6月2日(日)① 猫被り
6月2日(日) 天気…雨
〇
僕と紬希、そして虎舞の三人は、秘密基地「ユナイターズ・カフェ」に集い、部屋に置かれた丸テーブルの一つを囲んで、小兎姫さんの淹れてくれた珈琲を飲んでいた。
「この珈琲、凄く美味しい……」
「あらそう? 気に入ってもらえて何より」
淹れたて珈琲の入ったサーバーを持ってカウンターに立つ小兎姫さんが嬉しそうに答え、「お代わりが欲しい人は言ってね、別にお金は取らないから」と声をかけてくれる。
昨日の晩、虎舞はまたしても自分の家に帰らず、紬希の家に泊まらせてもらったらしい。その証拠に、今日は紬希から貸してもらった私服を着て、紬希と共に秘密基地にやって来ていた。
「服のサイズはどう?」
「どうにか着れてるわ、ありがと。……なんか、悪いわね。わざわざ替えの服まで用意してくれて」
「気にしなくていい」
――先日の一件で、虎舞親子の間に大きな確執が生じてしまっている今、彼女はまだ実家に帰る決心が付かずにいた。当の本人が一番辛いというのに、彼女に対して自分の家に帰れと言うのも酷な話である。
しかし、そうは言っても、何時までもこのような居候の状態を続けているわけにもいかない。きっと虎舞も、本当は心の何処かで自分の家に帰りたいと思っているはずだ。そうでなければ、体育祭のあったあの日、彼女が自ら家に帰ると言い出すはずがない。
どうにかして、虎舞と両親との間の確執を取り除き、双方が和解できる方法を見つけなければならない。つい昨日、僕ら放課後秘密連合団は虎舞の提示したトラへの復讐の依頼を引き受けてしまったばかりなのだが、そんな物騒な依頼よりも、今は虎舞の家庭の課題を最優先にすべきなのではないだろうか?
「……ふん、それにしても驚きね。紬希って、いつも制服姿で居るところしか見かけなかったから、てっきりアンタが持ってる衣服は学校の制服だけだと思ってたわ」
虎舞が皮肉混じりにそう言うと、「私服もちゃんと持ってるわ。ただ着ていないだけ」と、紬希は何食わぬ顔で答えた。
――そう言えば僕も、これまで何かしら事件が起こる度に、紬希と行動を共にしてきたけれど、紬希の私服姿見ることは極めて少ない。きちんと自分の私服を持っているのに、なぜそこまで制服にこだわるのだろう? 思考回路の読めない紬希のことだから、その理由を聞いたところで、おそらく僕らの想像の斜め上をゆく答えが返ってくるのだろうとは思うのだけれど。
するとそこへ、カウンターの裏からふらりと顔を出した黒猫のチッピが、通り過ぎ様に虎舞の着ている服をちらと一瞥してから、一言。
「……ふん、胸元スッカスカじゃねぇか」
チッピからすれば、何気なくつぶやいたひとことだったのだが、その言葉が虎舞の逆鱗に触れてしまい、罪深く哀れな黒猫は、この後、鬼のような形相をした彼女に散々追い回されることになった。
◯
トラは、依然として深い眠りについたままだった。
カフェの奥に置かれた簡易ベッドの上で横になったその猫は、ピクリとも動かない。ただ静かな呼吸と共に、毛深いお腹が上下に揺れているだけだ。
「……この子、いつになったら目を開けるの?」
虎舞が心配そうに尋ねるが、こればかりは僕らにも分からなかった。少なくとも、トラの傷が完全に癒えるまでは、目を開けてくれないだろう。
「おい性悪娘、いい加減にオレを地面に降ろせよ」
追いかけっこの末にとうとう捕まってしまい、虎舞の両腕の中に抱かれてしまったチッピが、後ろの両脚をばたつかせながら言い張ってくる。
けれども虎舞は完全無視を決め込んで相手にしてくれない。
「おい聞いてんのか? いい加減にオレを――」
「うっさい! アンタは黙ってて」
虎舞から強く叱責されて、チッピはビクッと体を震わせ、黙り込んで小さくなる。
すると、寝込んでいるトラの様子を見ていた紬希が、ふとある物に目を付けて言った。
「……この子の付けている首輪、とてもキツそう。外してあげたら、少し呼吸が楽になるかも」
トラの首には、チッピと同様に赤い首輪が付けられていた。その首輪には少し大きめの鈴が付いていて、確かによく見ると、少し締め付けがきつそうにも見える。
「そうね、その方がいいかも」と虎舞が首輪を外そうとトラの首元に手を伸ばし、ベルトを緩めてそっと外してやった。
その時、虎舞はうっかり手を滑らせて、首輪を床に落としてしまう。
チリ――――ン………
首輪の鈴が床に落ちると同時に、鋭い音を周囲に投げた。その音は周りに居た僕らの耳をすっと通り抜け、頭の中で共鳴する。
――次の瞬間、不思議な現象が起こった。
「あれ? ……なんだか、視界が急にぼやけて――」
まるで夢でも見ているように、脱力した声を上げる虎舞。鈴の音を聞いた途端に、何の前触れもなく頭がぼうっとしてきて、視界に靄がかかる。それまでハッキリしていた意識も曖昧なものとなり、平衡感覚を失いかけ、体の重心を見失う。
そして一瞬意識が途絶えた次の瞬間、ハッと眠りから覚めるように意識が舞い戻り、倒れそうになったところを辛うじて踏み止まった。
「……っとと……あれ、おかしいな。昨日はよく眠れたはずなのに、何で急に眠気なんか――」
突然の睡魔に襲われたような感覚に戸惑いながら、僕は視線を前方に戻し――
そして、絶句する。
周りに居た仲間たちも、驚愕のあまり揃って言葉を失い、秘密基地の中は沈黙に包まれた。
「えっ? ……これって、どうなってんの?」
僕らの目は、中央に置かれた寝台の上に釘付けになる。その寝床の上に眠っていたはずのトラの姿が、跡形もなく消えていた。
――いや、正確に言うと、消えたと言うより、入れ替わったと言う方が正しい。
僕らが瞼を感じたわずか一瞬の間に、眠っていたトラと入れ替わるようにして、虎舞と同じ猫耳を生やした人間の女性が、そこに横たわっていたのである。




