番外編1-3 幽霊のお姉さん
僕は声を上げて飛び退いた。
(何で⁉︎ どうして⁉︎ 後ろから付いて来ている気配なんて全く感じなかったのに!)
それなのにこのお姉さんは、気付かないうちに反対側に回って、僕の行手を塞ぐようにして立っていた。足音も立てないで……
この時、僕はふと、一週間前クラスメイトの会話を盗み聞きして知った「玩具の墓場の噂」を思い出す。
――あの公園には、捨てられた玩具たちの霊がたくさん彷徨っていて……
――公園にやって来た人は、持ち主と間違えた霊たちに呪いをかけられて……
――魂を奪われて口のきけない人形に変えられてしまうんだって!
(……まさか……この人が、その幽霊?……)
僕はその場に尻もちをついてしまう。脚がガクガク震えて、立ち上がろうにも力が入らない。
このお姉さんはきっと、僕がガラクタの墓場だった公園の砂場を荒らしたから、怒って僕を追いかけてきたんだ。捕まってしまった僕は、このお姉さんの姿をした玩具の幽霊に魂を奪われて、口の利けない人形に変えられてしまうんだ……
「……ねぇ、大丈夫?」
目の前に立ったそのお姉さんは、僕に向かって手を伸ばしてくる。その手に触れた途端、僕は呪いにかけられ、人形に変えられてしまうのだと思った。そんなのは……
「いっ、嫌だ……僕は何も悪くないんだっ‼︎」
彼女の手から逃れようと、僕は震える脚を引きずって立ち上がり、がむしゃらに走る。
そして十字路に差し掛かった時、唐突に横からクラクションの鳴る音が突き抜けた。
すぐ目と鼻の先に、車のナンバープレートと、煌々と光るヘッドライトが見えた。避けようとしたけれど、間に合わない――‼︎
その時、力の抜けてしまった僕の腰に、細い腕がするりと伸びて、まるで蛇のように腰に絡み付いた。ぶつかる寸前、間一髪で僕は車道の隅に引き戻され、車はスピードを緩めないまま通り過ぎていった。
勢い余った僕は道端を何度も転がったけれど、誰かが背後から僕をかばってくれたおかげで、強い衝撃や痛みはやって来なかった。
車が通り過ぎて、辺りは再びしんと静まり返る。
「……見通しの悪い十字路は、さっきみたいに急に飛び出さない方がいいよ」
僕を庇ってくれたその人は――僕を呪いに来た幽霊だと思っていたそのお姉さんは、倒れた僕の背中にぎゅっと抱き付いたまま、耳元で小さく囁いていた。その囁きは息がかかるくらいに近くて、僕は恥ずかしくなって思わず顔を熱くした。
「あっ……ああああの、あのあの、ぼぼ、僕は……」
「……ありがとう」
「………はい?」
いきなりお礼を言われた。本当はこっちがお礼を言わなきゃいけないはずなのに。
「私の探していた縫いぐるみを見つけてくれて、ありがとう」
僕は、さっき公園の砂場で見つけたあのボロボロな縫いぐるみがまだ自分の手の中にあることに気付く。僕は慌てて立ち上がって、その場で座り込んだままのお姉さんに向かって、泥と手汗で汚れたその縫いぐるみをおずおずと差し出した。
「……こ、これ、返すよ」
お姉さんは僕の手から縫いぐるみを受け取る。その時、それまで人形みたいに表情の無かった彼女の顔が、ほんの少しだけ、綻んだ。
お姉さんは僕を呪いに来たのではなく、僕の命を救ってくれた。だから、この人は多分、玩具の幽霊なんかじゃない……のか?
「……じゃ、じゃあ僕はもう行かなきゃ。さよならっ!」
でも僕はそのお姉さんに対する恐怖だけは拭えなくて、彼女の前から逃げるように駆け出そうとした。
「待って」
けれど駄目だった。お姉さんはいつの間にか僕のランドセルを掴んでいて、逃げようとしても物凄い力で引き戻されてしまう。
「は、離せよ! 僕は早く家に帰らなきゃいけないんだ!」
「それは駄目、少し待って」
「何で待たなきゃいけないんだよっ!」
離してほしくて喚いている僕に、そのお姉さんはピシャリと言った。
「だって君、まだ謝ってないから」
「……へ?」
ついさっきまで「ありがとう」って言っていたはずのお姉さんに、今度は「ごめんなさい」を迫られて、僕は訳が分からなくなって混乱した。
「な、何で僕が謝らなきゃいけないのさ! 僕は何も悪いことなんてしてないのにっ!」
「したよ。――この子に酷いことを言った」
「ぼ、僕がどんな酷いことを言ったっていうんだよ⁉︎」
「……『うえぇ、何でこんなにボロボロなんだよ』とか、『しかも超臭いし』とか、『こんなにボロボロなら、そりゃ捨てられて当然だよ』とか」
僕は驚いて声も出せなかった。彼女の口にした言葉は、僕があの縫いぐるみを見つけた時に呟いた言葉とぴったり重なってしまっていたから。
「……な、なんでそれを?」
「この子がそう証言してるから」
お姉さんはそう言って、僕の前にあのボロボロな縫いぐるみを突き付けた。
「あなたがそう言ったから、この子も悲しんでるの。……だから、謝って」
「なな、何でこっ、こんな縫いぐるみなんかに僕が謝らなきゃいけな――」
そう言い返そうとして、僕はふと言葉を止めた。
――もしかして、『玩具の墓場の噂』に出てくる玩具の幽霊というのはこのお姉さんのことで、幽霊だから当然、縫いぐるみの気持ちも僕の気持ちも、手に取るように読めてしまうんだ。そして、もし僕がここで謝らなかったら、彼女は僕を口の利けない人形に変えてしまおうと企んでいるのかもしれない。……きっとそうだ。
そんな考えが頭の中で膨れ上がって、怖くなった僕は、気付けばもう何も言い返せなくなっていた。
「………ご、ごめん、なさい」
こうして、とうとう僕は、ボロボロな縫いぐるみの前でぺこりと頭を下げた。人でもないものに謝ったなんてクラスのみんなに知られたら、きっと馬鹿にされる。情けないなと思いながらも、謝らない訳にはいかなかった。
――だって、今僕の目の前に居るこのお姉さんが、本物の玩具の幽霊なのだから。




