ゲルセミウム・エレガンス(三十と一夜の短篇第27回)
「承和十年七月庚戌、致仕左大臣正二位藤原朝臣緒嗣薨、……中略……、帝乃流涕、更召皇太子親王等、令陪殿上、即詔曰、微緒嗣之父、予豈得践帝位乎、……後略……」『続日本後紀』の記事より抜粋。
(大意)承和十年(843年)七月二十三日、引退していた左大臣正二位藤原朝臣緒嗣が亡くなった。……、かつて桓武天皇はある宴の席で涙を流された。更に皇太子(安殿親王のちの平城天皇)や親王たちを召し、「緒嗣の父(式家の藤原百川)がいなかったら、自分はどうして帝位に践けただろうか……、積年の恩に報いたい旨の詔をなされた、……。
平成二十八年十一月、わたしは奈良国立博物館にいた。奈良国立博物館を訪れたのはそれが三度目だが、正倉院展が開催されている時期に来るのは初めてだった。奈良正倉院は光明皇后が亡くなった夫聖武天皇の遺愛の品や宝物、薬物を収めたタイムカプセル。その年の呼び物としての宝物は「漆胡瓶」、ペルシア風の水差しで、注ぎ口が鳥の頭のような形になっている。全体的に丸みを帯びた作り、花車な把手、黒漆を塗り、その上から様々な文様をかたどった銀を貼り付けている。実際に水を汲み、注ぐ動作を思うと、触るのが怖いくらいの細かな細工物である。
勿論、出品されている宝物はそればかりではない。古代裂、銅銭、鏡、宝飾品。一つの古文書が目を引いた。入ってすぐのスペースに展示されていた、北倉からの出展である「出入帳」。これは倉から宝物や薬物を出し入れする時に付けていた文書。古代史にはお馴染みの人名が出てくる箇所を拾い読みつつ、ふと気に掛かる文字。
「冶葛」。
二十世紀も終わる頃、正倉院に収められていた薬物が調査された。既に失われた薬物があり、どんなものか判然としない薬の名前もある中で、「冶葛」は現代、中国南部から東南アジアの山間部に自生する植物、「ゲルセミウム・エレガンス」と全く同一であると解明されている。
「冶葛」は皮膚疾患に使われる外用薬と記録されている。決して内服してはならない。何故ならば、少量でも死に至らしめるほどの猛毒を持っているから。若葉を三枚口にすれば、この世の全ての軛から解放されると伝えられる最強の植物毒。それは乾燥させ、千三百年の時を経ても効果は変わらない。
「冶葛」、果たして何の目的で倉から出されたのだろう。
聖武天皇には史書で確認できる子どもは五人いた。(死後に隠し子騒動が起きたが、偽物とされた為、その人物は勘定に入れない)
光明皇后を母とする阿倍内親王、後の孝謙・称徳天皇、夭折した皇太子の長男。
県犬養広刀自を母とする井上内親王、不破内親王、安積親王。
ほかにも聖武天皇のきさきだった女性や和歌の遣り取りをした女性がいるが、子どもがいたとは伝わっていない。
『続日本紀』に、皇太子だった長男の誕生日と死亡日の双方が記載されているので、数えで二歳、満年齢で一歳に達する直前に亡くなったと解る。阿倍内親王や安親王積は亡くなった時の記事に享年が記されているので、それを逆算して生まれた年を割り出している。井上内親王と不破内親王は正確な生年が不明、しかし井上内親王はほかの史料にある年齢から阿倍内親王より一歳上らしいとされている。そして、井上内親王は亡くなった日が『続日本紀』に記されている。不破内親王は寧楽朝の天皇の娘と生まれながら、いつ生まれ、いつどこで亡くなったか解らないのだ。歴史書の中に、度々名前が出てくるのにも関わらず。
聖武天皇が井上内親王の父になったのが数えで十七歳(養老元年、AD七一七年)の時、同母の安積親王の生まれが神亀五年(七二八) 、不破内親王の夫となる塩焼王が和同四年(七一三)、或いは和同八年、霊亀元年(七一五)生まれらしい。そうすると不破内親王は井上内親王や阿倍内親王より下、安積親王より幾つか上と推測される。
