追憶
日時計が作り出す影が、気がつけば大きく動くくらいの時間が経った。
さっきよりも俺の体を突き抜ける風は暖かみを増している。
昨日と同じように空には雲が見当たらないほどの晴天で、春先の光合成の香りがより一層強くなる。
二人、何を言うわけでもなく、降り注ぐ日を浴びて自然を見る。
こうしてのりちゃんとこういう時間を共有するのはもう何年も前が最後だった。
高校の時は帰り道なんかでよく二人でぼーっとしてから帰ったりしたものだった。
何を言うでもなく、ただ隣にのりちゃんが座って、気が済むまで一緒にいた。
二人だけでこうしてる時間が、俺にはとても心地が良かった。
最後に二人でこういう時間を過ごした日のことを、俺は覚えている。
今よりも少し暖かかくて、桜も散った頃の日だった。
報せを聞いたのは、普段はかかってくることのない人物からの電話だった。
高校に入学したときから馬が合わなくて、何かあるとすぐに喧嘩になったくらい険悪だった山口は、良くも悪くも校内では目立つ存在で、俺達の学年の中では森本や優希よりも周りに人は集まっていた。
俺は森本や優希といつも行動していて、卒業するまで幾度となく山口たちと衝突していて、最後まで決着という決着をつけることもなく散り散りになった。
いつ登録したのかも覚えてない山口の電話番号からの着信に、俺は珍しいこともあるもんだと電話に出る。
『とりあえず緊急の連絡。蓮川覚えてっだろ?蓮川美織』
割と仲良くしてたし、忘れるわけがない。
『死んだらしい』
冗談きついぜと強めの口調で言ったと思う。
山口は俺の言葉に、何も変わらない態度で本当だと言った。
事実が飲み込めなくて呆然とする俺の耳には、山口の声は途切れ途切れにしか聞こえなかった。
お通夜の日程と時間を伝えられて、それだけはハッキリと記憶していたけど、あとのことは何を言ってたのかも思い出せない。
そこそこ可愛くて、話し上手で、誰とでも接することのできた蓮川は、学年の中でも人気だった。
どこのグループや人間とも仲が良くて、だけどどこにも属さない、固定の友人や取り巻きがいるわけでもなくて、俺達のところにも頻繁に遊びに来たりしていて、俺達の学年は、どこか蓮川が中心に回ってたような気さえする。
森本も優希も俺も、問題を起こして蓮川にこってり絞られたこともあるし、山口たちも色々言われて反省させられてる様子も見てきた。
勝ち気なようで女の子らしくて、優秀なのにどこかバカっぽくて、優しい姿からは想像もつかないほど怒ると怖くて。
どんなにワルでも蓮川にかかれば貰われてきた犬みたいになるし、なにか困ったことがあれば蓮川に頼ることも多くて、誰よりも信頼を置かれていて、うちの学年ではとりあえず蓮川みたいな風潮さえあったと思う。
そんな蓮川の死は俺達の学年にとってあまりにも衝撃的で、何かでよく聞く『どいしてあいつが』がそのままピッタリ当てはまった。
山口たちが中心になって65期生全員に連絡が回るのは、そう時間はかからなかった。
報せを受けたのりちゃんから、俺のケータイに久しぶりにメッセージが入る。
お通夜の日程と時間だけの、淡々とした文章。
目を通して画面のスイッチを切ったタイミングで、もう一通メッセージが届いてケータイが震えた。
『絶対顔出せよな』
言われるまでもなくそのつもりだったけど、のりちゃんから送られてきた飾り気のない文章は、その気持ちをより強くさせた。
高校卒業してすぐに買ったものの、袖を通すことのなかった黒のスーツを身に纏って、俺はゆっくりと家を出る。
仕事でも着ることのないフォーマルな服装は、見た目や着心地よりもかたく感じた。
時々街のガラスや鏡に映る自分を見ては、見慣れない姿に気持ち悪さを感じる。
いつも見てきた街並みは、いつもと変わらない景色でこの日も止まることなく流れてて、その中をいつもとは違う感情を抱いて歩く俺は、周りからはどう見えていただろうか。
俺のそんな姿を見ても誰かが察知できるほど、世間は緩く回ってない。
俺の感情は驚くほど変化を繰り返しているのに、目に見える世界は何一つ変わらず動いているのが不思議でならなかった。
指定された場所へ赴く足は重たくて、俺が到着した頃には、65期生全員が揃っていた。
