5月29日(水)③ お世話係失格
<TMO-1149>
すっかり眠り込んでしまったトラを抱えた僕は、応急手当をしてくれた紬希に尋ねる。
「この子……もう大丈夫そうか?」
「傷は塞いだ。……でも、私の力は相手の傷を塞いだり止血したりすることはできても、失くした脚を復元させることまではできないの。それに、この子は今、とても弱っている……だから、後はこの子が目を開けてくれることを祈るしかない」
そう答えて、紬希は僕と真正面に向き合った。彼女から放たれる刺すような視線に気圧されてしまい、僕は思わず一歩退いてしまう。
「な、何だよ……」
「ここに来る途中で、虎舞さんから話は聞いたわ。数ヶ月前から、この猫がずっと行方不明だったこと。そして唯一、凪咲くんにだけ、その話を伝えていたってことも。……なのにどうして、私にも話してくれなかったの? 私も事情を知っていれば、連合団を挙げてこの子を捜索することだってできたのに」
紬希はじっとこちらを見据えて表情を強張らせたまま、口を堅く引き結んでいた。僕は、紬希が酷く怒っている時、いつもこんな表情になることを知っている。虎舞からトラが迷子になっていることを聞いた当時、僕はまだ連合団に入ったばかりで、紬希との仲もここまで深いものではなかった。……故に僕は、彼女がこの事件に深入りして事が大きくなるのを嫌い、トラのことを黙ったままでいたのだ。
今となって後悔しても遅過ぎる。……でも、まさかこんな事になるなんて思いもしなくて――と、思わず口から出そうになったくだらない言い訳をぐっと堪えて飲み込んだ。
「……ごめん」
「もういい。終わった事を咎めても仕方がないから」
しかし紬希は、まるで僕の抱えた罪悪感を一刀両断するようにキッパリとそう言って、それから虎舞の方へ踵を返す。そして、雨ざらしの中で佇む虎舞の傍まで駆け寄ると、その場で深く頭を下げた。
「……虎舞さん、ごめんなさい。あなたの猫を救ってあげたいけれど、今私たちには、これくらいのことしかしてあげられない」
そう謝罪する紬希の前で、俯いた虎舞の口から、ぼそっと呟くように声が漏れる。
「……何で、アンタたちが謝んのよ」
濡れた髪が垂れているせいでその表情は見えず、彼女の頬をひっきりなしに伝う水滴も、雨水なのか、それとも涙なのか分からなかった。
「……私のせいだ」
感情を押し殺すように絞り出されたその言葉は、降りしきる雨の音に掻き消される。けれど、近くに居る僕らの耳には、はっきりと届いていた。
「私が、体育祭の練習とか部活とかなんて放り出して、もっとこの子を真剣に探していてやれば、こうなる前に見つけられていたかもしれないのに……それなのに、私っ……」
虎舞はその場で膝を折り、ぐしゃっと泥の中に崩れ落ちる。
嗚咽が聞こえた。やがてそれは、号泣へと変わる。
僕は、虎舞が泣く姿を初めて見た。最初会った時、僕のことを一目見た途端にストーカー呼ばわりし、会う度にいつも上から目線で接してきて……でも、時折り女の子らしい無邪気な一面も垣間見せてくれた彼女――
そんな、かつての虎舞の面影は、降りしきる雨によって全て流され、色を失った抜け殻だけが、僕らの立つ前の地面に崩れ落ちていた。
僕は泣いている彼女に何か言葉をかけてやりたかったが、思い付く限りの慰みの言葉を並べてみたところで、何の意味も無いことを悟り、泣き続ける虎舞をただ黙って見ていることしかできなかった。何もできない自分が、ほとほと情けなくなる。
――今日は本当に散々な日だと、僕は思った。
それは僕だけでなく、隣に居た紬希も、ひょっとしたら同じことを思っていたかもしれない。
……けれど、非情な現実は、悲嘆に暮れる時間すらも与えずに、さらなる第二の事件を引き起こす。
――その事件は、突如として、何の前触れもなく、虎舞の頭上から生えてきた。
ポニーテールに結わえられた茶色の髪がもぞもぞと蠢き、濡れた髪の毛が押し除けられ、まるで土下から芽吹く植物のように、それはぴょこんと彼女の頭から生えてきた。
濃い茶と黒の毛に覆われたている、先の尖った獣の耳が。
「えっ?――」
僕らはその異変を前に、言葉を失った。虎舞が涙に濡れた顔を上げると、驚いたまま固まっている僕たちの様子を見て、訝しげな顔をする。
「……何よ? みんな揃って私を見て――」
そこまで言って、彼女はふと、自分の座り込んだ地面に広がる水溜りに目を落とした。
その水面に映り込んだ己の姿を見て、今度は虎舞本人が言葉を失う番だった。
「ちょ……何……何よ、これ……」
虎舞は思わず頭上に両手を伸ばし、毛でふさふさとした耳にそっと触れてみる。震えた指がその耳に触れた途端、指先に伝わる確かな触覚に驚き、彼女の身体はぴくんと跳ねた。
「虎舞……お前、まさか……」
虎舞は、僕と紬希、それに傍に居たチッピも含め、皆が目を丸くして自分を見ていることに気付き、顔を真っ赤に上気させて叫ぶ。
「な、何でみんなそんな目で私を見るの? ………見ないでよ……私を、私をそんな目で見ないでよっ!」
虎舞はその場で立ち上がり、僕らから距離を取るように後退る。彼女の顔は恐怖に慄き、狼狽のあまり唇はわなわなと震えていた。きっと、混乱のあまり我を忘れてしまっているのだろう。
