38話 シュヴァルの野望
「で、見事なまでに失敗しましたね」
狭い部屋の中、シュヴァルは不満げに漏らした。
椅子に括りつけたアスターを、冷ややかに見下しながら。
「……そろそろ解いてはもらえないかね?」
氷のように冷たい視線を向けられながらも、アスターの口元にはうっすら笑みが浮かんでいる。どこか余裕を感じさせるような笑みが。
「残念ですが、それはできません」
「こんな老人を拘束して何が楽しいのかね。君は相変わらず趣味が悪い」
「二度も仕損じた無能に、自由などあるわけがないでしょう」
冗談混じりに話すアスターとは対照的に、シュヴァルの表情は固い。まるで、金属で作られた仮面をつけているかのようだ。
「いやはや、君の娘がとても優秀だったのでね。ついうっかり負けてしまった」
ははは、と軽やかに笑うアスターを見たことで、シュヴァルの目つきはさらに険しくなった。自分が真剣に話しているにもかかわらず、不真面目な態度を取られたことが、不愉快で仕方ないのだろう。
「笑いごとではありませんよ。失敗したということはつまり、殺されてもおかしくはないということです」
シュヴァルが威圧的な視線を向けながら言い放つ。
すると、アスターは急に真面目な顔になって言い返した。
「……脅しは無駄だと分かっていないのかね」
室内に二人以外の姿はない。誰も見ていない静寂の中、二人の小さな声だけが空気を揺らしている。
「私を消したところで、次に消されるのは君だよ」
「まさか。あの星王が気づくはずはありません」
「星王はそうかもしれないね。ただ、それ以外の誰かが気づく可能性はおおいにある」
アスターは、拘束されていてもなお、余裕を感じさせる顔つきのまま。
一方シュヴァルはというと、アスターとは対照的に、かなり苛ついている様子だ。眉間がぴくぴくと微動している。
その様子を見て、アスターは口を開く。
「シュヴァル、君はなぜそうも王女殺害にこだわるのかね?」
問いを放った彼の瞳には、鋭い輝きが宿っていた。
「彼女は、誘拐犯である私に対しても、憎しみを向けたりはしなかった。あんなに平和主義で繊細な娘を殺害する必要など、ないと思うのだがね」
その問いに、シュヴァルは低い声で答える。
「平和主義であろうが、繊細であろうが、そんなことは関係ありません。彼女は王位継承権を持っている。それだけで、生かしてはおけないのです」
アスターは何も返さない。
ひと呼吸おいてから、シュヴァルは続ける。
「我が願いを叶えるには、王位継承権を持つ者を消す必要がありますから」
「君の願いは確か——可愛い女性を虐めることだったかね?」
その瞬間、シュヴァルは近くのテーブルを強く叩いた。バァン、という大きな音が、室内の空気を激しく震わせる。
「我が願いは、そのような下らぬことではありません」
「おや? 違ったかね」
「このシュヴァルの願いは、ただ一つ。星王となり、オルマリンを自分のものとすること。それだけです」
シュヴァルの目は希望に満ちていた。輝いている。
ただそれは、純粋な輝きではない。
野心に満ちた輝き。
獲物を狙う肉食獣のごとき、鋭い目つき。
「おぉ。それは実に壮大だね」
「そのためなら何でもします。邪魔者がいれば、誰であろうが消してみせる」
シュヴァルの瞳に迷いはなかった。その視線は槍のように真っ直ぐで、また、剣のように鋭利だ。
「そのために、ここまで上り詰めたのですから」
彼の曇りのない目を見て、アスターは、感嘆と呆れが入り交じったような溜め息を漏らす。
「……決意は固いようだね」
「当然です。この星を手に入れるためなら、何だって捨てられます。むしろ、喜んですべてを捨てる覚悟です」
語りながら恍惚とした表情を浮かべるシュヴァルに対し、アスターは愚痴るように告げる。
「よく分からないな……私には」
「でしょうね」
「おっと。予想外にはっきりと言われてしまった」
「人を殺めること以外に才のない貴方には、分からないでしょう」
シュヴァルの冷ややかな言葉に、椅子に括られ拘束されているアスターは眉を寄せ、顔をしかめた。その表情からは、複雑な心境であることが窺える。
しかしシュヴァルは、そんなことには気づかない。
目前の初老の男などには、微塵も関心がないのだろう。彼にとっては、自身の野望を叶えることがすべてだ。
「……それもそうと言えるかもしれないね。私はとにかく、権力には興味がない」
「でしょう?」
「シュヴァル、君の言う通りだ」
まだ拘束されたままのアスターは、シュヴァルに言われたことを素直に認めた。すると、シュヴァルが自慢げな顔で、アスターへと近づいていく。
「アスター・ヴァレンタイン——貴方は大人しく、このシュヴァルの力となれば良いのです」
そして、どこからともなく取り出した刃渡り十センチほどの刃物を、アスターの喉元へと押し当てた。
天井から降り注ぐ灯りを浴び、銀色の刃がギラリと輝く。
「次こそ必ず成功させなさい。それが最後の機会です」
二人の視線が交差する。
そこにあるのは、仲間意識なのか敵意なのか。もはやそれすら分からない。
「これもすべて、差別のない平和なオルマリンを作るため。分かりますね?」
「……残念だが、私にはよく分からないのだよ」
アスターの答えに、シュヴァルは目を大きく見開く。
「私は、あのような若い娘を殺害する必要性を感じないのだがね」
——刹那。
シュヴァルは、アスターが括りつけられている椅子を、全力で蹴り飛ばした。
静寂の室内に、痛々しい低音が響く。
男性一人を乗せた椅子は、それなりの重量がある。それゆえ、シュヴァルが蹴り飛ばしても、距離はさほど出なかった。しかし椅子が倒れたため、アスターはその下敷きになってしまっている。
もっとも、椅子と言ってもさほど立派な物ではないため、下敷きになっただけで生命の危機、というわけではないが。
「人殺しは大人しく人殺しをしていろ!」
日頃の様子からは想像できないくらいの厳しい形相で、シュヴァルは言葉を吐く。
「いいな!?」
しかし、椅子の下敷きになったアスターが頷くことはなかった。
「……生憎、私は若い娘を虐める趣味などないのでね。ここで身を引かせてもらうことにし……ぐぅ!?」
最後まで言えず、アスターは苦痛の音を漏らした。それは、シュヴァルが椅子ごと踏みつけたから、であった。
「ならば死になさい」
「な、何をするのかね! 危ないよ、今日の君は!」
胸元を圧迫されたアスターは、何とか呼吸を確保しつつ抗議する。
「リンディアが人殺しの子になっても良いのかね!?」
アスターが必死にそう言うと、シュヴァルの乱暴な行為はようやく止まった。
シュヴァルは片手で髪をくしゃくしゃと数回掻く。
そして冷静さを取り戻し、静かな声を発する。
「……それもそうですね」
その時には、顔つきも、普段の彼のものに戻っていた。
「罪人などいつでも処分できる。このシュヴァルが自ら行うことではありませんでしたね」
アスターは何も返さない。
シュヴァルの言葉を黙って聞いているだけだ。
「覚悟しておきなさい、アスター・ヴァレンタイン。明日には——この世とお別れかもしれませんよ」
脅すようなことを言うシュヴァルは、どこか勝ち誇ったような顔つきだ。アスターを見下し、満足しているのかもしれない。
一方アスターはというと、何も発することなく、ただ宙を見つめていた。
彼が何を考えているのかは、今はまだ、誰も知らない。




