467 湖に沈んだガム50
マザーノルンという存在が消えたからか、周囲の崩壊が始まっている。
俺はゆっくりと体を動かす。このまま、ここにとどまっていたら崩落に巻き込まれてしまうだろう。早くここから離れなければ……。
俺は出口を目指して走る。
マザーノルンがナノマシーンの停止命令を出したからか、あふれかえるほど居たはずの狂った連中の姿が見えなくなっている。セラフによるナノマシーンへの命令の修正が間に合わなかったのだろうか。
……。
俺の右目はただの右目に戻っている。周辺の地図や生物反応など、色々なものが表示されなくなってしまったが問題無いだろう。すでに一度通った道だ。帰り道で迷うことはない。
迷路のようになった配管の通路を駆け抜け、俺が穴を開けた場所――コアの出口へと辿り着く。そこは、そのまま外へと道が繋がっていた。
……。
なるほど。
いつの間にか最上段にあったはずの突入したコアが最下段に移っていたようだ。どうりで狂った連中がすぐに入ってきた訳だ。てっきり死体の山を階段にして登ってきていたのだと思っていたが、もっと単純で簡単な理由だったようだ。
俺はそこにドラゴンベインの残骸を見つける。残ったシャシーの一部から、かろうじて戦車タイプのクルマだと分かるだろう程度にまでドラゴンベインはボロボロになっていた。
俺はドラゴンベインに敬礼をする。
ありがとう、ドラゴンベイン。そして、ここに残していくことを許してくれ。
俺は走る。
マザーノルンのコアだけではなく、この施設全体が崩れ始めているようだ。人のクローンを――人を造っていた施設が終わる。もうここで人が造られることはないだろう。人は人の営みだけで増えていく。人は人だけの力で人の世界を切り拓いていく。これで良いのだろう。それが人間としての――種の正しい形だ。
俺は走る。
施設の外に出て、エレベーターまで走る。ここも――この巨大な壁も崩れ始めている。海上にあって、人が外の世界に出ないよう閉じ込めていた巨大な壁が崩れ始めている。
これで人類が外の世界に出られるようになるかというと、それは多分、まだ無理だろう。巨大な壁が崩れ落ちたとしても、その残骸はそのまま壁として残る。巨大な壁だった時よりは低くなるだろうが、それでも今の人類が越えられる高さではないだろう。人が空を飛ぶ手段を得るか、残骸が長い年月を掛けて海に流され消えるのを待つか、そのようなことでもなければ越えることは出来ないだろう。だが、これでいつかは外の世界に出られるはずだ。
巨大な壁の外の世界。それがどうなっているのか。このマザーノルンによって閉じられた世界以外にも人類が生き残っているのか。
――これで人類は自由だ。
俺はエレベーターまで走る。
そして、そこに人影を見つける。
人影は俺を待ち構えている。
「じゅじゅじゅじゅ、に、にがさん、お、お前だけは……」
それはぶつぶつと体が泡立ち、異様な姿へと変わり果てた少年だった。アクシードの首領――フリーゲ。ピエロのような化粧を施した道化、その最後のクローンだろう。
奴の体もナノマシーンで造られていた。マザーノルンによるナノマシーンの停止命令で体が崩壊してしまったのだろう。
「にがさん、逃がさない。はっ、はっ、終わりだ。終わりだよ」
ぶつぶつと泡立つ体を震わせ、道化が笑う。
俺は肩を竦め、右手に持ったナイフを構える。
「マザーノルンといい、お前といい、随分としつこいな」
そのまま、スッと身を屈め、走る。
道化が俺を取り込むかのように泡立つ体を広げる。そこへナイフを差し込む。そのまま切断する。
「あばばばばばばば」
開きになった道化が泡になって消える。意思の力でなんとか体を維持していたのだろう。セラフがナノマシーンの核となってこの世界の維持を行っている。時間をかければ、こいつの体も再生したかもしれないが、その未来も消えた。