僕は、これ以上彼女を混乱させまいと、諭すように言い聞かせる。
「と、とりあえず落ち着くんだ、虎舞。冷静になって僕らの話を――」
「来ないでっ! 私はアンタたちなんかとは違うのっ!」
虎舞は両腕を振りかざして僕らに背を向け、雨に濡れた地面を思い切り力任せに蹴り上げる。
途端に、彼女の体はまるで投げられたボールのように宙高く飛び上がり、大きな弧を描いて路地を超え、奥に建つ民家の屋根上へ着地した。
僕らは目を疑う。地面からあそこまでゆうに十メートル以上は離れていたというのに、それをたった一蹴りで飛び越えてしまったのだ。
虎舞本人も、今さっきのジャンプで自分がこれだけの距離を移動してしまうとは思ってもみなかったらしく、振り向き様、自分の立っている場所を見て目を丸くする。
「何よこれ……どうして私に、こんな力が………イヤッ、イヤだっ! 私は普通で居たいのっ!!」
明らかに人間離れした力の発現を前にし、もはや自分も紬希と同じ「化け物」になってしまったのだと確信したのだろう。自分も能力者であるという受け入れたくもない現実を突き付けられて混乱した彼女は、遠くで叫ぶ僕らの声に耳を貸すこともなく、そのまま屋根伝いに走り去ってしまう。
虎舞の姿が見えなくなり、僕らの周囲は再び降り頻る雨音に占領された。
「……やれやれ、結局あの性悪女も人間の皮を被った能力者だったってわけかよ。ったく、猫被りとはよく言ったもんだぜ」
土砂降りな雨の中、土管に隠れて雨をやり過ごしていたチッピの言葉に、僕はカチンときて、失礼な黒猫をキッと睨み付ける。するとチッピは、怖気付くようにすごすごと土管の奥に引き下がっていった。
一方で紬希は、僕の目の前で、綺麗な白髪を雨に濡らしたまま立ちすくんでいた。右腕に眠っているトラを抱え、左手に青い傘を持っていた僕は、彼女の傍に駆け寄り、傘の中に入れてやる。
「……虎舞も、能力者だったの?」
「ああ。紬希だって見ただろ? 虎舞の頭から生えた猫の耳に、あの驚異的なジャンプ力……でも、どちらであるにせよ、あいつは今酷く錯乱してるはずだ。暫くは放っておいた方が得策かもしれない」
僕は、虎舞が消えた屋根の上を見つめたままそう答えた。天登といい、虎舞といい……どうして僕の周りには、何かしらの力を持つ特別な奴しか集まってこないのだろう?
重く立ち込めた雨雲を見上げながら、僕はそんなどうしようもならないことを真剣になって考えていた。
〇
それから、僕らは怪我を負ったトラを急いで秘密基地へと運んだ。本当なら動物病院に運ぶべきなのだろうけれど、公園の近くに動物専門の病院が見当たらず、仕方なく小兎姫さんに電話で頼んで、怪我の程度を見てもらうことにした。
小兎姫さんは、毛布の上に寝かされた片脚のないトラを見て、顎に手を置いて「ふむ」唸り声を漏らした。傷付きウサギの仮面の奥で、眉をしかめている様子が目に浮かぶ。
「……まったく、動物虐待なんて、酷いことをする人も居たものね。この子は、チッピのお友達なの?」
そう聞かれて、床に座っていた黒猫チッピは首をぶんぶん横に振った。
「ちげぇよ! ただ公園を通りかかった時に偶然見つけただけだ。……けどよ、こいつあれだけ酷い怪我してたってのに、俺たちが公園に戻るまで死ぬような痛みに耐えて見せたんだ。そんなの、並大抵の猫にできるようなもんじゃねぇ」
チッピはそう言って、感心した目でトラを見つめていた。小兎姫さんは暫くの間、トラの傷の具合や様子を見ていたが、やがて戻ってきて、僕らに伝える。
「この子は私に任せて。多分、今は酷く疲れて眠っているのよ。それに熱もあるみたい。傷口に菌が入って化膿することも考えられるから、何かあったらまた連絡するわ」
小兎姫さんは、トラの引き受けを快諾してくれた。僕は、トラが再び目を開けてくれることを祈って、紬希と共に秘密基地を出た。
一体なぜ、トラは左脚を失う大怪我を負ってしまったのか。そしてなぜ、緑色に光る渦の中から姿を現したのか……それらの問題は未だ謎のままだ。
ひょっとするとトラは、緑色に光る渦の正体を知っている唯一の証言者なのかもしれない。トラはチッピと違って、人間の言葉を話せるわけではないが、それでも、渦に関する何かしらの情報を得られる可能性はある。
――それに何より、虎舞がずっと探して回っていた愛猫なのだ。絶対に死なせる訳にはいかない。
(……一刻も早く、目の前に立ち塞がる謎を解いて、トラをこんな目に遭わせた悪い奴を探し出してやる。……そして、必ず報いを受けさせる。必ず……)
僕の中に、悶々とした怒りと決意の気持ちが漲ってゆくのを感じた。
「……なぁ紬希、トラにこんな酷いことをした奴を見つけることができたら、どうする?」
僕は隣を歩く紬希に向かって、そう問いかけてみる。
「そんなの決まってる。――キツいお仕置きを叩き込んでから、虎舞さんの前で謝罪させる。抵抗したら、容赦しない」
紬希も、僕と同じ決意を抱いていたらしく、彼女はぐっと拳を握り締め、僕に向かってはっきりとそう答えた。




