5月31日(金)② その力、如何ほどに
体育祭は着々と進み、お昼休みが終わって午後のプログラムに突入すると、競技は更に熱を帯びた盛り上がりを見せた。照り付ける午後の日差しがグラウンドを砂漠化させ、競技が行われる度に砂埃が巻き上がり、丁度風上に位置する応援テントを砂まじりの風が直撃してくる。おかげで手や髪もザラザラ、口の中までしゃりしゃりして気持ちが悪い。けれども生徒たちはそんなことなど気にも留めず、グラウンドで繰り広げられている熾烈な戦いを前に、耐えることのない声援を送り続けている。
皆が競技の結果に一喜一憂している中、僕だけ彼らの白熱した応援の波に付いて行けず、応援集団から一人外れてテントの奥に引きこもっていた。
すると、後ろから誰かが僕の肩をトントンと叩く。
「何だよ――」
振り向いた途端、目の前に真っ白な顔がぬっと現れ、僕は仰天してひっくり転げた。真っ昼間であるというのに、本物のお化けが出たのかと思った。
しかしよく見ると、それはお化けではなく、顔一面に白い粉を被った、紬希の顔だった。
「紬希⁉︎ お前、その顔は一体――」
そこまで言いかけたところで、僕は彼女がどうして粉まみれになっているのかを理解する。
「……障害物競走か」
「うん。飴、美味しかった」
厚い小麦粉の白粉を付けたまま、表情一つ変えずに口の中で飴玉をもちゃもちゃ転がしながら答える紬希。おそらく飴と小麦粉の入ったトレーの中に思いっきり顔を突っ込んでしまったのだろう。頭の白髪とも相まって、完全に白一色の頭の真ん中に二つの丸い碧眼が覗く姿はあまりに異様で、もはや滑稽を通り過ぎて恐怖すら感じる。これで今年の文化祭の出し物をお化け屋敷にして、紬希をこの格好でお化け役として出せば、間違いなくみんな顔を青くして震え上がるだろう。
「ほら、もうすぐ色別対抗リレーが始まるよ。応援しなきゃ」
そう言って紬希は尻餅をついている僕の手をつかんで立ち上がらせる。応援テントの最前列まで引っ張られてゆくと、グラウンドではちょうどリレーの選手たちが入場してくるところだった。その列の中には虎舞の姿も見える。彼女の付けている大きなカチューシャのおかげで、周りの選手の中でも一番よく目立っていた。
色別対抗リレー――このグラウンドを七周半かけて、一組六人の走者がバトンを繋げて順位を競う、言わずと知れた体育祭の定番プログラム。一人一人の足の速さだけでなく、走者の結束や連携も重要となる。これが体育祭の最後を飾る種目ということもあり、配分されるポイントもかなり高く設定されていた。各色別の団に分かれて競うこの体育祭で、逆転勝利の最後のチャンスが掛かったこの戦いは、絶対に負けられない。各団の応援テントから雪崩のような歓声が押し寄せる中、選手たちの間では緊張が走り、周囲を取り巻く空気はピリピリしていて、少し刺激を与えれば今にも弾けてしまいそうだ。
現在、僕たちの所属する赤組は、総合ポイント順で二位に付けていた。一位との間はかなりの僅差で、このリレーで逆転する可能性は高いし、優勝だって十分に射程圏内だ。
パァン!
リレー開始のピストルが撃ち鳴らされ、最初の走者がスタートダッシュを決める。各四色のどの団にも強者は存在し、互いに一位を取り合う形で接戦が繰り広げられてゆく。
そして依然拮抗した戦いが続く中、いよいよ虎舞のチームの番が回ってくる。虎舞はアンカーを務めるのだが、このリレーでは、最終アンカーは他のメンバーと異なってトラックを二周半走らなければならないルールがある。これまで走者が繋いできたバトンを最後に託され、チーム全員の想いを背負って、残された長い道のりを走破し、バトンをゴールまで運ぶ。――そんな、最も重要かつ責任の重い役割を、虎舞は引き受けていたのだと、僕は今更ながら思い知る。
しかし、そんな中でも虎舞は伸し掛かるプレッシャーを振り払い、そしてまた、望まない能力者となってしまった運命すらも受け入れて、今こうして彼女自らの意志でトラックに立っている。彼女の一位にかける想いは、きっと誰よりも強いはずだ。
五番目の走者へとバトンが繋がれ、勢いは衰えないまま、虎舞たちアンカーの待ち構える元へ駆け込んでくる。一位をキープする赤組の選手が最終コーナーに入ってゆく。虎舞は体を前方に、視線は背後へ投げて、右腕を突き出したまま待機。猫のように鋭い目線が、向かってくる走者と自分との距離を推し量り、走り始めるタイミングを見計らう。