ほとんど1年ぶりに会うみんなはそれほど変わった様子はなくて、最後の一人だった俺が来たことで学年全員が揃ったことに安堵しているようだった。
早く来いと俺の手を引っ張る優希は少し怒っているように見えた。
こういう時の礼儀や作法なんて全く知らない俺は、優希の指示に従うだけだった。
見様見真似で優希の振る舞いを模倣する。
焼香の香りを感じながら手を合わせる。
どれくらい手を合わせていればいいか分からなくて、片目を開けて優希を見ると、優希はまだ目を閉じて手を合わせ続けていた。
蓮川の地元は少し特殊な地域柄で、お通夜は町内会館で行われるのが通例らしい。
少し手狭な町内会館の中に用意された席に座るのは親族のみで、俺たちは焼香を済ませるとすぐに町内会館の外に出る。
外では老若男女のヒソヒソとした話し声が聞こえる。
特に耳を傾けたわけではなかったけど、ヒソヒソした話し声はやけにするすると俺の耳に入ってくる。
「あんな事件に巻き込まれるなんてねぇ」
「遺体で見つかったときは酷い状態だったって」
「人ってのぁわからんもんだよ、こんな終わり方なんてよぉ」
「この前見た時随分立派になってて、時が経つのは早いなぁって思ったんですよ」
すっかり暗くなった空の下で話される声は小さいのに、なんでこんなにも聞こえるんだろうと不思議に思った。
65期生が集まる一角では、森本がその場の中心となってみんなと何かを話している。
俺の横では、1年ぶりに会ったのりちゃんが俺のスーツの袖口を指先で掴んで俯いていた。
みんなは森本のもとに集まって何かを話していて、俺はそれを一歩離れたところから見ているだけだった。
やがて話が終わって、みんなの話し声が少し大きく聞こえるようになったあたりで、いつも山口の隣にいた石山が俺のもとに寄ってくる。
「これからみんなで飯行こうってよ。お前も来るよな?」
石山にそう言われたけど、俺は断った。
「何でだよ?蓮川と仲良かったじゃんか。高岡も来るだろ?来るように言ってくれよ」
のりちゃんが俺のスーツを掴んだまま、目だけで行こうと訴えかけてきた。
俺は気が乗らないながらも、石山に行くことを伝えた。
さすがに65期生94人が揃って入れるような店はそうそうなくて、やっと入れた居酒屋みたいな店はほぼ俺たちによる貸切状態だった。
店員が俺たちのためにテーブルやら椅子やらを必死に並べ替えたりしてくれて、なんとか見渡せば全員の顔が見えるようにセッティングしてくれていた。
俺たちはそれぞれ席について、懐かしい気持ちになりながら思い出話や現状報告に明け暮れる。
全員に飲み物が届けられると、森本が献杯の音頭をとった。
会食も進んで30分程が経った頃、話題は蓮川のことでもちきりになった。
俺はその話を聞きながら、目の前の唐揚げをつついてみる。
当時ニュースでは「関東無差別殺人事件」と大々的に取り上げられた事件に巻き込まれた可能性が高いこと。
遺体が見つかったのは俺達の地元から遠く離れたとある工場地帯であったこと。
最近蓮川と会った女子の話では、なんにも変わりがなくいつもの蓮川であったこと。
2週間前から連絡がつかず行方不明になっていたこと。
最後に蓮川と連絡をとったと言う名前も知らない男子が、泣きながら責任を感じていることを山口に吐露していて、山口がそれを慰めていた。
いろんな奴が蓮川の話を次々に話していって、それはやがて俺のところにも回ってきた。
「滝沢らともよくツルんでたじゃんあいつ。お前なんか聞いたりとかしてなかったんかよ?」
斜め前に座る同じクラスだった男に聞かれたけど、俺は何も知らなかった。
「卒業してから連絡もたまにしかとってなかったし、事件に巻き込まれたとかもさっき初めて聞いた。俺はお前らほど知ってることなんかなんにもねぇ」
確かこんな感じのことを言ったと思う。
山口が少し離れた席から「ホントに何も知らねぇんだな?」と聞いてきて、俺は山口と目も合わせずに今度は刺し身をつつきながら答えた。
「よくツルんでたって言ったって、高校までの間の話だしな」
俺の言葉を聞いた山口が、それでも俺に言ってきた。
「高校でよくツルんでたから聞いてんだよ。些細なことでもいいから、酒の肴になる程度の話でもいいからよ」
俺はしばらく考え込んだ。