長女の井上内親王は伊勢の斎宮になった。長男は乳児のうちに亡くなり、二男安積親王は死亡率の高い乳幼児の時期を脱したが、母方の県犬養氏が有力な貴族ではない、健康面でも不安があったかも知れない。安積親王が十一歳の時に、光明皇后所生の二女阿倍内親王が二十一歳で皇太子になっている。
不破内親王は聖武天皇の血統を受け継ぐ子孫を育む期待をされたのだろう、時期は不明だが、天武天皇と藤原鎌足の娘五百重娘との間に生まれた新田部親王の息子塩焼王と結婚する。
この結婚、聖武天皇の意向だったら失敗だった。なにしろ、塩焼王は天平十四年(七四二)十月、いきなり若い宮廷女官四人と獄に入れられ、伊豆に流罪と沙汰された。罪状は不明であるが、女性が関わっているので、宮廷で勝手な情報収集や呪詛を目的として公序良俗に反する行為をしたのではと勘ぐってみたくなる。塩焼王は、三年後の天平十七年(七四五)に許され、都に戻ってくる。
前年の天平十六年(七四四)の閏正月に安積親王が脚病で亡くなった。井上内親王は弟の喪の為に斎宮を辞して都に戻ってきた。
今度は井上内親王が結婚する。相手は天智天皇の孫の白壁王。井上内親王は三十くらいになっていたはずで、白壁王も和銅二年(七〇九)の生まれだから四十近かったはず。年齢が年齢だけに白壁王はほかに妻子がいた。百済の血を引く高野新笠という女性との間に山部王、早良王の息子がいる。
聖武太上天皇は独身で帝位に就いた娘の孝謙天皇の為に、皇太子は道祖王にせよと遺言して崩御した。これは以前の『瑞兆』で描いた通り、すぐに反故にされる。道祖王は塩焼王の弟であったから、塩焼王はかなり皇位継承者に近い位置に考えられていたはずなのだ。
で、道祖王は『或る処世』の中に出てくる「橘奈良麻呂の変」に連座して落命した。ついで、光明皇太后の死後、孝謙太上天皇が巻き返しを図った「藤原仲麻呂の乱」で、塩焼王(この時は臣籍に下って氷上塩焼と名乗っていた)は仲麻呂から帝代わりの旗印にされ、一緒に戦場で殺された。不破内親王とその子どもたちはこの戦いの賞罰には関わらなかったらしい。
不破内親王の名前が史書に繰り返し出てくるのはこれからなのだ。
仲麻呂と淳仁天皇を退けた後、阿倍内親王は再び皇位に返り咲く。称徳天皇である。不破内親王は女帝である姉に対して罪を犯したと内親王号を剥奪される。
「神護景雲三年(七六九)五月壬辰。詔曰。不破内親王者先朝有勅削親王名。而積悪不止。重為不敬。諭其所犯。罪合八虐。但縁有所思。特宥其罪。亻乃賜厨真人厨女名。莫令在京中。」
(大意)不破内親王は先の帝の御代に勅があって内親王の号を削られた。(先の帝が聖武を指すなら塩焼王が伊豆に流された時か?)悪事を重ね、罪を重ねるのを止めず、朕に対して不敬である。その罪を犯す所を調べると八虐の罪に値する。但し、思う所があり特にその罪を許す。厨で働く台所女の名前を与える。都から出ていけ。
その直後の五月二十九日の詔で、「共犯の女官がいて、不破内親王とその息子氷上志計志麻呂が称徳天皇の髪の毛を手に入れて呪詛を行ったので、罰するのだ」と述べられている。
翌年の八月四日に称徳天皇は五十三歳で崩御し、白壁王が皇太子に指名された。約二ヶ月後の十月一日に即位し、宝亀と改元した。光仁天皇である。十一月に天皇の妻の中で一番身分の高い井上内親王が皇后となり、宝亀二年(七七一)正月に井上皇后所生の他戸親王が皇太子と定められた。
多分、白壁王が称徳天皇の次の天皇にと戴かれたのは、聖武天皇の娘である井上内親王を妻とし、そこに他戸親王がいる為、婿どのを中継ぎにしようとの感覚が朝廷内にあったのだと思われる。
塩焼王や不破内親王が、聖武天皇や称徳天皇の時代に虎穴に入って虎に噛みつかれた生き方をしていたようで、気の毒になるくらいだ。