前走者が最後の力を振り絞って、アンカーへバトンを繋いだ。虎舞の手にも赤いバトンが渡され、彼女は目線を前方へ向けて、一気に駆け出そうとした――
その時だった。
「あっ――!」
虎舞は地面の凹凸に脚を取られてしまい、ぐらりと体勢を崩した。そして、そのまま地面に頭から激しく突っ込むようにして転倒。勢い余って両脚が投げ出されてしまい、もはや一回転せんばかりの勢いで盛大にコケてしまったのだ。
コースに巻き上がる砂埃。観客席や応援テントからはどよめきの声が上がり、赤組の応援テントには絶望の空気が漂い始める。他のチームは既に前走者全員のバトンがアンカーに引き渡され、最初のコーナーを抜けて反対側の直線に入っている。
「虎舞っ!」
巻き上がった土煙の中から、レーン上に大の字になって倒れた虎舞の姿が見えた。彼女の顔は砂まみれで、白い体操服も土くれ色に染め上げられ、ゼッケンに書かれた「虎舞」の文字も消えかかってしまっている。辛うじて彼女の頭に付いたカチューシャが外れてしまわなかったことだけは、不幸中の幸いだった。
「い……いったぁ………」
虎舞は両腕を地面に突いて、上体を起こす。そして、耳鳴りの響く頭を両手で押さえ付ける。相当強く体を地面に打ち付けてしまっていたから、もしかすると酷い怪我を負っているかもしれない。
しかし、虎舞の体は酷く汚れてはいるものの、脚や腕のどこにも怪我を負っていないどころか、擦り傷一つすら見当たらなかった。あれだけ激しく転んだというのに、彼女は即座に起き上がり、体に付いた汚れを払う。
「虎舞さんっ! 後ろから来てる!」
止まない歓声の中で、紬希が声を上げる。早くもトラックを一周し、二周目に突入する選手たちが、虎舞の横を次々とすり抜けていった。
「―――くっ!」
虎舞は自分の身体に鞭打つように奮い立つと、その場で腰を低くして両手を地面に付け、クラウチングスタートの体勢を取った。
……いや、その姿勢はクラウチングスタートのフォームより更に体勢が低く、左脚を背後に引き下げて、腰を背後へ突き出している。その構えは、まるで草原に身を潜め、獲物を狙う肉食獣の姿を見ているようだった。
――そして次の瞬間、虎舞の目がカッと開き、瞳孔を限界まで細めた針の瞳が前方を捉え、背後へ突き出した足が地面を蹴り上げて、撃ち出された弾丸のようにコース上へと飛び出した。
ワッ! と周囲から歓声が沸き起こる。復活した虎舞は、瞬く間に最初のカーブで二周目に入った選手たちを次々と追い抜き、反対側の直線レーンに入る。結わえたポニテを振り乱し、正面に吹き付ける風が、体操服の裾をなびかせる。
虎舞は風のような速さで、瞬く間にコーナーへと突っ込んでゆく。体の重心をトラックの内側へ傾かせながらカーブを曲がってゆくその姿は、まるでオートバイレースのコーナリングさながら。そのまま第二周目へと突入し、みるみるうちに相手との距離を詰めてゆく。
「凄い……あれも、虎舞の能力なのか?」
まるで人間技とは思えない俊足に、応援する誰もが目を奪われている中、僕はそう呟く。すると、隣で観戦していた紬希が、小さく頷いて言った。
「本当は、あれでもまだ本気を出していないのかもしれない。虎舞さんの内に秘める力は、きっと本人にとってもまだ未知数な領域なのかも」
「マジかよ……」
俊足で駆ける虎舞は、勢いの衰えるところを知らぬまま、怒涛の追い上げを見せてゆく。そして、とうとう周回遅れだった位置を最下位にまで持ち上げ、四位、三位の選手の背中を捉えた。
虎舞は歯を食いしばる。歯茎がギリギリときしみ、彼女の口元から鋭い犬歯が飛び出した。
(まだ……まだ、いける――)
「――邪魔、どいて」
その場に捨て台詞だけを残し、虎舞は急加速。四位、三位の選手を鮮やかにごぼう抜きしてしまう。観客席から再びどよめきの声が湧き上がった。
先を走る二位と一位まではまだ少し距離がある。一位の選手は既に最終コーナーに入りかけていたが、虎舞は構わず前をゆく二番手に背後から襲い掛かる。
二位の選手に容赦無く喰らい付き、瞬く間に平らげ、抜き去った。もはや彼女の耳には、風を切る音だけしか入ってこない。ゴールは目前、狭まった視界の中に、一位の選手の背中と、ピンと張られた白いゴールテープが見えていた。
(一番は……一番は私なんだからあぁぁぁっ‼︎)
疾風のごとく大地を駆けるトラと化した彼女は、突き抜ける爽快感に野生の咆哮を上げ、最後の獲物である一位の背中に、その鋭い爪を伸ばした――




