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目が覚めて、立ち並ぶ本棚に囲まれているのを知覚した瞬間、思わずため息が飛び出た。それは風に揺れる木葉が囁き交わすように、とても自然に。
「おや、お帰りですか」
「ああ、はい。終わりました」
スライムだったときの感覚が少しだけ残っていて変な気分だ。変形できたときのように、腹の肉を別の部分に動かせたら良いのに。
手足があるので、感覚を掴むために指を開いたり閉じたり送り返す。ぐっぱーを繰り返し、ふと視線が気になってアルバートさんのほうを見たら、彼は微笑んで一冊の本を差し出してきた。
「──言葉の成り立ち、と書いてあります」
「ああ、まあ、読めます」
なんだ?
今更そんなこと勉強する気は無いぞ。
「野仲根さんが読みたいとご所望されたものです」
読みたい……?
というか久し振りに本名を呼ばれて一瞬誰のことかわからなかった。
「前の世界の事が書かれている書物ですよ。知りたかったんでしょう?」
「神代さん」
一言も言ってないのに何でわかるんですか。
こっわー。
「なんで女神って名前なんですか?」
ちょっと気になってたから聞いてみた。
これから出張に行くわけでもないし、こういうときじゃないと話せない気がするし。っつーかコイツも暇なのか? 私が研修室に来るといつもいるんだけど。
「前に私と接触した営業の方とのやり取りで。神様代行の神代だと名乗ったら、女神がよかったと言われたものですから」
それぜってー名前のことじゃねーわ。
でもわかっててあえてそうしたのかもしれん。
「それより、読まないのですか」
「あ、ええ。今は良いです。またあとで」
そりゃ、気になるよ。前回も今回のことも。
彼等があのあとどうなったかとか、今も元気にしてるんだろうかとか。
でも、私はその世界では死んでいて、もう戻れやしない。知ったところでなにもできないんだから、それよりはただ信じようかなって。
リタさんが言ってくれた、誇れる自分にしてくれた仲間って言葉。その信頼に応えられたかはわからないけど、私も彼等を仲間だと思ってる。
だから、それで良いんじゃないかな。
皆のことが私の心の中にあるように、私という存在が皆の支えになってる。そう思えるから、余計なことは知らなくても良い。
まあ、全然ってのは寂しいから暇になったら見ようとは思うけど。
「そうですか、では本日はこれにてお引き取りください」
「お疲れ様でした」
アルバートさんがパチリと指を鳴らす。
同時に床に穴が開いて、穴が開いて!?
「ちょ、ああああぁぁぁあ?!」
悲鳴と共に、私は奈落の底へと落ちていった。
休憩室の扉を開けていた。
窓の外に広がるのは青空とトンボ雲。そこに鮮烈なまでの差し色が窓ガラスに張り付いて、手形のような模様を広げている。
近くにある紅葉の木から飛ばされてきたのだろう。季節はすっかり秋のようだ。
ああ、まただいぶ時間が経っているんだな……。
そして、休憩室の椅子の上には佐藤社長と見慣れないお兄さん。
いかにもスポーツしてましたっていう体格の良さと上背。スーツが似合うスタイルって憧れますわ、まったく。
「ああ、きたきた。ほら、彼女がうちの営業さんね」
「初めまして、私、和山ハム営業三課の細野です」
「あ、これはご丁寧にありがとうございます」
社長の気軽な紹介のあと、わざわざ立ち上がり挨拶してくれる細野さん。名刺を渡されたのでお返しってまだもらってない!!
「初めまして野仲根です。あいにくと名刺は……」
「あ、そうだ作るの忘れちゃってた。ごめんごめん、発注しておくね」
客に聞こえるように言うごっちゃねえ!
「と、いうことでして。申し訳ありません、次の機会にお願いいたします」
「そうですか、いえ、野仲根さんのお名前はかねがね伺っておりましたから」
は? どこで?
工場への出社も数日だし、営業っても現実世界じゃないし、名前が知られる機会なんてどこにもないんですけど。
でも、細野……どこかで聞いたような……?
どこかで聞いたっつーか、仕事関連で聞いたっつったら一カ所しかないわな。思い出した、アルバートさんがポロリしてた名前だ。
って事はあれか、逆に私の名前がそこで伝えられたのか。
んー、ならばこの細野さんは同じ仕事をしているんだろう。体つきも良いし、さぞかし活躍しているに違いない。
「ということで佐藤さん、お借りしてもよろしいでしょうか」
「そうだね、君が来た時に帰ってきたんだから、そうしろって事なんだと思うし」
なんだなんだ?