同年八月、称徳天皇を呪詛した女官たちは冤罪だったと記事がある。不破内親王、厨真人厨女の文字が無いが、恐らくは不破内親王たちは都で生活できるようになっていただろう。
ところが宝亀三年(七七二)三月二日、突然井上内親王は呪詛を行うのに連座したと皇后を廃せられる。続いて五月二十七日、皇太子を廃して、他戸を庶人とすると詔が出された。母の罪ゆえにその子は次の皇位に相応しくないというのが理由だ。
同年の十二月、厨真人厨女を元の内親王の待遇に復すとある。翌宝亀四年(七七三)正月、無位の不破内親王に元の四品の品位を授けられている。
同父母の両親を持つ姉妹なのに、なんという運命の変転なのだろう。
物語はこれで終わりではない。
宝亀四年正月に他戸に代わって皇太子になったのは、高野新笠の息子山部親王、後の桓武天皇である。
井上内親王と他戸王は大和国宇智郡に幽閉されていたが、『続日本紀』、宝亀六年四月の記事、「己丑。井上内親王。他戸王並卒。」。(二人とも享年が記されていない)同じ日に母と息子が亡くなった。事故か覚悟の自殺かのいずれであろう。
光仁天皇の譲位があり、天応元年(七八一)四月、山部親王が即位した。桓武天皇の誕生である。桓武天皇は井上内親王の娘、他戸王の姉である酒人内親王を妻としていた。かれ自身も聖武天皇の血を引く女性を妻にしているポーズを取っているのだ。
翌天応二年(七八二)閏正月、氷上川継の叛逆事件が起こった。
「閏正月甲子。因幡國守從五位下氷上眞人川繼謀反。事露逃走。」
「丁酉。獲氷上川繼。於大和國葛上郡。……略……。宜免其死處之遠流。不破内親王幷川繼姉妹者移配淡路國。川繼塩燒王之子也。……略……。」
(大意)閏正月朔日、因幡国守従五位下氷上真人川継が叛逆を謀り、事が露見したので逃走した。閏正月十四日、氷上川継を大和国葛上郡で捕らえた。その罪は死に値するが、それを免じて遠流にする。母である不破内親王と川継の姉妹は淡路に配流にする。川継は塩焼王の子である。
その後、川継はかつての父と同じ伊豆に妻とともに流され、連座した者たち三十五人が京洛から追放となったと記録は続く。
この事件は、百済系の女性を母に持つ桓武天皇より、前科持ちのような両親でも母親が聖武天皇の内親王、父親が天武天皇の孫で、自身は皇籍から離れて氷上真人の姓を名乗っていても川継の方が皇位継承者に相応しいと看做す人々が少なからず宮廷にいたと示す。
この時点で、桓武天皇がかれがいなければ皇位に就けなかったと感謝していた藤原百川と、その兄良継はこの世の人ではなかった。
延暦十四年(七九五)十二月、『日本紀略』に不破内親王を淡路国から和泉国へ配流先を移したとある。
延暦二十四(八〇五)年三月、川継は罪を赦された。翌年三月十六日に川継は元の従五位下の位に戻り、直後の三月十七日、桓武天皇は崩御した。享年七十。
延暦十四年から二十四年の間に、不破内親王は亡くなったのかも知れないし、子どもとともに都で暮らしたのかも知れない。記録が無いので解らない。ただ、桓武天皇は平城京から長岡京、平安京と遷都を繰り返し、都は元の場所ではなかった。
ここまでわたしは幾人の死を語った? 当時の医学は未熟であり、治療を宗教に依存していた。栄養や衛生の知識も乏しい。現代では些細と見られるような原因が死につながった例が多かっただろう。血で血を洗う争いもあった。
不審死、暗殺ではないかと見られているのは井上内親王と他戸王だけではない。乳児の死亡が多かった頃だが、皇太子でいつも誰かがかしずいている聖武天皇の長男は? 女性皇太子の阿倍内親王を認めずに安積親王を皇太子にしようとする一派がいたとしたら? 称徳天皇がいつまでも皇嗣を定めず僧侶を重用するのに苛立ちを感ずる者たちがいたら? 桓武天皇が、藤原百川がいなかったら皇位に就けただろうかと後年述懐したのは何故か?
