84話 自覚なき優しさ
カッタッタに抱え上げられ、足が宙に浮くベルンハルトだが、その表情に緊迫感なんてものは存在していなかった。むしろ、直前までより余裕が生まれているような感じさえする顔つきだ。
そんな余裕を見せるベルンハルトとは対照的に、カッタッタは必死の形相。
追い込んでいる側のはずなのに追い込めている気がしない、という状況に、苛立っているようにも見える。
「おい、アンタ! 強がるのもいい加減にし——」
「ふっ」
「ぎゃっ!」
カッタッタが発する言葉を最後まで聞くことなく、ベルンハルトは、カッタッタの鳩尾へ踵で打撃を加える。
予期せぬタイミングで打撃を食らったカッタッタは、短い悲鳴と共に、ベルンハルトから手を離した。そして、そのまま床に倒れ込み、眉をピクピクと微動させる。
素人の私でも、よほど痛かったのだな、と察することができた。
強烈な一撃を食らわせたベルンハルトは、床に着地すると、その場でゆっくりと立ち上がる。
それから、冷たく言い放つ。
「まだ続けるか」
押さえ付けられていたことによる疲労もあるだろう。
しばらく捻られ続けていた腕には痛みもあるに違いない。
けれども、今のベルンハルトの様子から、それらを察することはできなかった。
「どうする」
夜の湖畔のように静かな表情に、感情を感じさせない淡々とした声。それらは、ベルンハルトの今の状態を、見る者に教えてはくれなかった。
彼とて不老不死の身ではない。だから、ダメージはあるはずなのだが。
「う……く、くそ……」
鳩尾を踵で強打されたカッタッタは、まだ立ち上がれそうにない。
打撃を食らってから一二分は経っている今でも、まだ、床に伏せたまま全身を震わせている。
肉弾戦なんてものを経験したことがない私には、今カッタッタがどのくらい苦しい状態にあるのかは理解できない。が、その様子を見ていると、ある程度想像はつく。
「どうするんだ」
「う……うぅ……」
「継続するのか」
「くそ……ギブ……アップ……」
刹那、声が飛ぶ。
「カッタッタがギブアップ! よって、ベルンハルトの勝利!」
それを聞くや否や、私は思わず声を発してしまう。
「やった!」
私が勝ったわけではないというのに、まるで自分が勝ったかのような嬉しさが込み上げてきた。
今はただ、純粋に、ベルンハルトの勝利が嬉しい。
「これで終わりだな。では、失礼する」
ベルンハルトは静かながらはっきりとそう述べ、くるりと身を返すと、私の方へと歩いてきた。
「イーダ王女、これで問題なかっただろうか」
「素晴らしいわ!」
勝利があまりに嬉しくて、思わず、ベルンハルトに抱き着いてしまった。
「な、何だ。どうしたんだ」
「最後は華麗な勝利だったわね! 見惚れてしまったわ!」
一時はどうなることかと思ったけれど、ベルンハルトの強さは本物だった。
相手の知り合いが多いというやや不利な状況下で、しかも、押さえ込まれ続けるというあまり嬉しくない展開。けれども、最後には逆転を見せてくれた。それには感謝しかない。
「本当はもう少し早く終わらせるつもりでいたのだが……」
「いいのよ! 勝ったんだもの!」
「そういうものなのか……」
「えぇ! もちろんよ!」
ぎゅっと強く抱き締めると、ベルンハルトの胸の鼓動が聞こえてくる。
温かく愛おしい、彼の拍動だ。
「ところでイーダ王女」
「何? ベルンハルト」
「その……離してはもらえないだろうか」
気まずそうな顔をしつつ述べるベルンハルト。
「どうして?」
「周囲からの視線が痛いのだが」
なるほど。
そう納得し、私は彼から離れた。
本当はもう少し抱き締めていたかったのだが、彼に嫌な思いをさせてまで抱き締めていたいとは思わない。
ちょうどその時、カッタッタがやって来た。
「勝負してくれてありがとな!」
そう言って、彼は手を差し出す。
警戒心に満ちた表情のベルンハルトとは対照的に、カッタッタは爽やかな表情を浮かべている。
「握手しようぜ!」
「断る」
「熱い戦いを繰り広げた仲だろ。握手しようぜ!」
「断る」
「くっそぉぉぉ!!」
握手を希望したもののばっさりと断られてしまったカッタッタは、頭を抱えて絶叫していた。
「ロックンロールパフェ奢るから! な? 握手しようぜ!」
「断る」
「じゃあボサノヴァパフェならどうだ!」
「わけが分からない。断る」
「くっそぉぉぉぉぉっ!!」
……なぜ同じことを繰り返すのだろう。
似たようなことを二度も行うなど、無意味だとは思わないのだろうか。非常に謎である。
その後、私とベルンハルトは修練場を出た。
「お疲れ様、ベルンハルト」
ゆったりと歩きながら、すぐ隣を歩む彼に労いの言葉をかける。
「……これで貴女の株が上がれば良いのだが」
「そんなことを考えてくれていたの? ベルンハルトったら、優しいのね」
「優しくなどない。ただ、従者が主の評価を下げることは許されないと、そう思うだけだ」
当てはないが、私たちは歩き続ける。
私は、できるなら、二人だけでいられる今この瞬間を大切にしたい。
大勢で過ごすのも楽しいことだが、時にはこうして、静かに語らうことも必要だと思うから。
「やっぱり優しいじゃない」
「いや、それは間違いだ。僕が優しいはずがない」
「優しいわよ。気がついていないだけで」
「そんなことはあり得ないと思うのだが……」
ベルンハルトは気づいていないのだろう。彼の中にある、大きな優しさに。
他人から見れば容易に分かっても、本人にはなかなか分からない——そういうことも、世にはある。
「……いつかきっと気づくわ」
「そういうものなのだろうか」
「えぇ。そういうものよ」
こんな穏やかな時間が、いつまでも続けばいいのに。私は、心からそう思った。
一歩ずつ、一歩ずつ。
少しずつ、少しずつ。
これからも、手を取り合って歩んでいけたなら——。