周りの奴らが俺の様子をじっと見ていて、俺は何かあったかなぁと思い返してみるけど、本当に高校卒業してから数えられる程度しか連絡をとってなかった俺は、特に話せる内容はなかった。
「ごめん、ねぇや」
「そんだけ考え込んでねーのかよ」
山口はそう言ったけど、「連絡もとってなかったのか?」とさらに聞いてくる。
「数えられる程度かな」
「最後に連絡とったのは?」
「覚えてねーや」
山口はそっかと言って、タバコをくわえながら「悲しいなぁなんか」とこぼすように言った。
「やっぱ高校卒業しちまったら、いくら昔はツルんでたっても、そんなもんなのかもなぁ。そんなに連絡取ることもなくなって、あんなに仲良かったのに、そいつの最期の時のこと何も知らずでさ。この先そういうことが増えていくと思うと、なんかすげー悲しいっつーか、切ねぇっつーか」
山口の言葉を聞きながら、俺は変わらず刺し身をつつき続けていた。
「なんかこうもいきなりだと、色々後悔じゃねぇけど、もっとあーしてれば、こーしてればって思っちまうよなぁ」
俺は少しうつむきながら灰皿に灰を落とす山口の言葉を聞いて、何気なく言葉をこぼす。
「もう何言ってもおせぇけどな。過去に戻れるわけでもねーし」
「オメーはホントに冷めてんなぁ」
山口が天井に目を向けながら言った。
「高校の同級が死んだってのに、こんなときもタラレバのひとつも言えねーか?」
上目遣いな感じで目だけを俺に向けて、山口がそう言う。
「何言ってもおせぇのも、過去に戻れるわけじゃねーのも、言わずともわかるだろ。だからあーだったら、こーしてれば、ってみんな過去を悔いるんだろーが」
俺は山口に目を合わせて、静かに返事をする。
「蓮川はもういねぇ。あーだこーだ言ったってしょーがねーよ」
俺の顔の横を、ビールジョッキがすごい勢いで通過する。
ジョッキを目で追うこともできず、まもなく俺の後方でガラスの破裂音が響いて聞こえた。
その破裂音に驚いた女子数名が悲鳴をあげる。
「まるで他人事だな?」
山口がテーブルに身を乗り出すようにして俺に言った。
俺はわずかにジョッキがかすった眉の骨あたりを指でこすりながら言う。
「現実言っただけだよ」
バァンと大きな音が聞こえて、俺は音の方を見る。
山口の目の前のテーブルが地面に転がっていて、さっきよりも大きな女子の悲鳴と、男子のびっくりした声も聞こえた。
俺は山口を睨みつける。
山口は立ち上がって、俺を上から見下ろしている。
一気に騒がしくなった店内で、一際響く声が木霊した。
「テメーのそーゆーところがムカつくんだよ!!」
一気にイライラが噴き出しそうになる。
慌てて優希が俺の体を押さえつけたが、俺は優希を無理やり振りほどいて席を立ち上がった。
「文句があるならさっさと言えや」
俺は山口を睨みつけて言った。
「仲良くしてた同級が死んだってのにタラレバのひとつも言えねー!悲しみに暮れてる人間に配慮も気遣いのひとつもねー!みんなが認めたくねぇ事実を澄ました顔で言いやがって、挙げ句出てくる言葉が『しょーがねぇ』だぁ?ふざけんなコラァ!」
俺は山口に無言で向かって歩いていく。
「ずっとツルんでたんだろーが!?仲良かったんだろーが!?涙の一つでも流してみろや!だから冷めてるって言われんだよ!」
俺は山口の腹に思い切り前蹴りを叩き込んだ。
うずくまった山口の顔をさらに蹴り上げて、山口は隣のテーブルに倒れ込んだ。
俺は山口の首根っこを掴みあげて地面に投げつける。
「あーだこーだ言えば蓮川が帰ってくんのか?」
山口は俺の顔を思い切り睨みつけている。
「何言ったって無駄なんだよ!俺はそーやって現実受け入れてんだ!」
「マブダチが死んでしょーがねぇの一言で済ますのが現実を受け入れるってことなのか?」
俺は山口の胸ぐらを掴みあげて怒鳴る。
「ウジウジ言ってたって結果は何にも変わんねんだよ!」
「そうやって結果でしか物事見れねーところがムカつくんだよ!だからテメーは冷てえ人間なんだよ!」
「あいつが死んで俺がなんとも思ってねーとでも思ってんのかぁ!?」
「だったら涙の一滴でもここで流してみろや!」
言い合いが続いて、俺は森本と優希によって山口から引き離された。
山口は立ち上がって俺に向かってこようとしたが、すぐに石山に止められた。
俺は森本と優希を振りほどこうと必死に体を揺らす。