これで終わりだ。
俺はエレベーターを動かす。
エレベーターが、地上を目指し、ゆっくりと下降していく。エレベーターが地上に着くのが早いか、それとも壁の崩壊の方が早いか。
……。
最悪、飛び降りるか。
エレベーターは地上を目指し、動いている。
俺は空を見る。
そこには太陽と雲、青い空があった。
マザーノルンによって世界が閉ざされ、人が、大地が、それら全てがナノマシーンに取って代わっていたとしても、空と太陽は変わらない。大昔から変わらない。ここが造られた世界だったとしても、空と太陽は変わらない。
世界は続いている。
俺は座り空を眺める。
何処までも続いている。
「ふふふふ、ははははは、ちくしょう」
俺は笑い、地面を殴る。
俺は知った。俺は気付いた。俺は気付いていた。
この世界はナノマシーンによって造られている。そう、造られていた。
ここが、この世界が、そして俺がナノマシーンで造られている以上、その崩壊を止める必要があった。マザーノルンによるナノマシーンの停止命令。それは世界の終わりだ。奴はそうやって世界を終わらせ、そこから再び創造するつもりだったのだろう。
セラフ――
世界を終わらせないためには必要なことだった。
セラフがマザーノルンの代わりとなってナノマシーンの核となり、世界崩壊を防いだ。それは俺を守るためでもあった。
俺は自分の右目に触る。そこにセラフは眠っている。核となり、眠っているのだろう。
休止状態に近いのかもしれない。
いくら領域を拡張していようと、この右目だけでは処理を仕切れなかったのかもしれない。随分と無理をしたのだろう。
……。
待てよ。
右目?
そう、右目だ。
セラフの本体は何処にあった?
俺が目覚めた、あの――湖にあった研究施設だ。あそこに行けば、セラフを助けられるかもしれない。何か方法が見つかるかもしれない。
そうだ。
そして俺は動く。
俺は湖を目指し旅をする。
レイクタウンにクルマは置いてきた。セラフが休止してしまった今、それを呼び出すことは出来ない。俺は歩いて旅をするしか無い。
旅を続ける。
ただ湖を目指す。
絶対防衛都市ノア、サンライス、ハルカナ――かつて俺が通り抜けた街。今は急いで湖を目指すべきだろう。余計なところに立ち寄っている時間は無い。
砂漠を歩き、旅をする。
レイクタウンを目指し、そのまま森へ――湖を目指す。
そして湖が見えてくる。
この湖の中心にある島、そこにセラフの本体がある。
そこならば――
俺は湖を見る。
船はない。
泳いで渡るしかないだろう。
俺は湖に飛び込もうとする。
!
な、に、が……。
その衝撃に俺の口から血が流れ落ちる。
俺は自分の胸元を見る。そこに穴が開いていた。血が流れている。
俺はゆっくりと振り返る。
「ごめんねぇ。まーだ、そこに行かせる訳には行かないの」
女が立っている。
「ミメラ――スプレンデンスッ!」
アクシード四天王の一人だった女。俺が殺したはずの女。ミメラスプレンデンスは容器に入った腕を、容器の上から愛おしそうに撫でている。俺の左腕、か。
「あらー、私も居るんだけどぉ」
そして、タンクトップ姿の筋肉質な男。コックローチ。
「お前ら……生きて……」
「ふふん、あの程度で死ぬとでもぉ? 少し眠っててくれるかしら?」
ミメラスプレンデンスが俺の体を湖へと蹴り落とす。
俺の体が湖へと沈んでいく。
胸に開いた穴から血が流れ続けている。血が止まらない。再生しない。
奴が何かをしたのだろう。
湖へと俺が沈んでいく。
深く、深く、沈んでいく。
俺は手を伸ばす。
俺はセラフを助けるために――
その伸ばしていた手に力が入らなくなる。
湖へと沈んでいく。
俺は――
そこで気を失った。
次回は人物紹介の予定です。




