恋に満ちて
放課後の職員室は、意外なほどに人が少ない。ノックをして、扉を開けると、目当ての姿はもうそばに来ていた。
「失礼します、あのっ」
「はいはい、私でしょ?」
もう分かってるみたいに、私の手を取って外に出る。
「今日も勉強教えてよ、はるねぇ(・・・・)」
「もう、学校じゃそう呼んだらだめって……」
「はいはい、わかったよ、千春先生」
「それでいいの、行きましょうか、斎藤さん」
私、斎藤千秋と、斎藤千春は、お付き合いをしている。それは、二人だけの秘密。
「でも、姉妹なのに苗字呼びって変じゃない?」
「し、べ、別にいいでしょ?学校でも名前呼びって、なんか恥ずかしいし……」
はるねぇと私は、『先生と生徒』で、『姉と妹』で、『恋人同士』。同じ二人なのに、いろんな関係を演じ分けないといけないのは、ちょっとめんどくさい。ずっと『恋人同士』でいたいけど、そういうわけにもいかないのがもどかしい。
「そういうことなら仕方ないか、お姉ちゃん、恥ずかしがり屋さんだもんね、なんで先生になったんだか」
「別にいいでしょ? 憧れてたんだから」
「はいはい、……早く行こ、先生」
でも、これから行く場所は、絶対、二人きりになれる場所。滅多に使われない、普段は物置になってる第二会議室。
いつも私たちが使ってるから、ほこりもそんなに目立たない部屋に、隣り合わせに座る。
「今日はどこをやるの、千秋」
「あれ? 学校じゃ名前呼びするの恥ずかしいんじゃなかったの?」
「いいじゃない、二人きりなんだし……っ」
「まあ、それもそうか」
私よりも五つも年上で、勉強も教えてもらう側なのに、……はるねぇのこと、かわいいなんて思ってしまう。
そんな邪念を振り払って、机に向かう。今は、真面目に勉強する時間だ。こんなとこでやるのは、よこしまな気持ちが無いわけじゃないけど、それ以上に私は受験生だから。
「それで、何教えてほしいんだっけ?」
「古文……でもはるねぇ大丈夫なの?こっちでは現文教えてるけど」
「大丈夫よ、それくらいなら。それじゃあ、教科書とノート出して?」
先生モードのはるねぇは、凛々しくてキリッとしてて、……そりゃ、みんなにも人気が出る訳だ。贔屓目に見ても、すらりとした体の線も、卵型の顔も、同じ親から生まれたとは思えないくらい綺麗なんだから。
「とりあえず、今やってるとこ見せて?」
「ん……、わかった」
教科書を見せると、「ああ、そこね?」と合点がいったみたいだ。昔から、頭よかったからな、はるねぇは。教え方だって上手くて、……これで恥ずかしがり屋じゃなかったら、先生になるにはぴったりなのに。
私の頭と波長もぴったりで、授業でわからなかったとこも、一瞬ですらすらと解ける。
「いつもありがとね、はるねぇ」
「ふふ、いいのよ、千秋のためなんだし」
「私のためならいいんだ、……何で?」
「……っ!!」
本当は、何でなのかって、言われなくてもわかってる。でも、言ってほしいな、……だって、かわいいんだもの、そうやって真っ赤になるのが。
「だって、……好きだもの、千秋のこと」
「ふふっ、顔真っ赤だよ、はるねぇ」
両手で頬杖をついて、それをごまかそうとしてるのも、顔中赤いせいで、それでも隠しきれてないのも、たまらなくかわいい。
こっちを見てくれないはるねぇの顔を覗き込もうとしても、顔をそらしてしまう。
「もう、何で隠すの?」
「だって、恥ずかしい……っ」
「顔真っ赤なの、もうわかってるんだよ?」
今更隠されたって、わからないわけがない。ずっと近くにいるんだから、
もっと見たいな、そんなとこも全部、好きだから。
「でも、見せられないよ……っ」
「えー? いいじゃん、どうせ私しかいないんだし」
「それが恥ずかしいんだって……っ」
そうやっていじけるはるねぇは、なんだか妹みたい。こんな風にいちゃいちゃをためらってるのを見ると、そういうとこ、もっと見たくなっちゃう。……学校の先生になれるくらい頭が良くて、物覚えもいいのに、こういうとこだけは私と恋人になってからずっと変わらない。
……まあ、そんなとこが、大好きなんだけどね、私は。
「私にだったら、いつも見せてるでしょ?」
「そりゃそうだけど……っ」
「大丈夫、笑わないし……、そういうとこが好きなのに」
「もう、ずるいよ、千秋」
拗ねたように唇を尖らせて、……本当にお姉ちゃんなのかって思うくらい、かわいい。もっと見せて、私にしか見せないようなとこ。
「何? ちゅーしたいの?」
「そ、そんなんじゃないってぇ……っ」
「ふーん、……私とするの、嫌なんだ。毎日してるくせに」
