284 最弱の男19――「ハンデだ。俺は右腕一本で戦ってやるよ」
「あ、え、あ?」
困ったようにこちらを見るフラスコを無視して、俺は一気にアクセルを踏み込む。急発進するグラスホッパー号。その勢いのまま目の前のビキニ姿の筋肉女をはね飛ばす――はずがグラスホッパー号は動かない。
グラスホッパー号のタイヤが空転している。
『こいつ!』
この筋肉女は、その筋肉が生み出す力によってグラスホッパー号の動きを抑え込んでいるようだ。
『生身でクルマを止めるなんて凄い怪力だな』
『ふふん。多分、薬で強化しているんでしょ。機械化した反応がなく、薬物反応があるみたいだから』
俺はセラフの言葉に納得する。この馬鹿みたいな怪力は薬物によるものか。
「坊やがクルマを手に入れて勘違いしているようだから、そんな餓鬼にあたいが現実ってぇのを教えてやらないとねえぇ」
ビキニ姿の筋肉女の筋肉が膨れ上がる。ゆっくりとグラスホッパー号の車体が持ち上がっていく。どうやら、この筋肉女はグラスホッパー号をひっくり返すつもりらしい。
「はぁ。なんでいきなりこんな喧嘩腰なんだ? お前のせいなのか?」
俺は大きくため息を吐き、隣のフラスコを見る。
「い、言っている場合じゃ、なななな、ないですよ!」
助手席のフラスコは困った顔で分かり易いほどにうろたえていた。
『セラフ、グラスホッパー号は任せた』
『はいはい』
俺はグラスホッパー号から飛び降り、構える。右の拳を前に、左腕をぶらんと垂らす。
「餓鬼がなんのつもりだい? 土下座して謝るなら両腕を捻るだけで許してやるよ」
掴んでいたグラスホッパー号から手を離した筋肉女が真っ赤な唇を歪め、嗜虐に酔った笑みを浮かべる。
『またコレか。分かり易く舐められているな』
この少年のような姿が舐められている理由なのだろう。相手の力量を測ることも出来ず、外見だけで噛みついてくるような奴らばかりでうんざりする。
『ふふん。お前に凄みが足りないからでしょ。まるで平和な国からやって来たように間抜けな顔をしているもの』
セラフは楽しそうに笑っている。俺は大きくため息を吐き、筋肉女を見る。
「ハンデだ。俺は右腕一本で戦ってやるよ」
俺は機械の腕九頭竜を使うつもりは無い。左腕をだらりと垂らしたまま、右手をちょいちょいと動かし挑発する。
「餓鬼が。舐めてると潰すぞ!」
激昂した筋肉女が両手を広げ、のしかかるように掴みかかってくる。
『背のある奴はどいつも同じだな』
俺は右手で筋肉女の手を払い流し、その懐に入る。そして、そのまま筋肉女の腹部に肘を叩き込む。
「は! 姐さんの鍛え上げられたボディにそんなひょろい一撃が効くかよ!」
いつの間にか集まっていたギャラリーたちが解説をしてくれている。
俺は慌てて、無という顔で動かなくなっている筋肉女から大きく飛び退く。あのまま懐に入っていると大変なことになるからな。頭上注意だ。
俺が大きく飛び退いたと同時に筋肉女の頬がうっと膨らむ。そのままエレエレとお腹の中にあったものを吐き出す。
『何をしたの?』
『人の体の殆どが水で出来ているってお前なら知っているだろう? それはどれだけ筋肉を鍛えたとしても変わらない。それを少し揺らしてやっただけだ。本来は掌で勁を叩き込むんだが、別に肘でも出来ないことはない』
『お前が何を言っているのか分からないことだけは分かったわ』
セラフは呆れたような声でそんなことを言っていた。
俺は欠伸を噛み殺しながら、筋肉女が復活するのを待つ。
「あ、あ、あが」
意識が戻った筋肉女が口の汚れをゴシゴシと拭き、こちらを睨む。復活まで一……二秒というところだろうか。
『ヌルいな』
数百万コイルクラスの賞金首と比べる方がおかしいのかもしれないが、化け物のような連中と比べれば、この筋肉女はただ怪力なだけだ。俺の相手ではない。
「こ、この餓鬼が! お前なんか掴んでしまえば!」
俺は大きくため息を吐く。自分の望むとおりになれば有利になるのは当然だろう。何々なら、なんて言い始めたら終わりだ。
「分かった。掴めよ」
俺は肩を竦める。
再び分かり易く激昂した筋肉女が俺に掴みかかってくる。早い。なかなかの素早さだ。見れば分かるほど膨れ上がった筋肉という加速装置を持っているのだから、動きが早いのも当然だろう。
筋肉女が俺の両肩を掴む。
「このままねじ切ってやる!」
筋肉女が力を込める。
力の流れ。
俺はその一瞬で跳び上がり、下から上に蹴り上げる。俺の蹴りが筋肉女の顎を小さく揺らす。俺の両肩を掴んでいた筋肉女の手が離れ、ゆっくりと後ろに倒れる。筋肉女は白目を剥いて倒れていた。
『あら? 右腕一本で勝つんじゃなかったのぉ?』
セラフがこちらを馬鹿にするように笑っている。
『あまりにもレベルが低すぎて、面倒になっただけだ』
俺は周囲の男たちを見回す。誰もが大きく目を見開き、驚いた顔のまま固まっている。
これで俺の勝ちだ。セラフはこの女が生身だと言っていた。生身なら俺の学んだものがいくらでも通用する。この結果は当然だろう。
「それで? 他に文句のある奴はいるのか?」
俺がとりあえず近くの男を睨むと、そいつはすっと目を逸らした。
「俺は、クルマから降りている。今なら余裕なんだろう?」
クルマを手に入れて、その力で調子に乗っている、そんな誤解は解かねばならないだろう。
俺は両手を広げる。
「全員でもいいぞ?」
俺がそこまで言っても男たちは動かない。
『あらあら。いくらお前でもさすがに全員はキツいと思うけど?』
『その時は左腕も使うさ』
『あらあら』
セラフは楽しそうに笑っている。
俺はもう一度男たちを見回す。
その男たちが両手を挙げる。
「ま、まいった」
「降参だ」
「降参だぜ」
「許してつかーさい」
男たちが降伏する。
どうやら俺と戦いたいと思うほど元気のある奴は、もう、ここにはいないようだ。




