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パッチング・レコーズ  作者: トモクマ
第8章 誰がために花は咲く
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5月18日(土)⑭ 紬希、覚醒

 地上へ通じる通風孔の蓋が蹴り上げられ、弾丸のように僕と長雨を抱えたウニカが飛び出す。彼女は空中で大きく翼を広げると、急降下して僕らを地面の上に降ろした。


 既に日が落ち始め、空の青が色濃くなってゆく下で、山中にある製薬工場は黒煙を上げて燃え続けていた。施設の周辺に紬希の姿を探したが、何処にも見つからない。僕は入口前に立って、もう一度紬希の名を叫んだ。しかし、返事は戻って来なかった。


「そんな……紬希……」


 めらめらと燃え盛る建物を前に、膝を付いて項垂れる。駆け付けた長雨とウニカも、もう駄目だと言わんばかりに炎上する施設から目を背けてしまっていた。


 ――しかし、その場が絶望の空気に飲まれてゆく中、ふと長雨が驚愕の声を漏らす。


「……おい、嘘だろ」


 炎が噴き出て渦を巻いている建物の入口、その奥からうっすらと、こちらへ向かって歩いて来る人影が見えたのである。


 まさかと思った。その人影はよろめきつつも炎の渦中かちゅうにを突破し、とうとう僕らの前まで辿り着く。


「うっ……」


 僕は思わず両手で口を覆う。


 ――炎の中から現れたそれは、辛うじて人間の形を保ってはいた。その体型から見て、辛うじてその人型が紬希だと判別は付いたものの、変わり果ててしまったその姿は、もはや彼女のかつての面影すら残していなかった。


 盛る炎に絶えずその身を舐られ続けたせいで、彼女の身に纏っていた衣服は全て灰となり、髪は燃え落ち、肌は真っ赤に焼け爛れていた。焼けた全身からはしゅうしゅうと蒸気が立ち上り、皮膚の焼ける臭いが鼻を突く。僕は思わず嘔吐しそうになるのを必死に堪えた。かつて彼女を愛らしく見せていた琥珀色の眼も熱で蒸発し、溶けた目玉が涙のように頬を伝って流れ落ちてしまっていた。


 死んでもおかしくない――いや、死んでいなければおかしいほどの重傷を負ってまで、彼女はここまで歩いて来たというのか。今もこうして、全身を焼かれた彼女が立っているだけでも奇跡と呼べる。


 そんな彼女の焼け爛れた両腕には、何やら中身の詰まった白く大きな袋のようなものが抱えられていた。


 紬希は糸が切れたようにその場で倒れ、抱えていた大きな袋が僕たちの前に転がる。


 よく見ると、それは袋ではなく、紬希の白い糸で幾重にも巻かれた巨大な「繭」だった。あれだけの業火の中をくぐり抜けてきたというのに、白い糸は炎を弾き、熱を塞ぎ、決して燃え落ちることなく中に詰められたものを守っていた。紬希の手から繭が離れると、巻かれていた糸はひとりでにしゅるしゅると解け始めて、解れた糸の束の中から、一人の女性と少年の顔が現れる。


「……まさか、二人も抱えて脱出したってのか? この業火の中を……」


 繭の中に収まっていた二人――千柳と空越少年は、互いにしっかりと抱き合ったまま静かに眠っていた。二人の体には、火傷の一つも見当たらない。


 僕は二人の胸にそっと手を当ててみる。どちらも心臓は動いていたが、千柳の鼓動がひどく弱っていた。どうやら、アティラヴァGの毒が心臓にまで回ってしまっているようだった。


「長雨、早く解毒してくれ!」


「ああ、任せろ」


 長雨は腰に携えたウニカを抜き、装填した魔法弾に、亀蛇に使った時と同じ解毒の呪文を唱えて引き金を引いた。弾ける音と共に、放たれた白い閃光が千柳の体に染み渡るように広がり、それまで緑色に染まっていた全身の肌が、徐々に元の人間の色を取り戻していった。


 双方共に深く眠ってしまっているようで、静かな寝息を立てている二人の胸に挟まれるようにして、紬希の大切にしているクマッパチが顔を覗かせていた。二人と共に中に入れられていたこのボロボロな縫いぐるみも、繭のおかげで灰になることを免れていたようだ。


