201 機械の腕36――『任せろ。任せたから、任せろ』
「雑魚が、準備は終わったのか、雑魚」
筋肉の塊のようなコックローチが拳と拳と叩き合わせ、こちらを威嚇する。
「ああ、待たせたな」
俺はナイフを構える。
次の瞬間、俺の体が吹き飛んでいた。
な、な、んだと。
俺の視界に拳を振り上げたコックローチの姿が映る。殴られた?
いつ?
見えなかった?
すぐに空中で体勢を整え、着地する。
不味いな。顎が砕けたようだ。口が開き放しになり、口から血がだらだらとこぼれ落ちている。
『ちょっと』
セラフの慌てたような声――そして、俺の目の前にコックローチの拳が迫る。
速いッ!
だが、見えている。俺は上体を反らし、コックローチの拳をギリギリで回避する。俺の目の前を拳が通り過ぎ、その風圧だけで顔の皮膚が揺らぎ、波を打つ。
鍛えに鍛え、無駄なく作り上げられた筋肉が生み出す爆発力――まるで暴走機関車だ。
力強く、速く、そして早い。
俺は大きく後ろへと飛び退き、顎の血を拭う。
と、そこに拳を構え、身を屈めたコックローチの巨体が迫る。俺の左腕が勝手に九つの指に分かれ、うねりながらコックローチに襲いかかる。
コックローチが身を屈めたまま鋭いジャブを繰り返し、鞭のようにしなり襲いかかっている九つの指を弾き返す。
パシン、パシンという音とともに空気が揺らいでいるかのような錯覚すら覚える鋭いジャブが飛び交っている。その動きが徐々に見えなくなっていく。
速い。
人の筋肉はこの領域まで辿り着けるのか。
『セラフ』
『どうするつもりなの、このまま死ぬの? 馬鹿なの?』
セラフが触手のように分かれたマシンアームで時間を稼ぐ。
「雑魚が! また時間稼ぎか? さっき骨を砕いたはずだが、どうやった? 薬を使ったようには見えなかったがなぁ!」
俺はナイフを持った右手に力を入れる。
バレている、か。不要な情報を与えてしまったようだ。
九つの指がヒュンヒュンと音を立て、まるで左腕が消えたかのような速度で攻撃を繰り返す。だが、その全てが弾き返されている。
奴の動きが見えない。目で追えないほどの速度。目の筋肉が、動きが追いつかない。
奴の動きが分からない。奴の視線、筋肉の動き、思考――全て読めない。まるで奴は他のことを考えながら、攻撃しているような、そんな錯覚に陥る。
動きの導線が見えない。
無拍子のようなモーションが無い攻撃とも違う、思考の外から――俺が予想した攻撃の軌道の外から、ただ速いだけの一撃が飛んでくる。
どうなっている。
コックローチは足を止め、俺の左腕の攻撃を捌いている。だが、どうやっているのか、見えない、分からない。
「雑魚が、邪魔くせぇな、雑魚が、雑魚が、雑魚がよぉ!」
コックローチが顔を歪め、叫んでいる。感情を剥き出しにしたかのような叫び。だが、そうあろうと演技しているだけのような――そこに奴の意思を何も感じない。
どうなっている。
まるで意思を持たない機械を相手にしているかのような感じだ。
『あれは……』
『生身で間違いないから。ええ、おかしい、おかしいんだから。生身のはずなのに、どうなっているの! 私にバグが……いいえ、あり得ないから。これはなんなの!』
セラフが困惑している。
人工知能ですら自分が間違っているかと疑ってしまうほど、信じられない存在……か。
俺は左腕の制御をセラフに任せ、ゆっくりと一歩ずつ前進する。
足を止め、俺の左腕からの攻撃をしのいでいるコックローチへとゆっくり近寄っていく。
『セラフ』
『……分かっているから』
そのまま右手に持った血のついたナイフを突き出す。
ゆっくりと動く。
確かな感触。
そのまま血のついたナイフをねじ込む。
「お、お、お、お、お、お、おぉ!?」
コックローチの呻くような声――奴の脇腹に俺のナイフが刺さっている。
ナイフを持った手に力を入れる。だが、動かない。ナイフの刃が奴の筋肉によって押え込まれている。
だが、刺さったのは間違いない。
『セラフ』
『……駄目ね。ただの生身みたい』
生身?
俺は筋肉の鎧に挟まれたナイフから手を離し、大きく飛び退く。
ガロウのようなナノマシーンの集合体ではない? 俺の血で、俺の体を使ってナノマシーンの命令を狂わせる作戦は無駄だったのか。
では、どうやって再生した?
