。
やがて、その力は重力であることが分かり、自分が、今まさに落下している最中なのだと脳が理解する。
ーーそう、僕は暗闇の中を落ちていた。風は感じないが、間違いなく自分は落下しているのだと感覚が教えてくれる。何かに捕まろうと手を広げるが、何処へ手をやっても、何処に目を向けても、そこには何も見えもしないし触れることもできない、真っ黒な壁があるだけだった。
そして落ちてゆく先、足元に広がる闇の一点に、錐で穴を開けたような小さい光が漏れていた。
(―――あれは、何の光だ?)
その光は、初めのうちは目を凝らさないと見失ってしまう程の小さな点だったが、やがてボールほどの大きさになり、次には風呂桶くらいの大きさになり、みるみるうちに膨れ上がって、僕の全身を包み込む。僕は眩しさのあまり目を閉じて、顔面を手で覆った。
◯
――ドシャッ‼︎
そして次の瞬間、僕は氷のように冷たい水の中に放り出されていた。
……いや、正確に言えば、それは水ではなかった。冷たくて、ドロドロとしていて、粘っこくて、体中に纏わり付いてくる。顔にもそのドロドロがへばり付き、口の中までそれが入ってきて息ができない。身動きが取れない。苦しい、このままでは死ぬ――
僕は慌ててその場でもがき、どうにか両腕を地面と思しきぬかるみのなかに突き立てた。地面は酷く緩くて、ずぶりと腕の半分程がめり込んだ。地面に吸い付く体を剝がすように重い体を起こし、辛うじて水面から顔を上げた僕は、思い切り息を吸い込む。
「――ぷはぁっ!」
途端に、口の中に入ったドロドロが鼻の奥まで上がってきて、思い切りむせた。歯を噛み締めると、ジャリッと砂を噛む音がして、ザラザラした舌触りと生臭い土の臭いが頭の中一杯に広がる。
「うっ! ………お"ぇ"え"え"ぇ"っ……ぺっ、ぺっ! 何だこれ――泥?」
僕が口から吐き出したのは、紛れもない泥だった。顔にも服にも泥がへばり付き、酷く体が重い。
僕は目の周りに付いていた泥を手で拭い取って視界を確保し、周囲を見渡す。
頭上には一面の青空が広がり、その所々で千切れ雲がぷかぷか陽気に浮かんでいた。地面には広範囲に渡り水が張られていて、数十センチの水嵩しかない水面には、緑色の細い葉を束ねた植物が、何列にも渡ってずらりと並んでいる。
――そこまで見たところで、僕はようやく、自分が田んぼの中にはまっていることを理解した。
「……ど、どうしてこんなところに……」
僕は酷く混乱していた。ついさっきまで、僕らは秘密基地「ユナイターズ・カフェ」に居て、小兎姫さん達と一緒に、トラに化けていたミヤナの怪我を治療していた。そして、虎舞がミヤナの持ち物の中に発光している石を見つけて、それを取り出した途端、突然石が光り輝いて渦が現れ、瞬く間に飲み込まれて……
――そして、気付けば何処かも分からない田んぼの中に、頭からはまっていた。
……全く訳が分からない。つい数時間前、虎舞の愛猫であるトラが、実はミヤナの変身した姿であることが分かった矢先、何の手掛かりもつかめないまま、唐突に場面を切り替えられてしまったような、そんな感覚。おかげで思考が全く追い付かない。まるで、各部の繋ぎがチグハグな出来の悪い三流推理小説でも読んでいるような気分だ。
(取りあえず、今は一刻も早くここから抜け出さないと……)
僕は水田の周りを囲っている畦を目指し、泥の中を這うように進んだ。
――ぐにゅっ。
と、その時、泥の中に突っ込んだ手が、何か異様な感触をキャッチした。泥にしてはやけに弾力があり、押すと押し返される。それに、手のひらに感じるこの妙な暖かさは……
ブクブクブクブク……
すると、泥に突っ込んでいた手元から、たくさんの気泡が噴き出ててきた。
(――まさかっ⁉︎)
僕は慌てて泡立つ水面に両腕を突っ込み、濁った水の底から、人間ほどの大きさがある巨大な泥の塊を引きずり出す。
