632 ラストガーデン03
「ほら、走れ」
小柄な少年が走っている。
「も、もう無理……」
ヘロヘロになりながらも転入生にしきりに急がされ、少年は必死の形相で走り続ける。
「無理って言えるうちはまだ大丈夫だぜ」
「ぜぇ、はぁ、そ、そんなこと言っても、無理なものは……無理だよ」
「でも、まだ走れるだろ? 体が動けるなら大丈夫さ」
転入生が後ろから少年を軽くちょんちょんと突っつき、無理矢理走らせる。
「ぜぇ、はぁ、こんなの、僕を、ぜぇぜぇ、いじめて、ぜぇぜぇ、楽しい?」
「喋ったり、考えたり出来るうちは大丈夫さ。そのうち何も考えられなくなるから、とにかく走れ、ほら走れ。さぁ、走れ。とっとこ走れ」
少年が走る。その後ろを転入生が声をかけながら追いかける。
「ま、ぜぇぜぇ、毎日、ぜぇぜぇ、こんなことを、ぜぇぜぇ、やっていたら、ぜぇはぁ、死ぬ、はぁはぁ、死んじゃう」
「大丈夫さ。俺も最初は走り込みからやったんだぜ」
文句を言いながらも走り続けた少年、だが、やがてその声も聞こえなくなり、虚ろな瞳で歩いているのか走っているのか分からない状態で、ふらふらと、よろよろと動くようになる。そして、ついに糸が切れたかのようにプツンと倒れる。その倒れようとしていた少年を転入生が支える。
「見えるか? 毎日の走り込みで疲れているはずなのに、前回よりも進んでいるぞ。これは、限界を超えたってことだぜ」
転入生の声が聞こえているのか聞こえていないのか、少年は目を閉じ、ただ荒く、空気を求め、息を吸い、吐き出していた。
「走り込みはもう良いの?」
「ああ。アレは自分の限界を知ってもらうためだ。無理な運動は体を痛めるだけだろう? そんなことを続けるのは大馬鹿のやることだ」
転入生は肩を竦める。
「そ、そう? それはわかったよ。けど、僕が頼んだからって、どうしてここまで……」
「言ったろう? 交換条件だ。前に進みたいんだろう? だから、協力している」
転入生は何処か遠い目をして一瞬だけ空を見つめ、そして小柄な少年を見る。
「わかったよ。次は何をすれば良いの?」
そう喋った小柄な少年の前に拳が迫る。一瞬の出来事。転入生が拳を握り、殴りかかっていた。小柄な少年はその拳から逃げるように身を縮こめる。
転入生の拳が小柄な少年の前で止まる。
「次はこれだ」
「え?」
小柄な少年が恐る恐ると目を開け、貝殻が開くように縮こめていた体をゆっくりと開く。
「とにかく見ろ。そうやって目を逸らし小さくなったということは、見えていた、感じていたってことだろう? 反応出来ていたってことだ。見えていない奴は、そうやって身を縮こめることすら出来ないからな」
「そ、そうなのかな」
そう言った小柄な少年の前に再び転入生の拳が迫る。小柄な少年はビクッと反応し、目を閉じる。
「怖いか? だが、迫る拳を見ろ。見えるはずだ。怖い、逃げたいという肉の反射を意思の力で押し込めろ」
「そ、そんなのむ、無理」
「無理、か。無理って言えるうちは大丈夫だ」
転入生の拳が風を切って振り抜かれる。何度も何度も拳が飛んでくる。その風圧だけで小柄な少年の顔が歪む。小柄な少年の体が怯え、逃げるように動く。目を閉じる。小柄な少年が、怯え、閉じていた目をゆっくりと開ける。目を開けた瞬間、次の拳が飛んでくる。すぐに目を閉じる。恐る恐ると目を開ける。次の拳が飛んでくる。そんなことを繰り返していた。
小柄な少年はいつものように取り囲まれていた。
「最近は上手くこそこそと隠れていたようだな」
「たくよぉ、何度も殴られてるのにわかんねぇのか」
「こいつ、アレだろ。殴られるのが好きなんだろ」
「うげぇ、おいおい、それだと俺たちがやっているのはご褒美か。気持ち悪い奴だな」
「はぁ、たくよぉ。学園を辞めろ。オヤジには、学園の授業についていけませんでしたって言え。どうしてそんな簡単なことが出来ねぇんだ。俺を舐めているから逆らい続けるんだろうな。もういい、さすがに俺も限界だぜ。お前のしぶとさは良く分かった」
囲んで居た少年たちの一人、キザったらしい少年のそんな言葉に小柄な少年は、一瞬喜びの顔を見せる。やっと終わった、諦めてくれた、小柄な少年はそう思った。だが、キザったらしい少年の次の言葉にその顔は曇る。
「俺が甘かった」
キザったらしい少年が前髪を掻き上げる。
「この程度じゃあ、ぬるかった。そうだよなぁ。俺もさ、目立たないように見えない場所を殴ったり蹴ったり、お前の教科書を破り捨てるとか、気を使っていた。その気遣いが悪かったようだ。気を使いすぎた」
「おいおい、どうするんだ?」
「さすがにあまり目立つのは不味いぜ。いくら教師連中が見て見ぬ振りをしているって言っても、あからさまなのはさすがに不味いぜ」
「いいや、大丈夫さ。こいつの腕を折ってやる。良いか、教師に聞かれたら、階段から転んで折ったって言うんだぞ」
キザったらしい少年が威圧するように小柄な少年を睨み付ける。
「へへへ、そりゃあいい。そうだよなぁ」
キザったらしい少年の取り巻きの一人がニヤニヤと笑う。
「ん?」
キザったらしい少年は小柄な少年の反応に少しだけ違和感を憶える。
「どうしたんだ?」
そのことに気付いたのか取り巻きの一人が不思議そうな顔でキザったらしい少年を見る。
「いや、何でもねぇよ。良いから押さえ付けろ」
取り巻きの一人の手が小柄な少年に伸びる。その手を小柄な少年はするりと避ける。
「ん? こいつ!」
取り巻きの一人が避けた少年に殴りかかる。小柄な少年はそれを避ける。
迫る拳、伸びた手、蹴り、それらを少年はするすると避ける。
避け、崩れた少年の包囲から抜けだし、そのまま逃げる。
小柄な少年は走って逃げだした。
少年たちが小柄な少年を追いかける。だが、追いつけない。
小柄な少年は逃げ切った。そして大きく安堵の息を吐き出す。
「見えた! 見えたよ! ずいぶんと遅かった。それに怖くなかった。比べたら全然、たいしたことがなかった。あんなものだったんだ……」




