305 最弱の男40――「」
俺は右手に持ったナイフをくるりと投げ回し、左手で受け取る。そのままナイフを逆手に持って構える。綺麗なカーテシーを決めたメイド服の女が顔を上げる。その顔には何の表情も浮かんでいない。能面のように冷たく無表情な顔だけがあった。表情や目の動きから相手の行動を予測することは出来ないだろう。
次の瞬間、俺の目の前にメイド服の女の拳が迫っていた。俺はとっさに、構えたナイフでその拳を受け流す。硬い。まるで鉄にナイフを叩きつけたかのようだ。
俺は右の拳をメイド服の女の腹へと突き出す。カウンター気味に入った拳が女の体の中で衝撃とともに波紋する。俺はその感触に舌打ちする。
俺の勁が浸透していない!
人形だからか? いや、違う。衝撃が全て受け流されている。
メイド服の女が大きく足を上げ、そのまま振り下ろす。俺はとっさに左腕を上にして腕を交差し、その一撃を受け止める。腕がへし折れそうなほどの一撃。
強い、強すぎる。この女、武術に精通している。師匠と同等の強さ、まるで師匠を相手にしているかのような……。
メイド服の女がもう一度、足を振り上げる。俺は先ほどと同じように頭上で腕を交差し、身を守る。
さあ、このまま俺の防御を押し潰すように攻撃してこい!
その一撃を絡め取ってやる。
メイド服の女の振り下ろされた足の軌道が変わる。するりと俺の横を抜け、そのまま薙ぎ払われる。俺の体が吹き飛び、再び壁に叩きつけられる。
衝撃に体の中に溜めた空気が口から吐き出される。空気を求め、口がパクパクと魚のように動く。
俺の動きが読まれた?
と、その俺の目の前にメイド服の女の拳が迫っていた。その一撃をギリギリで躱す。俺はその拳を掴もうと手を伸ばす。だが、俺が捕まえるよりも早く、その拳は引き戻されていた。俺の動きが鈍っている? 衝撃と揺れに脳が障害を起こしている?
俺は血が流れるほど強く唇を噛みしめ、無理矢理、意識を覚醒させ、跳ね起きる。そのまま前へと踏み出す。
ギアを上げろ。
体中の血液を燃やせ。熱く燃やせ。
相手はこちらよりも格上だ。なりふり構っている場合ではない。
全てを出し切れ。
身を屈めた状態でメイド服の女へと突っ込む。その俺の前にメイド服の女の膝が飛ぶ。俺はその膝を肩で受け、逸らす。認めたくはないが、格闘戦ではあちらの方が上だ。俺の方が劣っている。俺がこのメイド服の女よりも有利な点は武器を持っているということだけだろう。
左手に持ったナイフでメイド服の女の首を狙う。
!
だが、その左手が動かない。何かに制御を奪われているかのように機械の腕九頭竜が反応しない。
なんだ?
何が起こった?
俺のその隙を狙い、飛んできたメイド服の女の肘をとっさに右手で打ち、逸らす。俺はそのまま踏み込み、メイド服の女と立ち位置を入れ替える。メイド服の女が壁を背にする。これで逃げ場はない。
俺は懐から乾電池を取り出し、親指で弾き、撃ち出す。メイド服の女はそれを知っていたかのように片手で受け止める。不意を突くことすら出来ない。
俺は左足を蹴り上げる。メイド服の女が上体を捻るように反らし、それを躱す。躱された、か。だが……。
俺はもう一度、乾電池を親指で弾き、メイド服の女の顔面を狙い撃ち出す。メイド服の女は躱せないと思ったのか片手でそれを防ぐ。
メイド服の女の視界が塞がれる。
俺は――俺が蹴り上げたのは攻撃するためだけでは無い。俺が狙ったのは、動かなくなった機械の腕が持っていたナイフだ。
ナイフが俺の前に落ちてくる。俺はそれを咥え、顔を振り、投げ飛ばす。それはメイド服の女が視界を隠していた腕を降ろしたのと同じタイミングだった。ナイフがメイド服の女の眉間に刺さる。
やったか?
いや、まだだ。
相手は人形だ。ナイフが刺さった程度では死なない可能性がある。
軽く飛び上がり、身を捻る。眉間に刺さったナイフを狙い、浴びせるような蹴りを放つ。ナイフが深く打ち込まれ、壁に刺さる。メイド服の女が昆虫標本のように壁に打ち付けられ、その動きを止める。
勝った、か。
……。
勝ったな。
強敵だった。何故、左腕が動かなくなったか分からないが、まずは勝利したことに安堵しよう。
これで障害は無くなった。ノルンの端末の支配が出来るはずだ。
俺は砂時計のような形状をした端末へとよろよろとした足取りで歩く。少し脳を揺らされすぎたのかもしれない。
ここで端末を支配して――と、そこで俺は背後から迫る殺気に慌てて振り返る。
そこにはメイド服の女が二体、立っていた。
何処に隠れていた?
いや、それよりも二体だと。
三姉妹だったとでも言うのだろうか。
一体でも苦戦した相手が二体だと?
勝てるのか?
俺は首を横に振る。弱気になれば戦う前から負けてしまうだろう。
この二体が先ほどのメイド服の女と同じ強さとは限らない。
……。
いや、それは楽観的すぎる現実逃避か。
俺の勘がこの二体は先ほどのメイド服の女と同じ強さだと告げている。
だが、それでもチャンスはあるはずだ。
鏡合わせのようなメイド服の女二体がスカートの裾を掴み、丁寧なカーテシーをする。次の瞬間には俺を挟み込むように蹴りを放っていた。
俺は大きく飛び退き、その蹴りを躱す。これは追い詰められるだろうな。だが、耐えてみせる。先ほど携帯食料を食べてエネルギーを補給したからか、もう少しで人狼化が出来そうな感覚がある。人狼化出来れば少しは違うはずだ。
とにかく今は耐える。
それだけだ。
「……つまり、最弱――」
風に乗った誰かの声。
俺は戦う。




