31話 地下室にて
依頼を受けて私を誘拐したのなら、それは彼自身の意思によるものではないということ。それならば、説得して私の味方になってもらうことも夢ではないはずだ。そう考えて、私は口を開く。
「依頼するには、何が必要なの? お金なら、家に帰ればいくらでもあるわ。私の貯金だけでも、それなりの金額は出せると思うし……」
今は一応、敵同士という感じではある。だが、これといった何かがあって対立しているわけではない。
だから、きっと——そう思っていたのだけれど。
「いや、君に雇われることはできない」
きっぱりと断られてしまった。
「……なぜ?」
「私みたいなのは、気安く雇わない方がいいのだよ」
「そ、そうなの?」
「王女が人殺しを雇っていたなど、大問題になると思うがね」
アスターはきっぱりと言い放つ。ただ、嫌そうな顔をしてはいない。
……大丈夫、まだいける。
「貴方、本当は今の仕事に納得していないのでしょう? 私のところへ来てくれれば、もう無意味な殺しなんてしなくて済むわ」
私がそこまで言った瞬間。
アスターは突如立ち上がり、金属のような冷たい視線を向けてきた。
「無駄だよ」
つい先ほどまでのアスターは、穏やかな紳士といった雰囲気だった。しかし今の彼の瞳には、穏やかさなんてものはない。
「たとえ何と言われようとも、私が仕事を放棄することはない」
「仕事?」
「そう……王女を連れ去り、助けに来た従者を殺害するという仕事だよ」
アスターの唇から放たれた言葉に、私は思わず声を荒らげてしまう。
「それは止めて!」
私が傷つくだけならまだ諦められる。が、ベルンハルトやリンディアまでもが巻き込まれたら、ということは考えたくない。
「従者を殺すのは止めて!」
「おっと、どうしたのかね? いきなり取り乱すなど、君らしくない」
「約束してちょうだい! 従者は殺さないと!」
こんなことを言っても無駄かもしれない。遺される者の痛みなど、彼はきっと分かってくれないだろう。いくら訴えようと、何の意味も為さず終わる可能性が高い。
だがそれでも、言葉を口から出さずにいることはできなかった。
「まずは落ち着きたまえ」
「落ち着いていられるものですか! こんな状況で!」
「いやいや。先ほどまでは落ち着いていたではないか」
確かにそうだ。
けれども、従者に手を出すつもりだと知ってしまった以上は、黙ってなどいられない。
——だが結局、私の訴えが聞き入れられることはなかった。
聞き入れられるどころか、逆に、手首を掴まれてしまう。アスターの握力は、予想を遥かに超える強さだ。年老いても男、といったところか。
「黙っていただけるかね?」
氷のように冷たく、刃のように鋭い——そんな瞳で凝視されると、得体の知れない悪寒に見舞われて、言葉を失ってしまう。
「物分かりが良くて助かるよ」
いやいや、物分かりなんて関係ないわ。
そう言いたい気分だ。
こうもあからさまに圧をかけられては、誰だって黙る外ないだろう。物分かりが良いか悪いかなんてことは、ほとんど関係ないはずだ。こんなにも冷ややかな視線を向けられ、それでもなお大人しくならない人間がいるとすれば、よほど勇敢な者に違いない。
「では、もうしばらくはここで辛抱していてくれたまえ」
私は、地下室の突き当たりの壁にぴったりと合わせて置かれたベッドに、半ば強制的に座らされた。簡単に木材を組み、タオルを敷いただけのようなベッドなので、座り心地もあまり良くない。
「そこは日頃私のベッドだが、今日は特別に、君に貸して差し上げよう」
「……貴方のベッドなの」
「なに、心配することはない。敷いてあるタオルは、毎日きちんと洗っているからね」
そんな風に話すアスターは、元の穏やかな雰囲気に戻っていた。
「何なら嗅いでみても構わないのだが」
「嫌よ!」
思わず叫んでしまった。
「おぉ、そんなに鋭く拒否されるとは」
「……いきなり叫んだことは謝るわ。けれど、私にはそんな趣味はないの」
「それはそうだろうね」
分かっているなら、言わないでほしかった。
「では失礼するとしよう。もうすぐ朝が来るが——しばらく休んでいるといい」
アスターはそう述べると、まとっていた黒い布を脱ぎ、テーブルの上に置く。そして、紫のスーツ姿になり、地下室から出ていった。
……アスター、綿菓子、紫のスーツ。
すべてが上手くはまっていく。まるで、パズルのピースが綺麗にはまっていくかのように。
やはり彼が、アスター・ヴァレンタインが、あのホールで私の命を狙った男性なのだろうか。
アスターが地下室から出ていった後、私はその場に留まったまま、ぼんやりと辺りを見回していた。理由などない。ただ、今はあまり動く気にはなれなかったのである。
それにしても——ここは物騒な部屋だ。
壁には銃が立て掛けられているし、テーブルの上には何やら怪しげな部品のようなものが散らかっている。そちら方面に関する知識が乏しい私でも、物騒さを感じるほどである。
「……ベルンハルト」
ごろりとベッドに転がると、半ば無意識で、彼の名を漏らした。頭の中に、ふと、彼の顔が蘇ったから。
助けてほしい。助けに来てほしい。
そう思いはするけれど、私はすぐに首を横に振った。
もし戦いになれば、アスターはベルンハルトを潰しにかかるだろう。仕事だから——その言葉が存在する限り、アスターは手加減などしてくれないはずだ。アスターとベルンハルトがぶつかった時、どちらが勝利を掴むのかなんて、実際にやってみないと分からない。
「はぁ」
仰向けに寝たまま溜め息を漏らした、その時。視界の端に、不意に、何か四角いものが入った。
「あれ?」
私は上体を起こし、四角いものを手に取る。よく見ると、厚みのある本のような形をしていた。
「これって……」
紫色のハードカバーを開く。中は白いノートになっており、黒い文字がずらりと並んでいた。印刷ではなく、手書きの文字が。恐らく、日記帳か何かなのだろう。
私は最初のページから、軽く目を通すことに決めた。




