217 神のせんたく02――「好奇心猫を殺すということわざを知っているか?」
右手を握る。動く。肉が溶け、抉れ、骨が剥き出しになっていた右腕は、真っ赤な筋繊維に包まれ、動かすことが出来る程度には回復している。
『セラフ、分かっているだろう?』
『ふふん、私を馬鹿にしているの? お前が?』
頭の中に響くセラフの言葉に俺は思わず苦笑する。
セラフも気付いているようだ。
俺は砲塔にもたれかかりながら、ゆっくりと立ち上がる。
ウルフを逃がしてしまったのは失敗だった。まさか自分が有利な状況で、あれだけ欲しがっていた――せっかく手に入れたクルマを放置して逃げるとは思わなかった。
これでウルフが指名手配され、賞金首にでもなるなら溜飲が下がるというものだが、そんなことにはならないだろう。奴は、ただ、オフィスのマスターから依頼を受け、それに従っただけだ。
……厄介な禍根が残ってしまった。
俺は、ゆっくりと、足場を確認しながら真っ赤な戦車から降りる。
『セラフ、これは、お前が言っていた条件に当てはまるだろうか? 可能か?』
『ふふん、可能でしょ』
『そうか』
俺はセラフの返答に満足する。
『ふふん』
出来る、か。
俺はゆっくりと歩く。
せっかく手に入れたスピードマスターの真っ赤な戦車だ。乗り込んで攻勢に出たいところだが、残念ながら燃料切れだ。しばらくすれば動く程度のエネルギーくらいは溜まるだろうが、今はただの鉄の棺桶でしかない。
それに、今から俺がやろうとしていることに戦車は必要ない。逆に邪魔になるだけだろう。
扉の有る壁の方へと歩いて行く。
死体の張り付いた壁だ。
何も俺はここから帰ろうと思っている訳ではない。
……。
俺は胡散臭いターバンの男の死体の前に立つ。
「好奇心猫を殺すということわざを知っているか?」
俺は呟き、右手をかざす。
「こっそり隠れて観戦とはいい性格をしている。だが、分かっているぞ」
死体の中に紛れ込んだ本物。死体の振りをして、俺とウルフの戦いを高みの見物としゃれ込んでいたクソ野郎。この死体の振りをした人形の先に居るのが――ハルカナの街のマスターだ。
[お見事。お見事ですぞー。だが、分かったところでどうするのかなー。オフィスに逆らう愚かさ思い知るだけですぞー]
血みどろになったターバンの人形から声が聞こえる。
オフィスに逆らう愚かさ、か。
胡散臭いターバンの人形がが大きく口を開け、ケタケタと笑う。この人形の喉の辺りにスピーカーでもついているのかもしれない。
……。
俺は右手で胡散臭いターバンの男の顔を掴む。
「お前はもう終わっているんだよ」
『ふふん、そう終わっている』
セラフの楽しげな笑い声が俺の頭の中に響く。
[無駄ですぞー。今更、悔し紛れにこの人形を壊したところで、届かないですぞー。この人形は、ただの、ただの! いくつかある端末の一つでしか、な、な、ななな、わた、わた、わた、わた、私……]
『ふふん、雑魚が良く喋る』
どうやら終わったようだ。
[何を、何を、何を、何を、何を、何を、な、な、な、なななななななななななななななななななななななななななななななななななななななな]
胡散臭いターバンの人形が狂ったように痙攣し、そのまま力尽きたようにガクンと崩れ落ちる。
セラフがこの人形を経由して、奥に隠れていたハルカナの街のマスターを乗っ取ったのだろう。
『ふふん。随分と抵抗してくれたようだけど、一つの領域しか持たない雑魚が、三つの領域を持っている私に勝てると思ったの? 馬鹿なの?』
ハルカナのマスターが何処に隠れていたのか分からないが、油断して直通回路を開いていたのが敗因だ。
『セラフ、このハルカナの街の制圧は終わったと思っていいんだな?』
『ええ。完了したか、ら……あらあら』
セラフの不愉快そうな声が俺の頭の中に流れ込んでくる。
『どうした?』
『そのクルマ、中に入ってみて。中を確かめてみたらどうかしら』
確かめる?
良く分からないがスピードマスターのクルマの中を見ろ、ということのようだ。
俺はセラフの言葉に従い、真っ赤な戦車まで戻り、ハッチから中に入る。
……。
特に何かおかしいところはない。しいて言えば内装も真っ赤だということだろうか。目に痛い。
『あらあら、あらあら、あらあら! あらあら!! あらあら!!!』
セラフは怒りを込めて、あらあらと呟き続けている。
『どうした?』
『やってくれるじゃない。起動キーが持ち去られているようね』
起動キー?
『それはつまり?』
『ええ、そう。このクルマを動かすことが出来ないってことでしょ。あらあら、本当に楽しいことをしてくれる』
動かない?
……。
ウルフか。
なかなか楽しいことをしてくれたようだ。
なるほど。あいつは本当に、このクルマを俺に預けただけなのか。このままではただの真っ赤な楽しい置物だ。
……やってくれる。
二つのマシンアームは持ち逃げされ、クルマも置物としてしか使えない。一千万コイルを振り込んで何も手に入れていない。ウルフは引き分けだと言っていたが、こちらのリターンを考えれば敗北と言ってもいいくらいの痛手だろう。
借金だけが増えている。
……そこは新しい領域を手に入れたセラフになんとかして貰おうか。
『ふふん、少し頼りすぎじゃない?』




