5月21日(火)② その顔を見せて
<TMO-1127>
部屋から飛び出してきた天登は、目の前に居た紬希に思い切り体当たりし、覆い被さるようにして床に倒れ込んだ。
「バカバカバカぁ~~~っ‼ 何でママにまで見せようとするんだよっ! 絶対に秘密にしてって言ったじゃないか嘘つきっ! この野郎この野郎っ!」
天登は仰向けに倒れた紬希の上に跨り、弱い拳でポカポカ殴りながら、涙を流して喚き立てる。
「蒼太止めなさい! 友達に向かってなんてことするの!」
由菜子さんが声を上げると、天登は「ひっ」と声を漏らして目を閉じ、肩を震わせてその場に縮こまる。
「……い、嫌だよ……あんなの描いてるって……あんなの描いてるってママに知られたら――」
彼は、押し殺した小さな声で、自分の心の内を言葉に漏らした。
「……僕、また……またあの時みたいに、ママに怒られちゃうじゃないか……そんなの嫌だよ……」
その言葉を聞いた途端、由菜子さんの目が大きく見開く。彼女の脳裏に、過去に犯した自分の過ちが走馬灯のごとく蘇った。
――三年前、学校へ行かず、部屋に閉じこもって漫画ばっかり描いていた天登を前に、母親はそんな息子の様子を黙って見守りつつも、彼の将来に対する不安やストレスにずっと耐え続けていた。
しかしある時、とうとう耐えられなくなった彼女は、自分の息子に対して強く叱ってしまった。
『漫画ばかり描いていないで学校に行ったらどうなの⁉』
その当時、彼が学校でいじめられていて、それを理由に不登校していたことも知らずに……
学校に行けばいじめられるし、学校に行かなければ母親に怒られる。板挟みになって逃げ場を失くしてしまった天登は、とうとう母親にさえも心を閉ざしてしまい、親子の間で親しい会話が交わされることもほとんどなくなってしまった。
彼は、その時のトラウマを今も引きずり続けていた。自分の唯一の理解者であった母親から自分を否定されてしまうことを、過度に恐れ続けていたのだ。
ぽたぽたとこぼれ落ちる天登の涙を顔で受け止めていた紬希は、由菜子さんに向かって密かに目配せを送る。彼女は紬希の言わんとしていることを察し、少しの間戸惑いを露わにしていたが、やがて拳を握り締めて何かを決心するように頷く。
そして、俯いたまま泣いている息子の傍まで来ると、震える肩にそっと手を置いた。
「――私は、もう怒ったりなんかしないわ」
「…………へっ?」
天登が涙でくしゃくしゃになった顔を上げる。由菜子さんは、息子の赤くなった頬を両手で包み込んで目を合わせると、温かく微笑んで見せた。
「確かに、あまり破廉恥な内容の話は教育上良くないだろうと私は思うけれど…… でも、蒼太だって男の子だものね。ずっと狭い部屋に一人閉じこもっていたら、不満とか欲求ばかり溜まって、好きな漫画を描いて発散したくなる気持ちもよく分かるわ。――私は、あなたに漫画を描かないでなんて言うつもりは、これっぽっちもないのよ」
そう言って、母親は泣いている我が子を胸の中に強く抱き留める。
「――ごめんなさい。当時いじめられていて、精神的にも追い詰められていた蒼太の気持ちも知らずに、あんな酷いことを言ってしまって。……私、あの時叱ったことを、今でも心から後悔しているのよ。なんてこと言ってしまったんだろうって、取り消せるものなら取り消したいって、何度願ったか分からない。……息子のことを考えてあげられなかった馬鹿な母親を、どうか許して頂戴……」
息子を抱き留める由菜子さんの眼元に、真珠のような涙の粒が光っていた。天登も、母親の胸の中で徐々に落ち着きを取り戻し、呼吸も段々と整ってゆく。冷静になった彼の中に母親の息子を想う気持ちが届いたのか、天登はしゃくり上げながらも、母親の背中に手を回して強く抱き返した。
「………ぐすっ、うぅっ……うん、分かったよ、許すよ…… 僕の方こそ、ごめん。僕がこんな変な病気を持って生まれてきたから…… もっと毛深くてたくましくて、強い体を持てたなら、こんなことには――」
「そんなこと言っちゃダメ。蒼太のその顔と体は私の一番の自慢なんだから」
由菜子さんは弱気になってしまっている天登にそう強く言い聞かせる。
「現に今だって、こうして部屋から出てきてくれたじゃないの。扉を開けて、私にその可愛らしいお顔を見せてくれたことだけでも、十分に立派よ」
