26話 簡易電話ボックスにて
イーダがベルンハルトと二人で話していた頃。
父親であるシュヴァルと共に部屋を出たリンディアは、希望した通り、一人の男性と連絡をとっていた。第二ホールのある建物から出てすぐの場所にある簡易電話ボックスにて、である。
簡易電話ボックス内にて、一人受話器を耳に当てている彼女の顔は、険しいものだった。
「リンディアよ。久しぶり」
黒い受話器に向かって、彼女は声を発する。
『えーと?』
受話器の向こう側から聞こえる男性の声は、音の高さは低めなのだが、明るさを内包しているものであった。どことなく呑気な雰囲気を感じさせる声である。
「何よ、それ! 感じ悪いわね!」
『……あ。ようやく思い出したよ、赤いリンディアだね?』
「そーよ! 最初に名乗ったでしょ!?」
手に持った黒い受話器を耳元に当てながら、リンディアは鋭い声を発する。厳しい娘が鬱陶しい父親に向けるような、厳しさのある口調だ。
『そうだったそうだった。気づくのが遅れてすまなかったね』
「アスター……アンタ、相変わらずね」
『おぉ! こんな萎れた私に、若い頃と変わらないと言ってくれるのかね? それは喜ばしい』
受話器の向こうの男性——アスターが、少し嬉しそうな声でそんなことを言うと、リンディアは低い声で言い返す。
「ふざけんじゃないわよ、ジジイ」
簡易電話ボックス内のリンディアは、顔をしかめていた。
『おや。そういう意味ではなかったかな』
「なーんにも褒めてないわよー」
『そうかそうか。それは実に残念だよ。……それで、本題は何かね?』
アスターは、呑気なふりをしつつも、リンディアが何となく電話をしただけではないことに気づいているようだ。
「暇つぶしでかけたわけじゃないってことくらいは気づいたみたいねー?」
リンディアは少しも慌てていない。
『それはまぁ……分かるとも。君はこんな老いぼれを気にかけるような優しい娘ではない』
受話器の向こうから返ってきた言葉に、リンディアは一人苦笑する。
無論、その場に彼女以外の人間はいないため、彼女の苦笑を目にする者は一人もいなかったわけだが。
「よーく分かってるじゃなーい」
『君は私の唯一の弟子にして、娘のような存在だからね』
「キモイわ! 勘違いしないでちょーだい。弟子だけど、娘ではないから」
『それは分かっているとも。だからちゃんと、娘のような存在、という言い方にしておいたではないか』
ははは、と、受話器越しにアスターの笑い声が伝わってくる。
それを聞いたリンディアは、ますます不愉快そうな顔をした。生理的に無理、というような、嫌悪感ががっつりと滲み出た顔である。
「ま、それは置いておくとしてー……アスター、アンタ」
『ん? 何かね』
数秒の沈黙。
「イーダ王女を狙ったの、アンタでしょ」
リンディアの真剣さに満ちた声が放たれる。
すると、それまでは楽しげに喋っていたアスターが、初めて黙った。
「アンタは仮にも、あたしの師匠。それなのにこんなことを言う日が来るとは、夢にも思わなかったわ」
『……何を言っているのかね、君は』
「べつに、とぼけなくていーわよ。真実だけを吐いてくれれば、それでいーから」
簡易電話ボックス内の空気が、一気に重苦しいものへと変化する。
それはまるで、つい先ほどまで晴れていたのに急に雨が降り出した時の空のよう。あるいは、不気味な灰色をした分厚い雲に覆われた世界のよう、とも言えるかもしれない。
とにかく、息をすることすらままならないくらいの、重苦しい空気だ。
「どーしてイーダ王女を狙ったりしたの」
リンディアの声もまた、重苦しさを感じさせる、低いものであった。
「イーダ王女を殺したって、アンタは何も得しないはずでしょ。それなのに、どうしてあんな馬鹿なことをしたのかしら」
その時、暫し黙っていたアスターが、ようやく口を開く。
『……なぜ私を疑う?』
彼の問いに、リンディアは冷静に応じる。
「イーダ王女の胸を貫ける位置、あんなに正確に狙える人なんてそうたくさんはいないわよ」
『いやいや。三階から一階にいる人間を狙うくらいなら、誰でもできると思うが』
アスターの発言に、リンディアは眉をひそめる。
「……ちょっと」
『ん?』
「どーして三階からなんて知ってるのよ」
——暫し、沈黙。
それから数十秒ほどが過ぎた時、アスターは急に笑い出す。
『ははは! これはやってしまった!』
「じゃあ、やっぱりそーなのね」
『いやはや、君はさすがだな。ある意味……素晴らしい! 満点!』
「……は?」
アスターのよく分からない発言に、リンディアは渋いものを食べたような顔になる。それまでは嫌悪感に満ちた表情だったが、そこへさらに、呆れの色が混じってきた。
『まさか普通にばれているとは思わなかっただけに、驚いた。衝撃だよ。いや、もう今、愕然としている』
「いろんな表現をしろ、なんて言ってないわよー」
リンディアは彼の弟子。それゆえ、彼のことをよく知っている。だからこそ、イーダを狙ったのが彼であることに、早く気がついたのだろう。だが、当のアスターはというと、リンディアに気づかれるとは思っていなかったらしい。言葉こそ明るさと軽さのあるものだが、その声は、彼の動揺を見事に表している。
「さすがに動揺してるみたいね?」
『もちろんだとも。なんせ、君がイーダ王女の傍にいることなんて、微塵も想定していなかったからね』
「もっと色々想定しておくべきだったわね、アスター」
リンディアは、少し勝ち誇ったように述べる。
『その通り。本当に、君の言う通りだよ。この私がこうも容易く見つかるとは……夢にも、ね』
それとは対照的に、アスターの声からは、どこか哀愁が漂っている。
『なんて言ってみたら、それらしくて少しかっこいいかもしれない!』
「はぁ!?」
リンディアは半ば無意識に大声を発する。睫毛に彩られた華やかな目を、大きく見開きながら。
『今、ふと思いついたのだよ』
「馬鹿みたいなこと言うのは、もー勘弁してちょーだいよ……」
周囲に誰もいない簡易電話ボックスの中では、リンディアとアスターの声だけがすべてだ。それ以外の物音は、何一つとしてない。
「ま、いーわ。それより、どーしてイーダ王女を狙ったのか、話してもらってもいーかしら?」
『私が君に話すことかね、それは』
「そーよ! 今のあたしはイーダ王女の従者なの。だから、せめて理由くらいは聞いておかないと納得できないわ」
『おぉ、リンディアとは思えぬ正義面』
「うっさいわね! そーいうのは要らない!」
『そして、君はやはり、私にとって娘のような存在だよ』
アスターの言葉に、リンディアは電話が置いてあるテーブルのようなものを強く叩いた。
苛立ちが我慢できないくらいまで膨らんだからだと思われる。
『娘とは父に厳しいものだと聞くが、どうやら間違いではな——』
「黙れって言ってるでしょ!!」
『あ……そうか。怒らせる気はなかったのだがね』
「怒らせる気がないのなら、大人しく問いに答えてちょーだい」
リンディアは黒い受話器を耳に当てたまま、真剣な顔で、改めて問う。
「どーしてイーダ王女を狙ったの?」
真剣な顔のまま問うリンディア。
『……ただの仕事だよ。そこに理由などありはしない』
彼女の問いに、アスターは短く答えたのだった。