「そういうわけじゃないけど……っ」
わかってるよ、そんなこと。でも、そんな風にからかうだけで、トマトみたいに赤くなってるのがたまらなくて、大好き。
「じゃあ、はるねぇからちゅーして、そうじゃなかったら信じてあげない」
「もう、千秋ぃっ!」
ふふ、どんな反応してくれるかな。いっつも、私からしてるから。はるねぇからしてもらうのは初めてだもんね。
「私がそういうのできないって、知ってるでしょ?」
「ふーん、お姉ちゃんは、したくないんだ」
「そうじゃないけど、だっていっつも千秋からだし……っ」
「だから、してほしいんだけどな」
うつむきながら、ほっぺを赤く染めながら考えてる。今すぐほっぺたをぷにぷにしたいけど、そんなことしたら、もう二人で勉強しないなんて言いそうだから、欲望をぐっと我慢する。
「もう、しょうがないわねぇ……っ」
言葉だけならりっぱなお姉ちゃんなのに、真っ赤な顔も、慌てたような手も、その言葉から威厳を限りなく奪い取る。
「しょうがないのは、はるねぇの方でしょ? 言われないと、恋人とちゅーもできないなんて」
「い、言わないでよ、もうっ」
「ホントのことでしょ、今だってそうじゃん」
「わ、わかったわよ……っ、す、すればいいんでしょっ!?」
はるねぇってば、駄々っ子みたいになっちゃって、……学校の人だって、家族だって知らないそんなとこ、もっと見せて。
「何するの? 私と」
「そ、そんなの言えるわけないじゃないっ!」
「それだけで恥ずかしがるのにできるわけないでしょ。私先帰ってるから、はるねぇだって帰る支度あるでしょ?」
「ま、待ってよ千秋、……き、キス、するから……っ」
ただでさえ赤い顔がもっと赤くなって、私のほうを見ようとしない。でも、筆箱と教科書を鞄にしまおうとした腕を、はるねぇに捕まれる。
「これじゃあ、ちゅーできないよ?」
「わかってるからぁ……、心の準備くらいいいでしょ?」
「しょうがないなぁ、待ってるよ」
そうやって、はるねぇが深呼吸をする。ゆっくりと頬の赤さが消えてくのがわかる。やっぱり、そういう恋人らしいこと、したいんだな。普段なら、「学校はそういうことをする場所じゃない」って止めるのに。
「千秋ぃ……っ、目、閉じて?」
「わかってるよ」
薄目を開けてみようかとおもったけど、そしたらずっと固まってそうだからやめておく。ぎゅっと目を閉じて、唇の感触を待つ。
何度も聞こえる荒い息と、生唾を飲む音。その間が、無限に引き延ばされてるように思える。
早くしてよ、はるねぇ。……私まで、ドキドキしちゃうから。
「い、……行くよ」
そう言って、戸惑う気配。そんなこと言っちゃうから、余計ドキドキしちゃうのに。
でも、そこがかわいくて、大好き。一瞬触れた唇の温もりは、私からするときより、ずっと柔らかい。
「これで、いい?」
「うん、よかったよ、はるねぇ。……続きは、おうちでね?」
「な、何言ってるのっ!?」
「勉強のことを言ったんだけどなぁ……、何想像しちゃったの?」
「……千秋のイジワル」
ごめんね。でも、はるねぇがそうさせたんだよ?
だって、こんなにかわいいとこばっかり見せるんだもん。もっと見たくなっちゃうよ、二人きりでいられる時間なんだから。
「はるねぇがかわいいのがいけないの、……本当に私帰るから、はるねぇも早く帰ってきてね」
「わ、わかってるわよ……」
もう、窓の外からは夕日が落ちかけてるのが見える。時計を見ると、まだ五時くらいなのに。冬がもうそばまで近づいてるんだ、……なんだか憂鬱になりそうだから、その考えを慌てて切り上げて席を立つ。机に突っ伏してるはるねぇは、そんなのも気づいてないみたい。
「じゃあまたね」
「あ、ちょっと、待って……っ」
まだ、はるねぇの顔は真っ赤になったままなんだろうな。カラガラと鳴る引き戸を開けても、はるねぇの頭は上がらない。
「もう、まだ顔真っ赤なの?」
「全部、千秋のせいじゃない……っ」
「はるねぇがそこ出ないと、『続き』できないよ?」
今度は、はるねぇが一回想像したほうの『続き』。……案の定、変なうめき声をあげながら身を起こす。その顔は、やっぱり真っ赤。
「へ、変なこと言わないでっ!」
「はるねぇも想像してたくせに、……早く行くよ?」
「わ、分かってるわよ……っ」
慌てたように立って歩くけど、扉の前で立ち止まる。
「まだ、顔真っ赤でしょ?」
「うん、ちょっとね、……だから、先行ってて、多分、千秋がいたら収まらないから」
「はいはい、わかったよ」
大げさに手を振って、小走りでそこから離れる。……そうしないと、寂しくなるから。