『分からない。本当になんなの!』
セラフが困惑している。
服まで再生したんだぞ。
まさか、本当に双子か何かなのか?
今のコックローチは神の雷で倒したコックローチとは別人?
分からないな。
コックローチが自身の脇腹に刺さっていたナイフを引き抜く。筋肉で傷を閉じているのか、血すら流れない。
そして、次の瞬間には俺の目の前にコックローチが立っていた。俺は慌てて飛び退く。その目の前をコックローチの拳が唸りを上げ、通り過ぎる。
『生身なんだよな? これで生身だと』
見えないほどの速さ。
だが、生身だ。
動かしているのは筋肉だ。
集中しろ。
そうだ、生身だ。
見えなくても見えるはずだ。
俺は息を吸い、大きく吐き出す。
その俺の目の前に拳が迫る。顔面を大きく殴られ、顔が弾ける。その痛みに耐え、踏ん張る。首は繋がっている。
まだだ。
まだ、甘かった。
精神を研ぎ澄ませ、集中しろ。
コックローチの次の拳が迫る。躱せる。
分かっている。
その拳が俺の左頬を掠めていく。頬が裂け、再生していた顎が再び砕ける。
……これでは喋ることも出来ないな。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ」
息が荒くなる。
呼吸を整えろ。
体中に酸素を取り込め。
血液を循環させろ。
全身で、体を全て使って集中しろ。
来たッ!
奴の右ストレートが俺の横を抜ける。
躱した?
躱せた?
次の瞬間、奴の蹴りによって俺の体が吹き飛んでいた。分かれた左腕が動き、地面を掴み、耐え、俺の体を着地させる。
まだ、足りなかった。
コックローチが迫る。
左腕がコックローチの攻撃から身を守るように動く。
『セラフ』
『何?』
『任せろ。任せたから、任せろ』
『ふふん』
左腕の動きが止まる。
見えないものを見ろ。
生身の奴の体を動かしているのは筋肉だ。
筋肉を信じろ。
迫る奴の拳を躱す。
次の拳も躱す。
蹴りを躱す。
視界が灰色に染まり、全てがゆっくりと、世界が、時間が止まったかのような静寂に包まれる。
集中。
躱す。
右の拳で掌打を放つ。筋肉の鎧に防がれる。
奴の拳を、蹴りを躱し、パシンパシンと掌打を浴びせる。
動きを小さく。
動きをコンパクトに。
追いつけなくなる。
もっと、最小限の動きで。
躱し、躱す。
コックローチが何かを呟いている。
……。
第六位、王子? 悪? 何を言っている?
いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。
集中しろ。
掻き乱されるな。
俺は掌打を放ち、衝撃を奴の体内へと浸透させる。奴の体は筋肉の鎧に覆われている。ただ殴っても通じないだろう。ただの打撃で何とかするのは無理だ。
関節技は? 難しいだろうな。筋肉という力の暴力で跳ね返されるか、そもそも体格差で関節を極められないだろう。
だからこそ、俺は掌打を選ぶ。衝撃を体内へと送り込む。
躱し、なんとか隙を突き、掌打を放つ。
衝撃を奴の体内へとため込ませる。
少しだけ奴の動きが鈍る。
少し、ほんの少しだ。だが、効いている。
……。
しかし、これでは倒せないだろう。
鈍ったと思った動きが、その次には元に戻っている。
俺の掌打はほんの少し、そう、ほんの少しだが効いている。だが、奴の筋肉の方が優れている。回復している。ダメージの蓄積量よりも回復力の方が勝っているようだ。とはいえ、生身だ。
このまま続けることが出来れば勝てるかもしれない。
……。
無理だな。
だが、俺の体力が持たないだろう。一撃でも食らえば、俺の動きは止まる。一撃の重さが違い過ぎる。脳が焼け切れるほど集中して、やっと攻撃を回避し、次に繋げている。そんな状態がいつまで続けられる?
持久戦ではこちらの方が分が悪い。
……。
『ふふん』
セラフの声が俺の頭の中に響く。
俺は大きく飛び退く。
そして、空から光が落ちてくる。
俺をも巻き込む天からの一撃。
光がコックローチを飲み込む。
『グングニルの一撃、どうかしら?』
『どうだろうな?』
光の衝撃波が、俺の皮膚を、体を焼く。この体、無事では済まないだろう。
だが、光の中心に居るのはコックローチだ。
地上殲滅用衛星端末グングニル。その一撃、耐えられるか?
200? 200!




