6月1日(土)① 野良猫は二度逃げる
6月1日(土) 天気…曇り
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体育祭が終わった次の日、僕は一人で学校の前までやって来ていた。昨日まで熱気に満ち溢れていたグラウンドでは、部活の朝練に来た生徒や先生たちによって、黙々と片付けが行われている最中だった。応援テントは畳まれ、グラウンドを鮮やかに飾っていた色とりどりの万国旗も外されてゆく。瞬く間に元の学校の姿へと戻っていく様を側から眺めていると、なんだか少し寂しくなって胸が詰まる思いだった。
「祭りの後」とはよく言ったものだ、などと思いながら、僕はグラウンドから目を背けて道路の方を見やる。
すると、遠くの方の十字路から、制服姿の紬希と、私服姿の虎舞が並んで歩いていくのが見えた。二人が歩いてゆく先には、学校の裏山に入る細道がある。どうやら二人は、僕らの秘密基地「ユナイターズ・カフェ」に向かっているようだった。
そういえば、虎舞にはまだ僕らの秘密基地を見せていなかった。彼女とは以前、旧秘密基地だった廃倉庫で別れたきり、以降は色々とごたごたがあって彼女と会う暇も作れなかった。丁度良い機会だから、この際に虎舞にもあの新しい秘密基地を紹介してあげよう。そう僕は思った。きっと一緒に付き添ってあげている紬希も、同じことを考えているはずだ。
それに、虎舞も紬希たちと同じ能力者であったと分かった今、彼女を周りから孤立させないためにも、能力者たちの集う場を紹介しておくことは必要だろう。たとえ少数であっても、同じ仲間同士互いに交流を深めておけば、後々何かしら問題が起きた際にも、助け合うことができるはずだ。あの裏山の神社の裏手にある古ぼけた井戸の底に、内装の凝ったシックなカフェカウンターがあるなんて知ったら、虎舞は何と言うだろう? きっと驚くだろうな。
そう思いながら、僕は半ば楽しげな気持ちで二人の側に歩み寄った。
――が、声をかけようとして虎舞の横顔を見た途端、僕はかけるべき言葉を失う。
「――あっ、凪咲君……」
紬希が声をかけようとした僕に気付いてそう言うと、虎舞はビクッと肩を震わせて、こちらに振り向いた。
僕を見つめる潤んだ虎舞の目。その目下は異常なほどに赤く腫れていて、彼女の右頬も酷く膨れ上がり、その中央にはうっすらと青痣が滲んでいた。
「……虎舞、どうしたんだよその顔?」
「…………」
僕が尋ねても、虎舞は顔を背けて何も答えなかった。隣に居た紬希の表情も陰っている。
「紬希、一体何があったんだ?」
今度は紬希に同じことを尋ねた。すると彼女は、少し間を置いてから、こう切り出す。
「――帰ったの。……昨日、虎舞さんと二人で、彼女の家に帰ったの」
そこまで言われて、僕は事の全てを察してしまった。虎舞の頰に痣がこしらえられた理由も。そして、目尻が真っ赤に腫れている理由も。
ぐっ、と虎舞が両手に拳を握りしめた。顔を俯けて歯を食いしばり、全身に力がこもっているせいで、両肩が上がり酷く震えている。
「………もう……もんか」
「何だって?」
僕が聞き返した刹那、虎舞は突然駆け出した。物凄い勢いで、昨日の走りを彷彿とさせるような虎の如きスピードで、彼女は瞬く間に僕らの前から消え、裏山の神社へ続く山道を駆け抜けていった。
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「……体育祭が終わった後、私と虎舞さんの二人で、彼女の両親の元へ謝りに行ったの」
僕と紬希は、見えなくなった虎舞の後を追って、神社へ続く細い山道の中を急ぎ足で登ってゆく。
「体育祭の徒競走で一位になれたこともあって、自分に自信を持って素直になれた虎舞さんは『今なら家に帰れそう』って密かに私に伝えてくれた。だから、私も賛同して二人で彼女の家に向かったの」
険しい道のりを急ぐ僕の額には玉の汗が流れ、酷く息が乱れていた。けれど紬希の方は、呼吸一つ乱さずに、昨日起きた事件の経緯を話し続ける。
「……でも、彼女のお父さんは虎舞さんの顔を見るなり、私の理由も聞かずに、いきなりあの子の頬を殴った。そして、凄い剣幕で叱り付けてきた。私が止めに入ろうとしても、駄目だった」
僕らは以前、虎舞が行方不明となった時に彼女の両親と一度会っていた。父親は正に雷親父で、剣道着で竹刀を振るうその姿は、まるで金棒を持った鬼をそのまま人間に具現化させたような、非常に短気で気性の荒い人だった。一方の母親は、そんな鬼の父親を軽くあしらってしまうほどに肝の座っている女性で、この二人に更に虎舞がプラスされた親子編成でよく家庭が成り立つものだと、当時両親と初めて会った時の僕はそう思った。
しかし実際に、虎舞はあの家庭で過ごしていて、かなりのストレスを抱えていたらしい。あんな両親を持っていれば無理もないだろうと僕は思った。
「虎舞さんは、そのままお父さんに腕を引かれて家の中へ連れて行かれた。私も後を追いかけたけど、虎舞さんはそんな私に向かって『来ないで』って言ったの。『来ないで、今日はとっとと帰って』って……どうしてあの時、彼女があんなことを言ったのか、私には理解できなかった」
紬希は若干眉をひそめてそう言った。その表情からは、何処か理不尽で納得いかない、そんなもどかしい悶々とした思いが感じ取れた。
でも、紬希には理解できなくとも、僕には分かる。……きっと虎舞は、紬希にまで迷惑がかかることを避けたかったのだ。これまで家に帰らなかったのは全て自分の責任であって、その責任を追及されるのに、全く関係の無い友人を巻き込むわけにはいかない。故に虎舞は紬希にそう伝えたのだろう。
家に連れて行かれる虎舞を止められなかった紬希は、一晩明けた今日の朝、もう一度虎舞の家を訪ねたらしい。そして紬希が屋敷の前までやって来た時、逃げるように門から飛び出してきた虎舞と鉢合わせになり、二人で歩いていたところを、僕が見つけて声をかけたと言うわけだ。
神社へ続く石段を駆け登って境内に着くと、社の前で虎舞が一人、膝を突いて項垂れていた。
嗚咽の声が聞こえている。虎舞は泣いていた。大粒の涙が、赤く腫れ上がった頰の上をつうと流れて、乾いた石畳の地面の上に落ちては染み入ってゆく。
「………もう……二度と……る、もんか……」
虎舞の口から、言葉が漏れた。
「虎舞、お前――」
「もう二度と帰らないっ‼︎ あんなクソ親父、とっととくたばっちまえぇえええぇっ‼︎」
それまで虎舞の中で堰き止められていた感情のダムは音を立てて決壊し、溢れた怒りと悲しみは渾身の叫びとなって口から吐き出された。
勢いのあまり最後の声が裏返り、硬く握られた拳が、激情を込めたまま床に振り落とされ、石畳を打ち付ける。凄まじいパワーを秘めたその一撃は、鈍い音を立てて数メートルに渡る波紋状のひびを穿ち、中心の地面を大きく抉った。
僕は、再び家から逃げ出してきた野良猫を前に、何の言葉もかけてやることができなかった。昨日、彼女の頭の上で勝利の王冠のように輝いていたあのカチューシャも、今は彼女の足元に、まるで使い捨てられたゴミのように転がってしまっていた。




