5月18日(土)⑪ 母親失格
<TMO-1099>
「私は研究室から大量の『アティラヴァG』を盗み出し、許容を遥かに超えた分量を自分の腕に打ちました。命なんてもう惜しくもありません。ただあの子を守ってあげたかったのです。もし私が薬の影響で死んでしまったとしても、もはや何も手元に残っていない今、私が死んだところで悲しむ人などいません。……でも、そんな私の死によって一人でも多くの人が救われるのなら、私は躊躇無く死を選びます」
薬の効果により力の上限が解除され、覚醒した千柳。漲った力はたちまち彼女の体中から溢れて、ミロガンシアとなって芽吹き、触手のように伸びたツタが施設全体を瞬く間に覆い尽くしていった。何人もの研究職員が、断末魔を残してツタに取り込まれ、ミロガンシアが成長する為の生きた肥やしとなるか、あるいは千柳に操られる醜い怪物の姿へ変えられていった。
「これまで散々に私たちを手駒にしていた彼らが無惨に死んでいく様を見て、私はある種の快感を覚えました。それは、いつしか家族と共に幸せな家庭を築いた時以来の快感でした。――しかし、そこにかつてのような円満な暖かさや優しさなんてあるはずもなく。孤独となった私の心は硝子のように冷たく、そしてあの男のように非道な鬼と化していました」
愛する息子を失い、没頭していた研究を奪われ、悪事に利用され続けてきた千柳の悲惨な過去が、この広大な死の楽園を築き上げてしまった。彼女の内に秘めた激情が、この施設の全てを飲み込んでしまったのだ。
「……ですが結果的に、私は己の復讐を果たしはしたものの、最後まで誰かの役に立つことはできなかったようです。せめてあの子だけは……コウちゃんだけはこの手で守りたかったのですが、私はあの子をこの薄暗い地下に閉じ込めただけで、結局は何もしてあげられませんでした。自分の能力をもってしても、誰一人として救えなかった私は、人間として……いえ、まず一人の母親として、失格です」
「母親失格」――その言葉に、僕は聞き覚えがあった。
そう、二日前に天登の家を訪ねた時、天登の母親が全く同じ言葉を口にしていたのだ。息子を自身の能力で殺してしまった母親と、自分の行いが原因で息子との関係を断たれてしまった母親。双方共に、息子への愛情を一時も欠かすことはなかったというのに、その揺るがぬ愛情が裏目に出てしまい、最終的に悲惨な結果をもたらしてしまった。
何故、こうなってしまったんだ? 僕は疑問を拭い切れなかった。二人とも、ただ精一杯我が子を愛そうとしていただけなのに。ただ普通の幸せな生活を築きたかっただけなのに。
それなのに、非情な現実は母親たちの切実な願いを叶えるどころか、聞き入れてすらくれない。
――しかしそんな中、悲しみに暮れている千柳の前にそっと歩み寄った者がいた。
全身傷だらけのクラスメイトであり、我らが連合団の団長である紬希。彼女が千柳の緑色の手を両手で握りしめて胸元へ寄せ、真っすぐな目を向けていた。
「――失格なんかじゃない。あなたは、立派な母親」
「……どうして、そう言い切れるのですか?」
弱弱しくそう尋ねる千柳に、紬希が言葉を返そうとした、その時だった――
――ズウゥゥゥゥゥン……
二人の会話を遮るように、地鳴りのような音がして、吹き抜けになった地下の天井がガタガタと激しく揺れた。
「何だ? 今の揺れは?」
更に大きな揺れが来て、装置の上に置かれていた空越の工具が地面に落ちる。
「叔母さん、僕怖いよ」
怖くなって駆け寄ってきた空越を、千柳はしっかりと抱き止めた。
「心配いらないわ。大丈夫よ。……どうやら、この施設の上の階で何かが起きているようです。監視室に行って上の様子を確認しましょう」
千柳はそう言って、「中央監視室」と書かれた扉を開け、装置のシステムを起動させた。数あるモニターの電源が入り、上の階の各フロアの様子を映し出す。――なるほど、僕らがこの研究施設へやって来た際、千柳はここから僕らの行動を逐一で監視し、マイクを使って語りかけていたのだ。
けれども、今はどのモニター画面も赤一色に染まっており、スピーカーからは雑音に交じってごうごうと濁流のような音が聞こえてくるばかりだ。
「……これは、燃えているのか?」
「ええ、上の階で火災が発生しているようです。この地下に火が回ってくるのも時間の問題でしょう」
「でも、どうして火災が? 僕らが来た時には何ともなかったのに」
そして、燃え盛る炎にやられて次々とカメラの信号が途絶えていく中、一つだけ、まだ火の手が回っていないフロアがあった。煙の充満する廊下にはぼんやりと人影が映っており、火事が起きているというのに、その人物は慌てる様子も無くカメラの方をじっと見ているようだった。
「あれは……施設の職員の生き残りか?」
――しかし次の瞬間、モニター一面が炎によって真っ赤に染まり、カメラの信号が途切れてしまったのである。
 




