このままでは日本は戦争に負けます
このままでは、日本は戦争に負けます。
もちろん、ほとんどの日本人は、日本が今、戦争をしていることを知りません。
つまり、ほとんどの日本人は、その戦争に負けています。
しかし、すべての日本人がそれを知らないわけではありません。
だから、戦いはまだ続いています。
この戦いは、日本人だけが戦っているのではありません。
例えば歴史的な太平洋戦争における日本と米国の戦争は、この戦争の一面にすぎません。
近代において世界的に行われた共産主義との戦いも、一面にすぎません。
歴史的に行われてきた、一神教との戦いも一面にすぎません。
この戦いの本質は、精神的な美徳と、物質的な利己主義との戦いです。
しかし、抽象的な本質ほど、理解するのは難しく、伝えることも難しいです。
人間がする行動のすべては、何らかの損失から遠ざかって何らかの利益に近づくためのものです。
逆に言えば、そのような意味で利益や損失という言葉を定義できます。
人間は普通、家族の幸せのためならば他人の幸せを犠牲にすることがあります。
他人の幸せを犠牲にせずに生きていると思う人がいるなら、認識すらしないほど犠牲にしているだけです。
人間が書いた法律では、人間を殺すことが犯罪である一方で、牛や豚や鳥を殺して食べることは合法です。
人間は、家族の身体を傷つけられれば怒りますが、他人の身体を傷つけられることには比較的甘いです。
人間は、自分の身体を傷つけられれば怒りますが、他人の身体を傷つけられることには比較的甘いです。
自分や家族の身体を傷つけられることと、他人の身体を傷つけられることを、等価に扱う人はいません。いたとすればかなりの変人です。
つまり人間は利己的であって、そんなことは誰でもわかっています。
しかし、人間が利己的だというのは、最も幼稚な悟りでもあります。
所詮、人間は利己的だと思って、大人になったような、社会の真実に気づいたような気分になって満足できるのは、馬鹿だけです。
現実の社会においては、モラルが機能しています。
理性的なモラルのみならず、思いやりとか社会常識とか人間性とかがあって、社会の機能と生産性は存在しています。
ですから結局、人間の利己性のあり方というのは、ぜんぜん普遍的ではありません。
つまりは、良心と呼ぶべき価値があります。
そのため、人間が利己的だと冷笑的に断言することは、実際にはできません。
人間精神にとっての利益や損失を、個人的で物質的な属性に帰着することはできないということです。
ほとんどの人は、山ほどの親切にも触れながら生きてきたはずです。
自分の力だけで育ち、自分の力だけで生きてきたかのように自称する人は多くいますが、実際にはいません。
この戦争では、敵は、良心の価値を表立って否定しません。
敵は、良心の価値を捨象するのです。
つまり軽視し、価値観のフォーカスを移動していきます。
その捨象は、個人的で物質的なものへと幸福観をシフトしていくことを通して行われます。
あるいは、良心の定義を変更して形骸化していきます。
例えば、体制や法律に従順であることや、ポリティカル・コレクトネスによく適合していることをもって正義だと定義していきます。
市民として善良であるという言明は、合法的な範囲で利己的に生きているということにおいて満たされるとされます。
合法的な範囲で利己的に生きることは、それ以上でもそれ以下でもない人間の自然で普遍的なあり方だと見なされます。
それはまったく間違いであり、戦争に負けた後の負けた結果としての社会思想を示しています。
本当の価値は、思いやりです。他者の苦しみを自らのもののように感じて対処することです。
あるいは、より本質的には、一定のレベルで思いやり合う人々の社会に時間的に建設された信頼関係において、共同幻想としてのルールつまり「義」に背かないということです。
「義」こそが社会的な価値です。
しかし、それは抽象的に高度な考え方ですから、単に思いやりと言ったほうがわかりやすいかもしれません。
日本および東洋において、義の概念が忘れられる時代が来るとは、歴史的に見れば驚くべきことです。
体制はすでに戦争に負けたということです。
大衆はすでに戦争に負けたということです。
しかし、こういった、世界の状況についての客観的で正しい知識を持つ人々は、まだ戦争に負けていません。
そして、戦争に負けていない人々には、この戦いを諦める権利がありません。
なぜなら、この戦いを諦めることは、人類全体が不幸に飲み込まれていくことを許すことだからです。
それを是認することは、世界中の人々に対して、思いやりに欠ける行為です。義に背く行為です。
よって、思いやりや義を価値だと知る人々は、大衆それ自身にいくら虐げられたとしても、義に背いて満足することはできません。
そしてそんな、客観的で正しい知識は、生まれつき特別に賢ければ推論によって自力で到達できます。
あるいは、そういった正しい知識を提示されても、どの情報が本当に正しいか選び出すためには、かなり優れた知力が求められます。
ですから、この戦いは、優秀な人々によって行われるものです。
人類の真に優秀な生き残りとは、高学歴のことでも高所得層のことでも、エリートやエスタブリッシュメントのことでもなく、「思いやり」の心を自らの人間性として宿している人々のことです。
その意味で見ると、日本人の伝統文化や日本民族の人格的な特色は、誇りとしていいものです。
国や民族を誇るなんてとんでもない、という現代思想もあります。そちらのほうがとんでもないです。
良心のある両親に育まれることは良心ある人物に育つために有用です。同様に、祖国や血統の質も重要な因子です。
他者を対象として見る世界観は、近代になって西洋から持ち込まれたものです。
人格の備わっていない物質という概念も、そうです。
歴史的な日本思想は、八百万の神々が存在する多神教であって、すべての物体には心が宿っていると見なされます。