山口も、抑えている石山を振りほどこうとしながら大声を上げている。
「何とも思ってねぇわけじゃねーなら、その思ってることを言やぁいいじゃねーか!」
「だからそれを言ったら結果が変わるかって聞いてんだよ!」
「みんなが過去を振り返ってる中で、テメーひとりだけ先行ってんじゃねぇって言ってんだ!死んだ仲間を知らんぷりして、振り返りもせず先々進むのがテメーのやり方か!?」
「ぁんだとコラァ!」
俺は渾身の力で優希と森本を吹っ飛ばす。
山口も石山をテーブルにぶん投げて、俺と山口はまた胸ぐらを掴みあって怒鳴り散らす。
「死んだ仲間のために、過去を振り返ることもしてやれねーのか!?」
山口の胸ぐらを掴む俺の腕の力が、急にストンと落ちた。
山口は俺の腕をつかんで振り払う。
「帰れよ」
山口は俺に言った。
「こんなときすら仲間に寄り添えねー奴にここにいて欲しくねぇ」
俺は何も言えなかった。
「思い出すと自分が辛くなるから前向いてるだけじゃねぇか。自分の感情が押し殺されそうになるから死んだ仲間のことも振り返らねぇだけだろーが。現実だ結果だゴタク並べて、自分が傷つきたくねぇだけじゃねぇかてめーは」
心臓がグワッと掴まれた気がして、目の前が少しグラッとする。
「仲間のために自分の心痛めることもできねーくせに、もう受け入れたとかハッタリこいてんじゃねぇよ。テメーいつまでもこの現実を受け入れらんねぇから過去の話ひとつもできねんじゃねーか」
俺は山口から目を切って出口に向かって歩いていった。
みんなが歩いていく俺をじっと見つめる。
「悪かったな、自分が可愛くてよ」
そう言って、俺は扉を勢いよく閉めた。
気がついたら、学校帰りによく来ていた河川公園のベンチに座っていた。
薄暗い街灯が原っぱをぼんやりと照らしていて、そこをたまにマラソンしてるじいさんがサクサクと走っていく。
高校時代から何も変わらない、いつも見ていたこの景色。
蓮川が死んだって、俺の目の前の光景はいつもどおりの日常が流れている。
あまりの変化のなさに俺は戸惑っていた。
仲の良かった蓮川が死んだくらいじゃ、世間の流れは何事もなく回ってる。
それが普通なんだと思っていたから、俺もできるだけ普通に振る舞っていたつもりだった。
蓮川が死んだという実感は、俺の中にはまだない。
だけどそれは変えようがない現実で、それが頭では分かっているのに心が追いつかない。
色々考えれば考えるほどに、頭と心の距離は離れていく一方で、ただ突きつけられた現実を俺は自分に言い聞かせていた。
ここに来てどれくらいが経ったんだろう。
じっと俯く俺の目の前にはいつの間にかのりちゃんがいた。
じっと俺の前で立っていて、ただ俺のことを見ていた。
俺がようやく顔を上げてのりちゃんの顔を見る。
俺と目が合ったのりちゃんは、いつもと変わらない口調で「寒っみーなぁ」とか言ってた。
「山口が謝ってたぞ。滝沢の気持ち考えねーで言い過ぎたって」
のりちゃんが少し冷えた缶コーヒーを俺に渡した。
「いや…山口の言うとおりだよ」
缶コーヒーを開けて、一口飲む。
「色々考えれば考えるほど、心に余裕がなくなっていく。その状態が気持ち悪くて、蓮川は死んだって事実だけを見て納得しようとしてた」
のりちゃんは黙って俺の話を聞いていた。
「冷めてんのかなぁ俺…自分でも分かってるけど、昔からそうだもんな。余計な感情論とかより、目の前の現実主義って言うかさ」
のりちゃんはにゃははと笑った。
「それがあんたのいいとこであって、だめなとこ」
「どっちだよ…」
俺は缶コーヒーを飲み干して、空き缶を足元に転がした。
「今回に関しては滝沢が悪いよ。みんなが悲しんでるのに、現実つきつけるようなこと言うのは、みんな辛かったと思うよ」
のりちゃんが俺の横に座った。
「あんたの悪いとこはさ、自分の感情を見せずに現実だけを突きつけるとこだよ。だから山口だってあんなにキレたんだろ」
俺は何も言えなくて、のりちゃんと目も合わせない。
「タラレバが好きじゃねーのも、結果や現実でしか物事見ねーのも、森本も稲岡も、山口だってみんな知ってるよ。あんたが心を殺したように、平然としてるように見えるのが腹が立つんだよ」