無心で昇降口まで駆けて、外のひんやりした空気に頭も冷える。
……はるねぇといると、すぐ甘えたくなっちゃう。でも、本当に『恋人同士』でいられる時間は、ほんのちょっとしかない。
家に連絡を入れて、駅への道へ向かう。一人でいるのは、なんとなく寂しい気分になる。
はるねぇのことで満たされて、何もかもふわふわと宙に浮いてるみたい。
暇つぶしに見た携帯も、壁紙ははるねぇがスーツを着てるときのもの。確か、私の高校に入ってきたときの。「高校では私のほうが先輩だね」なんて言って笑ったのも、もう去年のことなんだな、……はるねぇといる時間は、それくらい一瞬で過ぎていく。
あ、そういえば。カレンダーを見て、はっと気づく。
……今日は、いっぱい甘えさせてね、はるねぇ。
自然と浮かんだ笑顔が、ドアのガラスに映った。
「遅くなっちゃった、ただいまー」
「あ、おかえり、お姉ちゃん」
はるねぇが帰ってくるのを、リビングでずっと待ってた。言い訳づくりに、単語帳をぱらぱら眺めながら。
家族四人で食べるご飯を手短かに済ませて、二人で私の部屋に入る。
「学校でやったとこの続き、教えてくれる?」
「はいはい、わかってるわ」
勉強机には二人分の椅子はないから、ベッドサイドに置かれたテーブルに座る。学校でしたときと違って、二人の体が触れ合うくらい近い。
「今日はなんか素直だね」
「そ、そう……? いいでしょ、それくらい」
顔も赤くなってるし、風邪でも引いたんじゃないかってくらい。おでこに手を当ててみて、私のと比べても大して変わらない。「ひゃっ!?」って軽く悲鳴めいた声を出したのも、いつもと同じ。
……そんなとこだけは変わらないな。ずっと一緒にいたせいで、こういうときの行動が予想通りなのは、なんか寂しいような、ほっとするような。
「別に嫌じゃないよ、……早く教えてくれる?」
「わかってる、……ここまでは学校で教えたよね?」
「うん、そうだね」
さっきまでは暗号みたいに思えたものは、今はちゃんとした物語になる。教科書にあった一つの章を済ませて、疲れて机に倒れ込む。
「今日はお疲れ、よく頑張ったね」
「うん……ありがと」
はるねぇが頭をぽんぽんって撫でてくれて、そんなとこはお姉ちゃんなんだなって思う。
きりっとしたとこも、優しいとこも好き。でも、……一番好きなのは、私に翻弄されて真っ赤になってる、他の誰も知らないとこ。
「そういえばさ、今日は何の日か覚えてる?」
「あれ?千秋の誕生日はもう祝ったよね、私は五月だし」
「そうじゃなくて、……じゃあ、ヒントあげるね?」
「う、うん……」
顔を上げて、軽く抱きつく。「な、何……?」なんて声を無視して、耳元で囁く。
「トリック・オア・トリート」
「……あっ! すっかり忘れてた……っ」
クラスも、受験だからって何もなかったし、私も忘れかけてたけど。甘えるにはちょうどいい。
いっぱい勉強したし、ちょっとくらい『ごほうび』があってもいいよね?
「忘れてるなら、お菓子持ってないでしょ? いたずらしちゃってもいいよね?」
「待って、今お菓子買ってくるから……っ」
「ダメ、……今がいい」
「も、もう……、わかったわよ」
覚悟を決めて、私のほうを向くはるねぇ、その顔は、やっぱり赤い。
「ねえ、……目、閉じて?」
「わ、わかった……、変なこと、しないでね?」
ぎゅっと目をつぶって、……本当に、お姉ちゃんに見えないくらいかわいい。
大丈夫だよ、変なことなんてしないから。
「ちゅっ、んぅ……、はるねぇ、もっと、ちょうだい……?」
「ちあきぃ……、んぷっ、んあぁ、はぁっ」
はるねぇ、甘い。どんなお菓子よりも、ずっと。
脳みそがしびれていきそうなくらい、気持ちよくて、溶けちゃいそう。
ふんわりとした香りも、伝えあう熱も、二人だけのもの。
「はぁ……っ、どう、だった?」
「い、いきなりこんなことするなんて、ずるい……っ」
そう言ってるくせに、無意識で抱き合った腕は離そうとはしない。はるねぇってば、本当に私に弱いなぁ、……そんな事を想うあたり、私も、はるねぇに弱いや。
ふと口元を見ると、銀色に光る橋が、目の前の唇と繋がってる。
「私に『いたずら』されるの、嫌だったの? はるねぇが『続き』したそうだったからしたのに」
「そんな、……嫌なわけ、ないじゃない……っ」
「どうして?」
「だって、千秋のこと、好きだし……」
『好き』って言ってほしかったけど、いざ本当に言われると、胸がきゅんってしちゃう。
「私も、……大好きだよ、はるねぇ」
二人を繋いでた橋は、もう一度唇がくっついて切れた。