515 ダブルクロス37
「少し昔話をしようかしら」
病んだ瞳の女が狂気に歪んだ笑みを浮かべる。
問いかけられる。だが、何も答えない。
「そう、昔話。何処にも無い、ありふれていないお話? ふふふ、あまり興味が無いのかしら」
問いかけた病んだ瞳の女は相手の返事を待たず、喋り続ける。
「パンドラが何を材料として創られているかご存じかしら?」
病んだ瞳の女がそこで一旦、会話を区切る。
相手からの返事は無い。
しばらく待ち、返事が無いことに満足すると再び病んだ瞳の女が口を開く。
「昔、むかーし、そう、とーっても昔の話ね。私たちが旧時代と呼んでいた頃のお話になるのかしら。その時代にドクターと呼ばれていた男を知っているかしら? あらあら、知らない? もう忘れてしまったのかしら。それとも副作用? 覚えていないなんて酷い話ね。ふふふ、でも、私も覚えていないのだから、おあいこかしら? 情報端末にも残っていないお話だったけれど、でも、ふふ、マザーノルンは知っていたわ」
病んだ瞳の女が狂気に歪んだ笑みを浮かべたまま、わざとらしくコツコツと足音を響かせ歩く。
返事は無い。
「マザーノルンを知らない? あらあら、そうね、そういうこともあるかしら。あなたのおじいさんは、それに直接関わっていても、あなたは違うものね。それに、あなたがそうなる前の話でしょうから、ふふふ、あらあら、それは小さな頃の話をされても困るって顔かしら?」
病んだ瞳の女は足を止め、楽しそうに笑う。
「そうそう、それで、何の話だったかしら? パンドラの話? パンドラがどうして生まれたのか? 何を材料にしているのか、かしら? それとも、あなたのおじいさんの話? おじいさんが何をやっていたか、何者だったか、かしら? ふふふ、ドクターの話が聞きたいの? それとも、聞きたいのは、あなたがもう覚えていない、あなたの昔話かしら? ふふ。ええ、そうね。アクシードが人を狩っている理由かしら? 悪者だから、人を狩っている訳じゃないのよ。ふふふ、ええ、これは本当。私たちは私たちなりの理由があって、仕方なく人を狩っているの。ふふふ、そうね、人が必要なのよ」
相手からの返事は無い。
それでも構わず病んだ瞳の女は話を続ける。
「えーっと、それで何処まで話したかしら? とある偉大なお方の元でパンドラの開発に関わったドクターの話? それは偶然で、元々パンドラを創るための実験では無かったらしいけれど、ふふ、それは今回の話には関係無いわね。その博士は、生き延び、いえ、生き延びてはいないのかしら? ふふ、でも、ここは生き延びたことにしようかしら。その方が分かりやすいでしょう? ドクターは静かに暮らしていたの。そう、しーずかにね! でも見つかってしまった。そうよね、優れた才能を持った人材は有効活用しないと駄目だものね。ドクターは悪い組織に捕まってしまったの! ああ、なんてことでしょう。悲劇ね、悲劇が始まってしまいそう。ふふふ、それは、こんな話をされても困るって顔かしら? あなたは覚えていないでしょうから、ふふふ、もちろん、私も知らない話よ。私は当事者ではないから。だから、これはそうだったのでは? という私の予想。空想。私が考えた物語」
女は、病んだ瞳をさらに歪ませ、大きく口角を上げて笑う。
「ドクターは、ね、孫娘を人質に取られて、その悪い組織で研究を続けたわ。ふふふ、そう、とーっても悪い組織。人質を取るなんて悪いことでしょう? だから、悪い組織。悪い組織でいやいや悪い研究をしていたドクター。ふふ、そこに転機が訪れるの。それが、何か分かるかしら?」
病んだ瞳の女が耳に手をあて、相手からの返事を待つようなポーズをとる。そして、何も返事が返ってこないことに満足し、うんうんと頷き、話を続ける。
「孫娘が死んでしまったの! ああ、大変! なんてことでしょう! ドクターは孫娘が死んでしまったことを知り、ずーっと暖めてきていた、その悪い組織から逃げ出す計画を実行したわ。ドクターの計画は成功。ドクターは悪い組織から逃げ出せましたとさ。めでたし、めでたし。ふふ、足手まといの人質がいなくなれば、なんとでもなったのでしょうね! さて、ここまでの話は良いかしら?」
病んだ瞳の女が、再びコツコツと足音を立てて歩き出す。
「今度はドクターの話から、孫娘の話に移ろうかしら。死んだと思われていた孫娘だけれど、やっぱり死んでいたの。その悪い組織は、死体を勿体ないと思ったんでしょうね。色々な実験を行なったの。その結果、どうなったと思う? ふふふ、その通り。なんと、孫娘は生き返ってしまったの! と、ここまでが私の予想。私はそこに居た訳じゃないから、少しは違っているかも。もしかしたら、孫娘はまだ生まれていなくて、お腹の中に居たのかもしれないし、だから、死んだのは母体だったのかもしれない。母体が死んだから、お腹の中のあなたも死んだと思われた。そうだったのかもしれない。そこまでの情報は私も得ていないから、ふふふ、ごめんなさいね。とにかく、そうやってドクターが悪い組織から抜け出せたということを理解してくれたら、良いわ。ふふふ、それで、逃げだした後のドクターは何をしていたと思う? ふふ、まさかパンドラの研究者であるドクターが隠れて街の整備屋をやっているなんて思わなかったわ。ふふふ、でも、考えてみればそうね。パンドラを開発したのだから、それを搭載したクルマの整備なんて、とても向いている仕事かもしれないわ」
病んだ瞳の女が、囚われた女の前で止まる。
「あなたは色々な実験の結果、デザイナーチャイルドとして生み出され――それとも造り替えられた、なのかしら? でも、ふふふ。そこまでされたのに、ね。思ったほどの才能がないとして捨てられた。いえ、上手く逃げだした、なのかしら? ふふふ。私が何を言いたいか分かるかしら? あなたが特別待遇になっている理由よ。つまり、ね、あなたはミナモト博士の孫娘。だから、あなたに価値があるということよ」
病んだ瞳の女は楽しそうに笑っている。
囚われ、鎖に繋がれたシーズカは、その話を虚ろな瞳で聞いていた。