心を殺してるつもりはないけれど、現実を受け入れようと自分の感情は確かに口には出さなかった。
「山口だって分かってると思うよ。思いと言葉がちぐはぐなのは、今に始まったことじゃねーじゃん。いっつもそれで喧嘩ばっかしてきたんじゃん」
俺はのりちゃんを見た。
「あたしには分かるよ。あんたの心の中くらい。ずっと一緒にいたんだから」
何故だか涙が溢れてきた。
いつもと変わらない口調なのに、心の奥にズドンと来るようなのりちゃんの言葉。
いつも言葉が足りなくて、結論だけで話を進めて壁にぶつかっても、いつも俺の心を理解してくれるのりちゃん。
表現が下手くそな俺の気持ちを、いつだってのりちゃんは分かってくれる。
気がついたら止まらなくなるくらい、自分の気持ちをのりちゃんにぶつけていた。
今でも蓮川の死が信じられないこと、誰かが死んでも世の中は平然と回り続けているのが不思議なこと、頭では分かっていても、心は全然追いついてこないこと。
ひとつひとつ、涙を流しながらのりちゃんに話し続けた。
のりちゃんは全部分かっていたかのように、ただ黙って話を聞いてくれた。
何もかも自分の中のゴチャゴチャの感情を全部話し終えたのは、日も変わってマラソンのじいさんも見かけなくなったくらいの時間。
まだ寒い春先の夜空の下で、お世辞にも厚いとは言えない服装の俺たちは、何を言うわけでもなくベンチに腰掛ける。
川の流れる音、街に流れる風の音、時々聞こえるクラクション、あまりにも静かなここは、そういった音が直接脳に飛び込んでくるように聞こえてくる。
時々のりちゃんと目が合っては、しばらく見つめ合ってまた違うところを見て、の繰り返し。
少しどんよりした色の空には、月も星も見えなかった。
一瞬強く吹いた風が俺たちの体を突き抜けたとき、のりちゃんが小声で「寒っ」とつぶやく。
のりちゃんが俺の顔を覗き込んでくる。
俺はのりちゃんと目を合わせる。
のりちゃんはそのまますっと立ち上がって、俺の右手を握って言った。
「帰ろ」
時間は夜中の2時を回ってた。
黙って歩く帰り道、俺はまだなにか話し足りないような気がして、ふとのりちゃんに聞いてみた。
「のりちゃんから見て俺は、昔からそんなに冷めて見えんのか?」
いきなりの質問に、のりちゃんはしばし考え込んだあと、「冷めてるっつーか、確かに熱くはないなぁとは思う」と答えた。
「達観してるって言うのかなぁ?大事なことは言わねぇし、一人で解決しようとするし、なんか聞いてもはぐらかしたりするし。仲間意識は強いくせに、自分はその仲間をうまく使えないし」
確かにそうかもなぁと思った。
「けど、滝沢の考えてることはいつも分かるんだ。言葉が足りなくても、いきなり怒っても、あたしにはあんたの心の中が見える気がする」
のりちゃんはそう言って、また俺のスーツの裾口を掴んだ。
「だから」
「だから、もう隠し事はなしにしよう。どーせ読めちゃうもん、あんたの心の中」
俺は何も言わずに聞いていた。
「あたしには、ちゃんと言ってほしい。約束」
俺はなんだか少し照れくさくて、曖昧な返事しかしなかった。
少し歩いた交差点で、俺とのりちゃんの行く方向が分かれる。
のりちゃんはなんだか寂しそうというか、別れが惜しそうにしてた。
時間も時間だったから、なんとか説得してのりちゃんを帰らせる。
俺も別れは惜しかったけど、そうも言ってられる時間じゃなかった。
「またな」
のりちゃんが俺に手を振った。
俺は手を振り返して、自分の家の方向に向かって歩いていく。
のりちゃんはまだ、俺の後ろ姿を見送っていた。
「滝沢!」
大きな声が聞こえた。
俺は振り返る。
のりちゃんは振り返った俺に、もうひとつ大きな声で言った。
「勝手に消えんなよな!」
俺はその言葉に「あたりめーだろ」と返事した。
今度はのりちゃんが歩いていく姿を俺が遠目で見送った。
のりちゃんが見えなくなるくらい小さくなって、やがて角を曲がったのを確認して、俺もまた歩き始めた。
蓮川が死んで、まだ心の整理がつかなくて、今日起きたことを思い返しながら家までの道のりをゆっくり歩いた。
家に着いたのは何時だったか覚えていない。
ずっと心がモヤモヤしたままベッドに体を沈めて、気がついたら眠りに落ちていた。
この日を最後に、俺はのりちゃんと一度も顔を合わせることはなかった。