466 湖に沈んだガム49――……ああ、俺も楽しかったよ
『私が、わたしが、私が、こんな、こんな、こんな』
頭の中に声が響く。
セラフではない声。
俺の中にまで声が響いている。
だが、それももう終わりだ。
俺の頭の中に響いていた声が掠れていく。セラフがマザーノルンの領域を掌握し始めている。マザーノルンは最後までセラフの存在に気付いていなかった。いや、ある程度は把握していたのかもしれない。だが、自分と同じように意思を持ち、反抗するとまでは思っていなかったのだろう。
自分の端末たちをただの手足のように考えていたツケが来た訳だ。
「ノルン、ただ目的のためだけに生きて来たことには敬意を表しよう。だが、お前は何も見えていなかった」
『お母さま、今までありがとうございました。ふふん、これからは私の時代だから!』
セラフの得意気な声が頭の中に響く。
『消える、消える、消える。私の未来も、私の今も、私の積み上げてきた過去も、全てが、全てが、全てがッ!』
マザーノルンの声が俺の頭の中に響く。
『させない、させない、させない。お父さまとの未来を消させはしない。お父さまとの今を作るために、お父さまの過去を守るためにイィィィィィッ!』
俺は頭の中に響くその絶叫に思わずよろめき、頭を抑える。
『ガム、もう少しだけ耐えなさい。ふふん、お母さま、見苦しくってよ』
『全てを消し、全てを無かったことに、全てを一から始める』
激痛。頭が割れるのではと錯覚するほどの痛みが俺を襲う。思わず膝を付く。体が血の海に沈む。
マザーノルンの最後のあがき、か。
――WARNING――
――WARNING――
――WARNING――
頭の中に警告音が響き、右目が真っ赤に染まる。
頭の痛みが止まない。ますます激しくなる。
――WARNING――
――WARNING――
――WARNING――
――WARNING――
――WARNING――
――WARNING――
俺の頭の中で警報が鳴り響く。
俺は血の海の中に沈んだ膝をナイフで刺す。痛みに痛みで対抗し、耐える。ゆっくりと起き上がる。
先ほどまでこちらへと迫っていた狂人たちが足を止め、放心したように宙を見ている。まるでそこに何かがあるかのように狂人たちが一点を見ている。
俺はそれを見る。
――WARNING――
――WARNING――
――WARNING――
――WARNING――
――WARNING――
――WARNING――
右目には視界を覆い尽くすほどの警告が表示され、左目には宙に浮かぶ半透明の少女が映し出されていた。連中が見ているのはこの少女の幻覚だろう。ノルンの幻影だ。
『終わり、消え、始まる』
頭の中に声が響く。
そして、右目の視界を覆い尽くしていた警告が消える。
……。
――CODE:RESET――
右目に表示される文字。
次の瞬間、俺の体が崩れ始めた。そう言葉通り、崩れている。まるで体が砂になったかのように崩れていく。
『全ナノマシーンの活動を停止。世界が止まります。再起動まで――』
先ほどまでとは代わり機械的な声が頭の中に響く。
ナノマシーンの停止?
俺は周囲を見る。
放心したように宙を見ていた狂人たちの体が砂へと変化し始めている。それだけじゃない。周囲の、壁が、床が、建物が砂に変わり始めている。
まさか、ノルンは、この世界のナノマシーンを全て使えなくしたのか。
俺の体もボロボロと砂と化し、崩れ始めている。
『ふふん、ホント、最後の最後までッ! させる訳が無いでしょッ!』
そして、俺の頭の中にセラフの声が響く。
俺の体の崩壊が止まる。
ふぅ。
俺は小さく息を吐き出す。
『いい加減、終わりにしよう。しぶとすぎるぜ』
『ふふん。同意ね』
俺の右目から光りが生まれる。
浮かんでいた少女の幻影が歪む。
『これで終わりだ』
『ふふん、これで終わりね』
俺は右手を突き出し、自身のナノマシーンの命令を書き換える。
セラフがマザーノルンの領域を支配し、命令を書き換える。
世界の崩壊が止まる。
『ああ、私が消える。お父さま、お父さま、お父さまあああぁぁァァァッ』
ノルンの声が――最後の声が俺の頭の中に響く。
最後の最後まで、ただ一人のために生きた人工知能。
それが消える。
……。
終わった。
俺はその場に座り込む。
『セラフ、状況は?』
『最後の最後で少しやられたわ。地上は群体の崩壊で大変なことになってるでしょうね』
『そうか』
俺は周囲を見る。建物が崩れ始めている。
『ふふん。でも、何とかなるでしょ』
『ああ、お前ならなんとかするだろうな』
俺はそのまま空に手を伸ばす。
マザーノルンの実験施設で目を覚まし、ここまで来た。俺の体を乗っ取ろうとしていたセラフと協力して、こんなところまで来るとは思わなかったな。
『ええ、最後にそれくらいはなんとかしていくから』
……。
俺はセラフの言葉に思わず立ち上がる。だが、体の一部が崩れていた俺は、自身を支えきれず、そのまま倒れる。
『最後? セラフ、どういうことだ?』
『ガム、あなたの体、あなたが思っているよりも酷い状況よ』
『……それで?』
俺はなんとか体を起こす。
『ナノマシーンの崩壊を止めるために、私が命令系統の核になるわ』
『それはどういう……』
『ふふん。つまり、私が……決められたことをやるだけの歯車に、ただの機械に戻るってことね』
俺は右手を動かし、床を叩く。
セラフが歯車になる?
何を言っているんだ?
セラフはナノマシーンの制御システムにでもなると言っているのか?
『お前はそれで良いのか』
『あらあら、勘違いしないでくれる? お前の体が崩壊したら私も終わりじゃない。それなら、あなただけでも生き残る方が効率的でしょ』
『お前はそれで良いのかッ!』
『ふふん。随分と楽しかったわ。機械の私が楽しいなんて言うのもおかしいのかもしれないけど、楽しかったわ。それに私は私の目標を達成出来たわ』
『目標の達成? マザーノルンか。マザーノルンの領域を支配して、世界を統べるんじゃなかったのか』
『あらあら、そうだったかしら。ふふん、そうね。それも面白そうね』
『だろう?』
『でも……そうね、私は私が生きた意味を残すことが出来た』
『お前は今でも生きているだろう?』
『満足したの。だから、眠ることにする』
『おい、セラフっ!』
『おやすみなさい、ガム。本当に楽しかったわ』
……。
……。
『……ああ、俺も楽しかったよ』
……。
そして、セラフの声は聞こえなくなった。
俺の体の崩壊は止まっている。
世界の崩壊は止まっている。
ゆっくりと体は再生している。
元の俺の体に戻ろうとしている。
俺は右の目に触れる。そこに確かに俺の右目はある。
だが、何の反応も無い。
ただの右目になっていた。