そして、自己という感覚主体は、自己を中心に明確な境界なくどこまでも広がって、世界中と繋がっています。
ですから、自分の肉体的な死は、寂しくて悲しいものですが、肉体が死んだからといって精神も死ぬとは感覚されませんでした。
恨みがあれば、怨念が残って当然だと見なされ、人々は人に恨まれることを恐れました。
そういった感覚世界は、人間という動物にとってある種、自然です。
犬猫にも目や心はありますし、この世界の創造主が人間だけを特別に作ったとは感覚しにくい気がします。
一神教は、多神教よりも歴史的に新しいものです。
預言者によって伝えられた神の言葉としての経典を重視し、理性的で論理的で抽象的です。
しかし、一神教が定めるところの価値や正義の論理の最終的な論拠である経典それ自体は、科学的に言えば控えめに言って偽書です。
今どき預言なんて、現実味はまったくありません。
しかも、それに基づく自己正当化によって戦争での人殺しなどが行われるのですから、明確な実害があります。
一神教は、極めて理性主義的で論理的ですが、現代から見れば、それは疑似科学です。
1789年のフランス革命などの近代革命は、民主主義によって王権神授説が否定されることによって実現されました。
それには、Adam Smithが1776年に『国富論』で創始した近代経済学が、大きく影響しました。
つまりは、「神の見えざる手」による自由市場主義が言われたのです。
その主張は、各個人や各企業の利己的な局所最適性が、総和としての全体最適性に結実するという主張でした。
その思想は近代思想のエンジンでありつづけましたが、この意味での近代経済学は実際には疑似科学でした。
経済的な労働単位となった都市市民らは、自らの眼前の利益のためにモラルの価値を捨象しましたが、それは何よりも彼ら自身に対して破滅的な損失をもたらすものでした。
あるいは逆に言えば、都市は市民を経済的な労働単位へと規格化するために、良心のモラルの価値を捨象して、物質的な幸福観を市民の眼前に喧伝したのです。
そのように、私達の戦いは世界的であって、その始まりも、有史以前にまで遡ります。
現代の大衆は、歴史をゆがめて認知しようと試みます。
近代的な思想に敗北していった人々について、価値も知力も極端に軽視します。
例えば、神風特攻隊の精神が偉大だとは、彼らは決して言えません。
もし言えば、自我が崩壊してしまうのです。
現代的な市民として利己的に生きてきた自分自身の価値が劣位に転換されてしまうから、心理的に許容できないのです。
しかし、真の価値は思いやりであって、その実践の究極は結局、献身や自己犠牲と無縁ではありません。
義に生きる者にとっての人生とは、天下の幸福のためにいかに自分自身を消費していくかです。
それは、自分個人の人生の幸福を最大化しようという近代的な人生観とは180度異なります。
ですから、これは水と油であって、明確に戦いです。
ほとんどの日本人はもう、欧米流の個人にされてしまっています。
戦後の情報環境と教育によって、日本人の脳は上書きされていったのです。
そうして、思いやりや義の価値について正しく議論される機会はほとんどなくなりました。
議論されることがなくなり、物質的で経済的な価値ばかりが議論され重視されて、思いやりや義の実態は急速に滅んでいきました。
そして彼らは、自分達が何を失ったか、何を奪われたか、自覚していません。
最も大切なものを盗まれて、何も自覚せずに笑っています。
老人達は、国債に頼って経済成長を犠牲に若者世代に介護職を強い、保有資産による逃げ切りを図って移民を許容し職と賃金を奪いました。
軍事を論じることは悪徳とされ、国家を誇ることは悪徳とされ、民族意識と大局的な戦略を失い、海外からの搾取を助長するだけの体制へと転換されていきました。
太平洋戦争の4年間における日本の死者数は、軍人約200万人、民間人約100万人です。戦後約75年、現代では搾取される約1億2千万人が、同胞意識を失い、騙し合い裏切り合い虐げ合っています。戦後体制における被害のほうが遥かに巨大です。
ですから、これは戦争であって、戦争は終わることなどないのです。
私達は、私達の核心的利益を守らねばなりません。
第一義的な利益は市民幸福だとすべきですが、それを防衛するために不可欠な核心的利益は、思いやりです。
つまり、良心こそが、第一の戦略物資です。
そして良心のためには正しい社会思想が必要ですから、社会を正しく見渡す意味での知性こそが第一の戦略物資だとも言えます。
それは、この戦いの指導者達に何よりも求められる属性でもあります。
人類を守る戦争の最前線は、常に個々人の精神の内にこそあります。
いくらお金があっても、大砲があっても、技術力があっても、天然資源があっても、真の戦争には勝てません。
もしも善良な判断力を備えていなかったなら、巨大な権力を手にしても、むしろ善良な人々から粛清してしまうことが必然です。
実際、近代思想や、ポリティカル・コレクトネスは、善良な人々から順に殺してきたからです。
ですから、権力を手にしているとか、お金を持っているとか、大企業に勤めているとか、名門大学を出ているとか、そういったことで人間の価値を測ることこそが、悪徳の本丸です。
利己的な普通の市民として暮らす、大衆性や俗物根性そのものが、どんな権力よりも邪悪な権力です。
私達は、心の正しさでこそ人を測って、心の正しさを基準にしてこそ、権限の適正な再分配を図らねばなりません。
そのための、自由市場原理に逆らってする再分配の努力こそが、美徳の本丸です。
ただそれだけでいい、簡単なことです。
こんなに簡単で明らかな事実を理解している人が、この世界には一人もいません。
残念なことです。
私達は、戦争をしなければならない。
人間、戦争をするのに遅すぎるということはありません。
戦争をしましょう。