魂抜き地蔵 【三話】
「ほんまに大丈夫? あんなところでなにしてはったん?」
「いえ、その……」
「ええよええよ、無理に答えんでも。よかったら私の家近くやさかい、ちょっと休んでいかはったらええわ」
「いえ、でも……」
「遠慮せんと。まだちゃんと歩けへんやろ?」そう言われて私は立ち上がろうとしたが、やはり足にまだ力が入らず、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「ほらほら、無理せんと」そう言って女性は私の腕の下に自分の肩を入れ、支えるようにして歩き出した。
女性は見た感じ五十代くらいの人で、小柄だったけれど力強く、触れる肩は温かかった。
「お母さーん、ただいまー」女性は家に着くと大きな声でそう言った。
返事はなかった。
「さあ、遠慮せんと上がってちょうだい」女性はそう言うと、私を玄関に座らせ、靴を脱ぐのを見守った。
家は古く、こじんまりしていたが、広い庭と居心地のよい落ち着いた雰囲気をしていた。
女性は私を家にあげると、居間のソファーに座らせてくれた。
「ちょっと待っててね、いまお茶入れてあげるから。しんどかったら寝転んでくれてええのよ」そう言って女性は台所へと姿を消した。
部屋はとても静かで、外より少しひんやりした空気と、目に心地よい暗さを閉じ込めていた。
アナログの飾り気のない大きな壁時計の秒針が、規則的な音を鳴らして静けさを強調している。
時間は午後の一時を少し過ぎていた。
襖の開いた隣の部屋には、大きなベッドが置いてあるのが見えた。
普通のベッドではない。
どうやら介護ベッドのようだ。
誰かが寝ているのが見える。
さっき女性がお母さんと呼んだ人だろうか。
「昌代さん、帰ってるの?」ベッドの女性が言った。擦れた、ほとんど聞き取れないような声だ。
挨拶に立つべきだろうか。
いきなり知らない人が隣の部屋にいてはびっくりさせるだろう。
そんなことを考えていると、さっきの女性が戻ってきて冷たい麦茶の入ったグラスを渡してくれた。
「ありがとうございます」私はそう言ってグラスを受け取り、麦茶を一気に飲み干した。
「あらあら、のど乾いてたんやね。ゆっくりしてね。うちにはお母さんと私だけやから、遠慮せんといてね。あそうそう、私は昌代」
「あ、あの、瑞希です」
「瑞希ちゃんね、よろしくね」そう言って昌代さんは奥のお母さんと呼ぶ人のところに行った。
隣の部屋ではあったけれど、襖が開いていたのと、どうやらお母さんと呼ばれる人は耳が遠いらしく、昌代さんは耳元に叫ぶような声で話したので、その会話は筒抜けに私の耳に届いた。
「お母さん、ただいま」
「ああ、ああ、昌代さん、おかえりなさい」
「ちょっとね、お客さまが来てるんよ」
「ああ、そう」
「お地蔵さんのとこでしんどそうにしてはったから連れてきてあげたんよ」
「お地蔵さん?」
「魂抜きさんとこよ」
「魂抜き地蔵さん?」
「そうよ、そこそこ」
「ああ、まあ、あんまりあそこ近づかんように言うてるやんか」
「私は近づいてへんよ。反対側歩いてるから心配せんといて。今日はな、お嬢ちゃんがそこで倒れてはったから近づいたんや」
その言葉にお母さんと呼ばれる人の返事はなかった。
「お母さんね、寝たきりで、話をしてるとすぐに疲れて寝てしまうんよ」昌代さんは私の前に戻ってくるとそう言った。「お茶、もう一杯入れてあげるね」そう言うと昌代さんは台所に行き、また麦茶を注いだグラスを持って来てくれた。
「ありがとうございます」
「それより瑞希ちゃんやったね、なんであんなところにいたん? 話した感じ、京都の人でもなさそうやね。いまおいくつ?」そう言いながら、昌代さんは向かいのソファーに腰かけた。
「あ、はい。静岡の方から来ました。いま高校二年です」
「静岡? また遠いとこやねえ。お母さんかお父さんは? まさか独りで来たん?」
「はい。独りできました。実は、その……」私はお地蔵様の話をどう説明したらよいのか悩んだ。そう言えば、昌代さんとお母さんと呼ばれる人は、あのお地蔵さまのことを……、なんと呼んだっけ?