 ……しかし、クマッパチの持ち主である紬希の方は――


 あれだけの火傷を負ってしまえば、もはや回復することも不可能だろう。


 そう思って振り返った僕は、息を呑んだ。それまで千柳と空越を守る繭となっていた白い糸が、今度は倒れた紬希の焼け爛れた体に巻き付いていたのである。彼女の痛ましい姿が、幾重にも巻かれた糸の束によって瞬く間に包み隠されてしまう。


「……凄い。彼女の体、一体どうなってるんだ?」


 長雨も紬希の身に起きている変異を前に驚きを隠せず、目を見張っている。


 数分も経たぬうちに、とうとう彼女の体は糸で完全に覆われてしまい、真っ白な繭となって僕らの前に横たわった。中からぐちぐちと何かが蠢くような音がして、時折り繭の表面がぴくっと痙攣する。あの中で一体何が起きているのか、僕らは固唾を飲んで側で見守っているしかなかった。


――そして突然、何の前触れもなく繭が膨張し、膨らんだところからめりめりと音を立てて、表面が大きく縦に裂けた。


「……つ、つむ……ぎ……?」


 破れた繭の中から徐々に体を起こしてゆく紬希。その様子は、さながら蛹を破って生まれ出る蝶のようだった。その一糸纏わぬ裸体が夕日の下に晒されて、艶めかしい光沢を放つ。ついさっきまで全身焼け爛れていた悲惨な姿が夢であったかと疑う程に、彼女の体には傷の一つも残されていない。


 ……いや、むしろ「生まれ変わった」という表現の方が正しいのかもしれない。起こした頭には、燃え落ちた黒髪の代わりに、夕陽の光を浴びて白銀の輝きを放つ白い髪が、風に吹かれてなびいていた。白い眉毛が揺らめくその目蓋がゆっくりと開かれ、青く透き通った碧眼が覗き、僕らの姿を映し出した。彼女の仄かに赤く色付いた唇が薄く開き、声が漏れる。


「……なぎ、さ、くん……私、約束通り、ちゃんと、戻ってきた、よ……」


 立ち上がろうとして、紬希はよろめく。僕は慌てて駆け寄り、彼女の体を支えた。肌は依然と同じく白くてすべすべしていて、赤ちゃんのようなほんのりと甘い匂いがした。ふわっと舞い上がる白銀の髪が鼻腔をくすぐる。その髪の毛一本一本は全て、あの白い糸でできていた。


「紬希、本当に大丈夫なのか? あんなに酷い火傷を負っていたのに、もう治ったのか?」


 心配してそう尋ねると、彼女は僕の腕の中でこくりと頷く。


「うん。ずっと体を火に炙られていたせいで、私の治癒能力も以前より向上したみたいなの。だから、もう火傷の痛みは何も感じな……っつぅっ!」


 そこまで言ったところで、突然彼女が悶えた。


「ま、まだ何処か怪我が残ってたのか!?」


 回復しきれていない傷を刺激してしまったのではと僕は慌てたが、けれど紬希は目を閉じたまま頬を少し紅潮させ、首を横に振る。


「違う……そこ、あまり強く掴まないで」


 ふと自分の腕に目をやり、紬希を支えた際に彼女の胸を思い切り鷲掴みしていたことに気付く。僕は恥ずかしさのあまり、慌てて紬希を突き放してしまったものだから、彼女はその場にぺたんと尻もちをついてしまう。


「……やれやれ、そんな格好してたら風邪ひくぞ」


 長雨が呆れて全裸の紬希に近付き、羽織っていた学ランを背中にかけてやろうとして、彼はふと、千柳も同じく裸であったことに気が付く。


「ったく……仕方ないか」


 長雨は紬希に学ランをかけると、次にワイシャツを脱いで眠っている千柳にかけてやった。


「ついでにズボンも履かせてやったらどうなのだ、マスター?」


 ガンベルトの中でそう揶揄からかうウニカを黙らせるように、彼は銃のグリップを指で小突いた。



 ――こうして、世界に一つしかないと言われるミロガンシアは、製薬工場の地下施設にて盛大に乱れ咲いた後、千柳の体だけを残して、その全ては施設の火災によって完全に焼失してしまった。


 千柳の悲壮と復讐の感情によって築き上げられた地下庭園は、崩れ落ちた工場の下敷きとなり、舞い上がる黒煙と共に灰となって風に運ばれ、夕日の空へと散っていった。

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