そう言って、彼女はまつ毛の無いまぶたから垂れ落ちる涙を、親指でそっと拭い取ってやった。
○
「――あのさ、紬希」
「なに?」
仲直りする親子二人を横目に、僕は床に押し倒されたままの紬希に向かって問いかけた。
「お前の言ってた考えって、このことだったのか?」
「そう。人前で聞かせたら恥ずかしがるような描写をあえて選んで、天登君の前で大声で暴露する。そうすれば、あの子は絶対に顔を真っ赤にして部屋から飛び出して来てくれると思ったの」
「はぁ……本当にお前って奴は、やることがいつも荒っぽいんだよ……」
――とはいえ、荒療治ではあったものの、今回は完全に紬希の作戦勝ちだった。僕らが初めてこの家にお邪魔してから、ずっと部屋に閉じこもり続けていた天登。彼にヒステリーを起こさせてまで部屋の外に連れ出そうとする紬希の企みは、見事に大成功してしまったのだ。
それでも、やはり天登には悪いことをしてしまったと思い直したらしく、彼女は天登に向かって謝罪の言葉を投げる。
「……天登君、あなたの嫌がるような真似をしてしまって、本当にごめんなさい。漫画は本当に面白かった。だから、また次の巻も読ませてもらえないかしら? ……あと、そろそろ私の上から退いてもらえると、助かる」
紬希の言葉を聞いた天登は、ここでようやく、自分が倒れた紬希を押し倒したままの恰好であることに気付き、顔を真っ赤にして飛び退いた。
「うわぁああっ! ごごご、ごめんっ! こんなことするつもりじゃ……」
「別に構わないわ」
そう言って何食わぬ顔で立ち上がり、乱れたスカートの裾を叩いて直す紬希。天登は顔を真っ赤にしたまま、ずっと顔を背けてしまっている。
おそらく、ずっと学校に行かず部屋に籠ってばかりいたから、同年代の女の子と触れ合うことはおろか、話す機会すら無かったのだろう。そんな、彼にとっては得体の知れない女の子の体に直に触れてしまったのだから、取り乱してしまうのも当然だった。さっき、ヒステリーを起こして部屋から飛び出して紬希を押し倒した際、彼女の豊満な胸をポカポカ殴っていたことを思い出したのか、彼は更に顔を赤して壁の隅に蹲ってしまった。
僕は、カタツムリのように縮こまる天登に向かって、刺激を与えないように声をかける。
「……あの、君には本当に酷いことをしたと思ってる。さっきのことは僕も謝るよ。……でも、僕はずっと天登と友達で居たいとも思ってるんだ。だから、身勝手なお願いかもしれないけど、これからもずっと、友達で居てくれないかな?」
僕が天登に向かってそう懇願すると、彼は廊下の隅でふさぎ込んだまま、けれども、今にも消え入りそうな小さな声で、ぼそっと言葉を漏らした。
「……本当に、友達になってくれるの? ……君たちは、こんな僕を見ても、何とも思わないの?」
そう言われて、僕は返事に詰まってしまう。細々とした、色白な体。頭から足の指先まで、毛という毛は一本も生えていない。普通ではない自分の体を、果たして僕らが受け入れてくれるのか。彼はそこを酷く気にしているようだった。
――でも、よく考えてみれば、僕らはこれまでにも、彼以上に見た目が普通でない人たちを大勢見てきた。全身鱗だらけのカメレオン男に、頭とお尻から角と尻尾を生やした少女、それに全身に植物のツタをまとった緑色の肌を持つ女性……
そして、時には全身傷だらけ、継ぎ接ぎだらけになるクラスメイト、僕のすぐ隣に居る紬希恋白だって、その一人だ。
「私は天登君の外見をどうこう言う気なんてない。むしろ、私はあなたのその姿がとても好き。――それに、私の持ってる大好きなクマッパチにだって、毛は無いわ」
その紬希が、天登に向かって優しくそう答える。最後の言葉については、「縫いぐるみなんかで比べるなよ」と思わず突っ込みたくなったけれど……
紬希の言葉を聞いた天登は、少し驚いたような顔をして、頰を赤くして黙り込んでしまった。どうやら彼女の言った「とても好き」に反応してしまったらしい。
「………それなら、別に……別に明日も……勝手に来ればいいじゃんか」
天登は俯きながらも、ぶつぶつと独り言のようにそう呟く。その言葉を聞いて、僕らは胸を撫で下ろした。明日も天登の家にお邪魔する許可をもらえたということは、今回の件で彼が僕らを許してくれたことに他ならないからだ。




