71話 いや、おかしい
整備されていない、砂利だらけの地面。
灰色のかなり古そうな建物。
今私たちがいるCエリアは、第一収容所の中でも、特に薄汚い場所だった。
隣にいるベルンハルトは、かつてここで暮らしていたからか、さほど何も感じていないような顔をしている。
それとは対照的に、リンディアとアスターは、渋柿をかじってしまったかのような顔つきをしていた。この場所に馴染みがないため、複雑な心境になっているものと思われる。
「怪しーところねー」
「まぁ、収容所だからね。怪しいのも無理はない」
「……それもそーね」
リンディアとアスターがそんな風に話していても、ベルンハルトは話に加わろうとはしなかった。ただ、じっと前を見据えているだけである。
そんなベルンハルトの様子を観察していた時だ。
道の向こうから、何やら、ぱたぱたじゃりじゃりという足音が聞こえてきた。
「お前、また失敗しただろう!」
「うわぁーん! ごめんなさーい!」
足音に続いて耳に飛び込んできたのは、二種類の声。
威圧的な雰囲気のある男性の声と、おっとりした感じの少女の声である。
「何事ですか? クリタヴェール」
「アァ、アレハイトゥモノクォトナノデ……ホウッテオイテェクダサイ」
「そうですか」
「ムガイナクォムスメデス」
唐突なことに警戒するシュヴァルと、いつものことと適当に流すルンルン。二人の様子は対照的だった。
「お願いしますぅー! 許して下さいー!」
「待てェッ! 取り敢えず止まれェ!」
——と、その時。
視界に、全力疾走する二人の姿が入った。
追われているのは、少女。
やや赤みを帯びた濃い茶色をした髪は、肩辺りまで伸びている。軽くウエーブがかかっていて、暗い色にもかかわらず柔らかな毛質に見える。
愛らしい雰囲気を持つ少女だ。
そんな彼女を追いかけているのは、男性。
角刈り以外にこれといった特徴のない、極めて普通な男性である。説明できる点を敢えて探すとしたら、昆布色の服を着ている、くらいのものだろうか。
「逃げるなァ!」
「怖いですよぉーっ! ……って、あっ!」
昆布色の服の男性から走って逃げていた少女は、私まで数メートルという辺りまで来た時、なぜ急につまずいた。
こちらへ倒れ込んでくる。
このままではぶつかってしまう——そう焦った、が。
「イーダ王女!」
ベルンハルトが咄嗟に動き、倒れ込んできた少女から私を庇ってくれた。
「はわっ」
少女は可愛らしい声を出しながら、ベルンハルトの胸元へ額から突っ込む。それによって、結果的に、ベルンハルトが少女を抱き留めるような形となった。
それから数秒経って、少女は顔をゆっくりと持ち上げる。
「あ、あの……すみませんっ!」
大慌てで謝罪する彼女の瞳は、琥珀のような色をしていた。あまり見かけない色みではあるが、こうして見ると、結構綺麗だ。
「走るな。危険だ」
「は、はいっ! 申し訳ありません!」
「気をつけろ」
ベルンハルトは淡々と警告する。
すると、少女の瞳の奥に潜む瞳孔が、明らかに大きくなった。
「は、はいぃ……失礼しました……」
なぜだろう。少女は歪だ。
彼女は一見、ベルンハルトに警告されたことで落ち込んでいる風だ。声も小さくなっているし、身を縮めているから、そう感じるのだろう。
しかし、その一方で、表情は直前までより輝いているように感じられる。
広がった瞳孔、恥じらいが表出した顔面、そしてほんのり赤らんだ頬。そのすべてが、ベルンハルトにぶつかった後に生まれたものだ。
見ている側からすると、何とも言えない複雑な心境である。
……いや、おかしい。
少女はベルンハルトに謝罪していただけ。ただそれだけで、それ以上のことなんて何もない。にもかかわらず、その光景を見て私は複雑な心境になった。
……なぜ?
「コラァ! やっと止まったな、この小娘がァッ!」
少女が穏やかな表情になっていたのも束の間。彼女を追いかけていた男性が、追いついてきた。
「ひえぇぇぇーっ」
昆布色の服をまとった男性は、少女に追いつくや否や、彼女の片手首を掴んで、ぐいと引っ張る。
「またしても配り間違えるとは、どういうことだァ!」
「ふわぁー! ごめんなさいぃぃぃー!」
手首をがっしり掴まれた少女は、半泣きになりながらジタバタしている。しかし、少女が少し体を動かした程度では、男性の手から逃れることはできない。
「118から121にはロールケーキパンじゃないって、何度言ったら分かるんだァ!」
「ふぇぇぇー! そ、そうなんですかー!?」
「もう三週間近く言い続けてるだろォが!」
「すみませんー!」
目の前で騒ぐ、少女と男性。
しかし、こちらからしてみれば、何を騒いでいるのやらまったく分からない。
「クリタヴェール、止めなさい。星王様の目前で騒ぐ愚か者を制止せぬなど、無礼にもほどがありますよ」
「ハ、ハイ! モウスィワケアリマセン!」
シュヴァルに冷ややかな声をかけられたルンルンは、慌てたように言葉を返しながら、ペコペコと何度も頭を下げる。
そして、それから数十秒ほど経過した後、騒いでいる男性と少女に向けて言い放つ。
「サワグノハヤメナタイ!」
非常にユニークな容姿に似合わない、真面目な声だった。
いきなり強く注意され、男性と少女は黙る。
「オウタマノムァエデソンナコトヲスルナンテ!」
厳しく述べるルンルンに、少女は頭を下げた。
頭部が動くたび、赤みを帯びた髪がふわりと揺れる。触りたくなるような柔らかな揺れが印象的だ。
「す、すみませんー」
「所長! 配膳ミスをしたこいつが悪いのです!」
「ふぇ……」
「お叱りになるなら、この娘をお叱り下さい!」
何やら騒々しい。
それに、こんな愛らしい少女に責任を押し付けようとするなんて、何て嫌な男性だろう。
昆布色の服を着た男性の行動は、私には理解できなかった。
「トニカク、ココカラスァリナサイ!」
「は、はいー」
「承知しました」
ルンルンの命に従い去っていく——のかと思いきや、少女はくるりと身を返して、私の方へと駆け寄ってきた。
「ごっ、ご迷惑おかけしてすみませんでしたっ」
「え。私?」
「先ほど、ぶつかりそうになってしまいましたよね!?」
少女の琥珀のような瞳が、私をじっと捉えている。
「お怪我はありませんでしたか?」
「え、えぇ……大丈夫よ」
「そうですかっ。それなら良かったです!」
なんて純粋な目をした少女なのだろう。
「おい、もたもたするな!」
「はいーっ」
その後、男性と少女は走り去っていた。
「凄く元気な二人だったな!」
「……まったくです」
「シュヴァルは不機嫌なのか?」
「まさか。ただ、騒がしい輩に少し疲れただけのことです」