果たして、その塊は人間だった。顔に付いた泥を拭い取ってやると、泥にまみれた人物の正体が露わになる。
「紬希! お前も一緒に来てたのか⁉︎」
驚いた僕の声を聞いて意識を取り戻したのか、紬希はうっすらと目を開き、蒼い双眸に僕の姿を映し出す。
「――ぶっ!」
そして口を開いた途端、大量の泥を吐いて、軽くむせた。
「……ごほっ、ごほっ……痛くはなかったけど、私、本当に死ぬかと思った」
彼女の口から弱々しく放たれた言葉を聞いて、僕はあきれたように首を振る。
「不死身の体をしていながらよく言うよ……立てるか?」
「うん、平気……っ……あっ!――」
紬希は無理に立ち上がろうとして、勢い余ってバランスを崩し、バシャッ! とまた仰向けに倒れ込んで周囲に泥を飛ばした。
僕は倒れてしまった紬希の腕を引き、どうにか畦のところまで彼女を引きずっていった。どこもかしこも酷くぬかるんでいて、数メートル進むだけでもかなり体力を消耗する。ようやく畦に手が届く頃にはすっかり疲弊してしまい、僕と紬希は泥だらけの体を土手の上に横たえ、仰向けに寝転がった。
真上には一面青空が広がっていて、相変わらず所々に千切れ雲が浮かんでいた。照り付ける太陽の光が、泥まみれで冷えてしまった僕らの体を申し訳程度に温めてくれる。
「……きっと、虎舞も何処かに居るはずだ」
僕は思い立ったように体を起こし、先ほど落ちてきた田んぼの方に再び目を向けた。
あの時、光の渦に巻き込まれたのは、僕と紬希だけではなかった。渦の中心にいた虎舞も、同じくこの場所に飛ばされて来ているはずだ。だからきっと、虎舞もこの田んぼの何処かに居るはず――
バシャバシャバシャ……
少し遠くの方で、大きな泥飛沫が上がった。きっとあそこだ。僕と紬希は水田を囲う畦沿いに駆け出し、飛沫の上がる方へ回り込む。
「……ぶっ! お"っ……お"ぇ"え"え"え"え"っ!」
泥を吐く声がした。
「ちょっ、何よこれぇ‼︎ いゃぁあああぁっ‼︎」
次に虎舞の悲鳴が聞こえた。僕は慌てて田んぼの中に飛び込み、暴れる虎舞の腕をつかんで引っ張ってやる。
「おい落ち着けよ虎舞! 別に溺れはしないから!」
僕は彼女を落ち着かせようと必死にそう言い聞かせたが、それでも虎舞は顔を青くしたまま、怯えきった表情でガタガタと震え、絞り出すような声で言う。
「ち、ちがっ、違う……こ、ここ、これ、これ取ってぇ……」
虎舞は僕に向かって右腕を突き出し、そこから顔を背けたまま、石のように固まっていた。
彼女の差し出した腕をよく見ると、袖を捲った素肌の上に、体長十センチを超える巨大なヒルがへばり付いていた。しかもそのヒルは、ぬらぬらとした黒い体に鮮やかな橙色の縞模様が太く刻まれていて、まるでグロテスクなカラーリングをした蝶の幼虫のようにも見える。
「私に任せて」
すると紬希が虎舞のもとに駆け寄り、手の指先から白い糸を伸ばして、ヒルと肌の間に糸を食い込ませた。そして、そのまま粘土を切るように、ゆっくりとヒルを引き剥がしてゆく。
「ほら、取れた」
「ひぃっ!」
その場で蹲ったまま震えている虎舞を横目に、紬希はポトッと地面に落ちたヒルを指で摘んで、田んぼの中にぽいと投げ捨てた。
「……はい、じゃあ次、凪咲君の番」
「は? 何で僕が?」
いきなり紬希にそう言われて僕は戸惑う。
「だって、凪咲君にも付いてるよ――いっぱい」
僕は顔を青くして、慌てて上着を脱ぎ払い、下に着ていた泥まみれのシャツも脱ぎ捨てた。
それまで服を着ていて分からなかったが、僕の上半身には、さっき虎舞の腕に付いていたのと同じ色鮮やかで巨大なヒルが、首元からお腹、背中に至るまで、至る所に何匹ものさばっていた。
――今度は、僕が悲鳴を上げる番だった。