「山科のこんなとこ、若い女の子が独りで来てもなんもあらへんかったやろ?」昌代さんはそう言った。
「いえ、あの、どうしてもあのお地蔵さまが見たくて」
「お地蔵さま? 魂抜き地蔵さんのこと?」
ああ、そう、それだ。
「そうです。でもどうして魂抜き地蔵って呼ぶんですか?」
「詳しいことはねえ、私もあんまり知らんのよ。お母さんが知ってると思うけど」そう言って昌代さんはお母さんの寝ている方に目を向けた。ここからでは寝息も聞こえないほど静かに眠っている。
「あとで起きたら少し話聞けるかも知れへんよ。夕方には起きると思うけど、待つ?」
「え、あの、よろしければ聞きたいです」
「私はかまへんけど、帰れるの? 静岡やろ?」
「ええ、お話を聞いたら、すぐに帰ります。新幹線ですぐなので、夜にはつけると思います」
「それやったらええねんけど。それにしてもなんでまた、魂抜きさんの話なんか聞きたいの?」
「実は、その……」本当の話をして信じてもらえるだろうか、私はそう思って躊躇った。いや、この話を必要以上におかしく考えているのは私だけなのかもしれない。案外話してみれば、そんなこともあるのね、くらいで軽く聞いてもらえるかもしれない。そう考えた私は、幼い頃の記憶の話を昌代さんにしてみることにした。
「実は、私がまだ赤ん坊の頃……」
私が話し終えると、昌代さんは言葉を失ったように黙り込んでしまった。
寒さを感じたのか、両腕で自分を抱きしめるような仕草をした。
「あ、あの、変な話をしてすみませんでした」私はどう言っていいのかわからず、沈黙を破りたくてそう言った。
「ううん、ええのよ。ええの……」そう言って昌代さんはお母さんの方を見た。お母さんはまだ起きる様子がない。
「で、瑞希ちゃんのお母さんはいまどうしてるの?」
「亡くなりました。私がまだ小さい時に。正直、それがいつのことだったのか、あまり詳しいことは私も知らないんです。お父さんも話したくないらしく」
「そうなんやね。関係なかったらええんやけど……」
「関係?」
「あ、いや、何でもないの」
「よければ、昌代さんが知ってることだけでも、先に聞きたいです」私は思い切ってそう言った。
「私の知っていることは、結局お母さんから聞いただけの話やから」
「それでもいいです。聞かせてください」
「うん。そうやねえ……」そう言って昌代さんは「ほんまかどうかわからんよ?」と何度も念を押して話し出してくれた。
「魂抜き地蔵って言うのは、漢字で書くと『魂』を『抜き取る』って書くのね。その名前の通り、あのお地蔵さんは、あんまりいい噂はないのよ。うちのお母さんなんか、あそこには絶対に近づくな。魂を抜き取られるよ、っていつも私と私の子供に言い聞かせてた。ああ、ちなみにあのお母さんは、私の死んだ旦那のお母さんでね、実のお母さんやないのよ。だから私があのお地蔵さんを見たのはここに嫁いできた時のこと。私の子供はもう結婚して、大阪の方に住んでる。これでも孫がいるのよ、わたし」そう言って昌代さんは時々お母さんの方に目を向け、話を聞かせてくれた。「でね、お母さんはもう今年で九十歳になるんやけど、そのお母さんも子供のころに聞いた話って言うから、もうだいぶん昔の話やね。あの川、疎水やけど、昔はあんな柵なんか無かったらしいのよ。だから時々子供が落ちて、溺れ死ぬってこともあったらしいの」昌代さんは目を伏せて話した。「それだけやったらまだよかったんやけどね、そのあと子供を亡くした親が悲しんで自殺をしたり、それだけやなく全然関係ない人まであそこで自殺をするようになってきたんよ」昌代さんは時々話を途切れさせ、物思いに耽るような目をしてお茶を飲んだ。「それで、やっぱりそれはまずいと思った人がいたんやろうね。川沿いに全部柵をして、道の途切れるあの場所にお地蔵さんを立てたらしいの。それからは、子供が川に落ちて死ぬこともなくなって、嘘のように自殺する人も無くなったみたい。しばらくの間はね……」
「しばらくの間?」
「ええ、そうよ。しばらく……、何年の間かは、あそこで溺れる人はもうなくなった、って聞いた。その間に、もうみんなの心の中ではそんな不幸があった場所やなんてこと、忘れ去られたんやろうね。お地蔵様の役割も、溺れた人の魂を成仏させるため、なんてことは誰も思わんようになったんやろね」