花売りの少女と時計技師見習いの少年①
ウィルフレッドが孤児院を出て働き始める話。
時間軸は過去編のあとくらい
「そこの素敵な旦那様。お花をお一つ買って下さいませんか。どうかご慈悲を…」
懇願するように少女は、身なりのいい男の裾を掴み引き止める。見るからに少女の服は良いものとは言えない。足を止めさせられた男は、目を背けその手を払うか、憐れみをかけ小銭を渡しその場を立ち去るかのとちらかだ。
少年は靴磨きや煙突掃除、あるいはスリを覚えるだろうか。小銭だとしても、これで一度の食事なら取ることごできる。
親の居ない幼い子供が自力で生きていくためには、真っ当な仕事も汚いことも、大人の真似をしてやる。そんなこれらの光景は、少しも珍しくはなかった。
「やっぱり、この街にも居るんだな……」
通りの向かいで花売りの少女を見かけた少年は、胸の奥を痛め、つい足を止めた。必死に生きる少女は自分とあまり年が変わらないように見える。
「ウィルフレッド、こっちだ。迷子になっても知らんぞ」
後ろを付いてこなくなったのに気づいたのか、年老いた男が振り向き少年に声をかける。
「花売りが珍しいか?」
「……珍しくなんか」
「だろうな」
では、なぜ足が止まったのか。少年自身も不思議に思った。
花売りの少女なんて見慣れてる。あの少女が特別、憐れでも可愛いわけでもないのに。
「まぁ、いい。しゃんとして歩け。この街に慣れん他所者を小僧らは狙いやすいらしいからな」
「狙う?」
「スられるぞ、お前」
「……あー」
あぁー、なんだそれか。驚きもせず納得してしまう。
「スられたことあるか?」
「無いよ。俺、こんな身なりだし。取るモンねぇだろう。……むしろ、仲間になるかって誘われた側だ。納得だろ?」
「でも、お前はならなかった」
……そうだ。少年はそこで、無意識に立ち止まった理由に思い当たる。
明日の食事にあり付けるか、路上で立ちぼうける子供とこれからの自分の処遇の違いに心が痛んだのだと。少年もそちら側の人間だ。憐れみをかけ、助ける側にはなれない。だけど、今は変わった。多分、救われたんだ。
そして、思い出す。孤児院に居た"兄"が"姉"に何があっても絶対に娼婦になってはダメだと別れ際に約束を交わしていた時のことを。
ライア姉は多分、これからも心配はない。遠くからあいつが、そうならないで済むように守っているから。だけど、あの花売りの少女にはそんな奴はいなくて、これから先の保障はどこにもないんだと痛感した。だとしたらあの少女もいずれは、他の子供がそうだったように娼婦になってしまうんだろうかーー
"娼婦"
その言葉を憎むようになったのは、あいつの影響だと少年は思う。
「着いたぞ」
しゃんとしろと言われたそばから、足取り重く歩く少年の横を、何も言わずに同じ速度で歩いた男は、此処で足を止める。声にハッとした少年は、我に返り顔を上げると既に店の前だった。
「どうした? 入らんのか」
「……」
「急に怖気づきおったか」
「そんなんじゃねぇ。……けど」
「なんだ、言いたいことがあるなら、遠慮せんで言えば言いさ」
「……っ、…………じぃさん。どうして俺なんだよ?」
もじもじするのは、嫌いだ。だけど、柄にもなく喉から言葉が出てこなくて、らしくないと少年は自分に悪態をついた。あれこれ考えたけど、バカだから仕方ねぇな、と。感情のままに行こうと少年は開き直ることにした。
「親のいないガキなんて、周り見れば他にもたくさん居るだろ。じぃさんの言ったその小僧にでも、仕事教えればいいじゃねぇか。俺だって、時計いじりなんてなんも分からねぇんだから、あいつらと同じだろ? 適当に俺を連れてきて良いのかよっ!」
生意気な口の利き方に怒りもせず、白髪の男は思わず笑った。
「ははは、活きのいい奴だ」
「俺は本気で!」
軽くあしらわれた少年は顔を赤くして怒り、男はやっと真面目に戻った。
「儂はな、簡単に逃げ出す奴は好きじゃない。儂に言ったあの言葉を忘れては、ないな?」
忘れるわけがない。
あの日のように目を逸らさず強く見返した少年を、男は満足気に頷いた。それから店のドアを開き、チリンチリンと訪問者を告げると、その途端部屋中からチクタク、チクタクと音が幾つも
重なり合う。置物、柱時計、壁の仕掛け時計。様々な大きさの時計が並ぶ光景に圧倒され、少年は口を開けたまま戻せずにいた。
「……こ……、こんな数、初めて見た……」