少量で人を死に至らしめる「冶葛」。何かを口にして、おかしいと感じた瞬間に魂は肉体を離れる。本来の皮膚病への塗布以外の使われ方していなかったと誰が証明しえよう。
かなしいのは貴族や豪族、或いは底辺の皇族の女性たちと違って内親王が不自由な点だ。天皇の子どもでも男性、親王は一定の役職に就けるし、正式な妻はともかく違う身分の女性と交渉を持っても咎められない。天皇の孫以降の女王であればもう少し結婚や宮仕えなど行動の自由が得られただろう。内親王は当時皇族以外の男性との結婚は考えられず、それが果たせなければ一生独身。高貴な女性の宿命と言われればそれまでで、労働しないで暮らせる人生の代償と捉えるしかない。
聖武天皇の三人の娘たちは父の道具だった。皇后所生の阿倍内親王は皇統の尊さを強調する為に一生独身を義務付けて、皇位に就けさせた。誰よりも尊い血筋を持つから女の身でも皇位を踏むのだ、何人であっても朕に無礼は許さないと、誇り高く育ち、孤独だった。長女の井上内親王は初め皇室の巫女として伊勢斎宮に、斎宮を辞した後は皇孫と結婚させて、皇統を継ぐ血筋を残させようとした。三女不破内親王も同じ意図で結婚させたのだろうが、相手が良くなかったのか、本人の性格が攻撃的だったのか、夫婦とも父や姉から咎を受けている。井上内親王や不破内親王は、母方が藤原氏のような勢力のある氏族ではないが、母方が臣下出身で、皇族ではないのは阿倍内親王も自分たちと同じ、自分たちも誰よりも尊い血筋を受け継ぐ娘だと矜持を持っていただろう。
だが、その結果は今まで綴ってきた通り。山部親王――桓武天皇よりも、誰よりも尊い血筋を受け継ぐ男子は狙い打ちにされた。他戸王は年弱で欠点らしい欠点がなかったのだろう。母に罪ありと排除された。両親に問題があっても氷上川継に親しみや期待を寄せる人々がいた。
桓武天皇は政治と仏教との癒着を断ち切ろうとし、人心一新の為に遷都を行い、反乱を起こした蝦夷の討伐を臣下に命じた改革派の力強い天皇の印象があるが、その実、己の正当性を問われ続けた御代を過した。やがては我が子に皇位を譲ろうと、自分の即位と同時に皇嗣となっていた実弟早良親王をも追い落とした。山部王と呼ばれた頃から大器と見込んで神輿に据えてくれた藤原式家の百川は、桓武天皇の即位の前、宝亀十年(七七九)十月四十八歳で没している。桓武天皇が頼りにする臣下を失ったと嘆いたのか、秘密を知る者がいなくなったと安堵したかは知らない。
天平勝宝八歳(七五六)正倉院への納められた目録の『献物帖』の薬種には「冶葛卅二斤」と記されている。約七キログラム。現代正倉院の調査で確認された「冶葛」の量は四百グラムに満たない。
正倉院に眠る品々は香木蘭奢待、螺鈿飾りの紫檀の琵琶、瑠璃の盃ばかりではない。
猛毒の「冶葛」は倉から大量に持ち出された。
行方は知れず、用途に関して、何の証拠も残されていない。ゲルセミウム・エレガンスは南方で、緑の蔓を伸ばし、黄色い花を咲かせる。人間の愚かな行動をゲルセミウム・エレガンスは知らず、鬱蒼とした森でひそやかに生きる。
参考
『寧楽遺文』中巻 竹内理三編 東京堂出版
『日本紀略』前篇 吉川弘文館
『続日本後紀』下 森田悌 講談社学術文庫
『続日本紀』後篇 吉川弘文館
『万葉集』 中西進校注 講談社文庫
『第68回正倉院展 出陳宝物一覧』 奈良国立博物館
『藤原種継』 木本好信 ミネルヴァ書房
『天平の三姉妹――聖武皇女の矜持と悲劇――』 遠山美都男 中公新書
『正倉院薬物の世界――日本の薬の源流を探る――』 鳥越泰義 平凡社新書
『毒草を食べてみた』 植松黎 文春新書
『毒草の誘惑』 植松黎 講談社+α文庫