150 首輪付き37――「ラッキー……だった……よ」
『セラフ、アレが見えるか?』
『はぁ? 何?』
セラフの返事は予想通りのものだった。
『セラフ、もう一度だけ聞く。鉄格子の向こうに何が見える?』
『だから、何を言っているの? ついに頭がおかしくなったの?』
鉄格子の向こうには俺が殺したはずの女が立っている。だが、セラフにはその姿が見えていない。
『俺には鉄格子の向こうに女が見える。俺が決闘場で殺したはずの女の姿が見える』
『だから、何を言っているの? そんなものが見えるなんてやっぱり狂ったの?』
セラフは俺を馬鹿にしたよう声で喋っている。やっぱりとはどういうことだ。
……セラフには見えていない。
俺が見ている、この女は亡霊なのか?
殺した俺を恨んで現れたのか?
……。
まさか、だな。
『セラフ、お前はどうやってものを見ている? 光か? 熱か? 音か?』
鉄格子の向こうの女が指を、自身の口元へと持っていく。静かに、とでも言いたいのだろうか。
『それが、何?』
人は目というレンズに光を通してものを見る。そう、目で物を見ている。だが、それ以外でも物を見ている――ものがある。
この女は俺にだけ見えて、セラフには見えていない。まさしく幻覚だ。
『セラフ、どうやら幻覚が見えるようになったらしい』
『はぁ? それはご愁傷様』
幻覚の女が鉄格子に手をかけ、そのままそれを開ける。そして、通路の奥を指差す。
なるほどな。逃げろ、と。
俺は口の中に入れていた苔を吐き出し、足に力を入れる。そして、踏み出す。その一手で女の幻覚との間合いを詰める。女の腹を狙い拳を突き出す。だが俺の拳は何も無い空間を抜ける。
まるで映像か何かが浮かんでいるようだ。
幻覚の女は通路の奥を指差したまま固まっている。
俺は大きくため息を吐き出す。
消えない、か。
『セラフ、俺の脳波とか脳の動きとかを見ることは出来るか?』
『はぁ? 誰に言っているの? この会話だって脳の信号を利用して……待って、これ』
そういうことなのだろう。
人は目だけではなく、脳でものを見る。あの女に完全にしてやられた、ということだろう。
そして、この状況――あの女は間違いなく生きている。ここの連中は首を飛ばしたくらいでは死なないような奴らばかりで嫌になる。
『十秒だけ体の支配権を貸して。焼き切るから』
『はいはい、そういうのは任せた。だが、三秒でやってくれ』
『ふん、わかったわ』
セラフに体を任せるのは不安だが、俺自身の力で対処が出来ない問題なのだから仕方ない。
後頭部にチクリとした痛みが走り、幻覚の女の姿が消える。きっちり三秒か。出来ないとは言わなかったから当然か。十秒の猶予を与えていたら、その間に何をやっていたのやら……。
……。
俺は通路の奥を見る。
女が指差していた先に――あの女が何者なのかは分からないが、とりあえずは牢から出るのが先か。ああ、そうだな。元々の予定通りだ。
通路を歩いて行く。
と、その俺の前に立ち塞がるものが現れる。
「待つのであーる!」
口髭の男だ。首回りまでしっかりと閉じた軍服を着込んだ、いかにも看守という男だ。その後ろには仮面を着けた巨漢も立っている。
「またお前らか」
「どうやって牢を抜け出したのだ!」
口髭の男が威圧するようにこちらへと手を伸ばし、喚く。
「鉄格子が開いていたからだろう? そんなことも分からないのか?」
「六号! その口の利き方、自分の立場が分かっていないようであーる!」
口髭の男が自慢の口髭を撫で、笑う。
次の瞬間、俺の両手両足に強烈な重みが加わる。
「ぐおぉぉぉ」
「ふむ。耐えるかね。もっとだな!」
さらに重みが増す。立っていられない。俺の体が、手が、足が、地面に縫い付けられる。動かすことも出来ない。
「さあ、こやつを牢まで運ぶのだ!」
口髭の命令に応え、仮面の巨漢がのしのしと俺の方へ歩いてくる。近寄ってくる。
ふぅ。
「ラッキー……だった……よ」
「六号、何を言っているのであーる」
口髭の男がニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。
「牢が開いていたのは幸運だったって言ってる。ここで切り札を切れるからな!」
俺は体に力を入れる。
俺は獣の咆哮を上げる。
俺の力――
俺の体が黒い体毛に覆われていく。服が弾け、体が大きく膨れ上がっていく。
人狼化。
俺の切り札だ。
「な、な、な、なんなんですー!」
口髭の男が怯えた顔で叫ぶ、叫んでいる。
さらに体にかかる負荷が増える。だが、この程度。
腕輪を弾き飛ばす。大きく伸びた爪で足の輪を切断する。だが、それでも体にかかる負荷は消えない。まだ効果が残っているようだ。
古ぼけた牢の通路を踏み砕き、一歩、また一歩、前へ足を踏み出す。
「そ、そやつを、は、早く!」
「うががああああ」
仮面の巨漢が叫び、両手を挙げて掴みかかってくる。
近寄ってくれて助かるよ。
爪を振るう。
切り裂く。
切って、切って、切って、千切って、引き裂き、切る。
仮面の巨漢が血しぶきを飛ばし倒れる。
あっけない。
見かけ通り、力だけが自慢だったようだ。
俺は大きく牙の生えた口を開け、笑う。
血。
肉。
重さなど、負荷など、この力の前には関係ない。
飛ぶ。
口髭の男が尻餅をつき、そのまま這いずるように逃げる。
俺は口髭の男の前に着地し、大きく伸びた爪を振り上げる。
「待って、待って、待ってください」
口髭の男が泣き叫び、慌てて自分の服を首元まで止めていたボタンを外し、それを見せる。
――奴隷の首輪。
「ほら、ほら! お、俺も奴隷だ。奴隷なんだ。命令で仕方なく、この役目を、仕方なくなんだよ! そういう役だったんだ! 助けてくれ!」
なるほど。
そういうことか。
こいつの言動が芝居がかったものだったのは、そういうことか。
だが……。
俺は爪を振り下ろす。
だが、お前はその立場を楽しんでいただろう?