帰ってきたって事は私のことか?
借りる? うん……私の借用をなぜ社長が決めるんだ?
会社関係での貸し借り、って事は。
「野仲根くん、しばらく和山ハムさんの所に出向ね」
「え、あ、はあ……?」
「突然のことですが、部長が是非、野仲根さんにお会いしたいと申しておりまして。本人は多忙のため、僭越ながら私が迎えに……」
「い、いえいえ、仰っていただければこちらから向かいましたのに」
「いえ、体質的に途中で次元の狭間に誘われる恐れがあるとのことでしたので、万全を期した方がよろしいかと」
ああ、そういう事ね。
ここら辺にビッチ次元があるって言ってたけど、全国各地にそういうのがあったりするんだろうね。
発見できるセンサーもないし、下手に迷い込んで数ヶ月遅れるよりそっちの手間もないし結果的に低コストで済むのかも。
「では、準備でき次第出発しましょうか。急ぎになって申し訳ありませんが」
「いえいえ、大丈夫です。あ、すみません社長、私の荷物は」
「あーはいはい、金庫に入れてあるからちょっと待っててね」
なんて所に。
盗まれる心配がないのはありがたいけども会社の金庫使うようなめでたいものはなんもないぞ。
社長が事務のおばちゃんに頼んで荷物を持ってきてくれる。たかが契約社員の身分でして貰うことじゃないな。いい人で良かった。
「では荷物をまとめに行きましょうか」
「もう行けますよ」
「え?」
「家には何もないので。必要なものは現地調達します」
「そうですか、わかりました」
社長から鞄を受け取り、礼を言えば笑われた。
なんか今回のことで純利益五割増しだってさ。ナニソレ怖い。社員にボーナスも出せたしウハウハだって。
必要書類は後日揃えるって事でまずは体だけ移動。宿泊施設の手配もしてくれるという至れり尽くせりぶりを堪能した。こういうのって自分ですべきだよね? してくれるならお任せしますけども。
細野さんの運転で近くのヘリポートまで。
いや、実際こんな所に離発着場があるとは思わなかった。佐藤社長の実家の庭らしい。
さすが田舎は土地が余ってる。余ってるからってヘリポート作る奴はいないけどな!
そこに待機している乗り物。いうまでもなくアレだ。人生で初めて搭乗するんだけど、乗っていいんだよねこれ。っていうか車はどうするんだ、って思ってたらヘリから誰か降りてきた。
軽く挨拶をすると、私達が降りた車に乗って去って行く。
そして代わりに細野さんがヘリの運転席に着いた。
そっかー……。
うん、そっかぁ。ここって現実世界じゃなかったんだぁ。
もう一人の運転手に誘われるまま、荷物は座席の後ろに詰め込み、席に着きシートベルトしてメットかぶったら離陸。
私はいつまで夢を見ているんだろうか。めっちゃうるさいんだけどなかなか目を覚まさないよなぁ、うん。ええー……。
いくら営業でもヘリの運転なんて必須スキルじゃないよね!? どう考えても!!
『こんな移動方法ですみません。でも空だと次元の歪みがありませんから』
『せっかくなんだ、空からの景色を楽しむと良い』
なんかヘルメットから声がする。
無線機能かなんかだろうか、マイクも内蔵されてるなら何か言葉を返した方が良いかもしれない。
『……すみません、高所恐怖症なもので』
『おやおや嬢ちゃん、そりゃ勿体ないな。まあ、墜ちるときは一蓮托生、気軽に楽しもうや』
楽しめるか!!
今だってシートベルトが外れやしないか戦々恐々としてるんだから! 何かの弾みで器具が壊れたらもろともでしょ!
本当は車の運転だって嫌なのに!!
『縁起でも無いからやめてください。それはそうと野仲根さん、あちらには何回ほど出張に?』
気を利かせて話題転換してくれたんだろう。
細野さんはいい人だ。
『二回です。まだ初心者でして……』
『にっ……そ、そうですか』
あれ、なんかまずったのか?
『ほほう、嬢ちゃんは優秀なんだな。神様に気に入られてるだろ』
うん? あれ、こっちのパイロットも営業課の人なのかな?
本当にこの人達は免許持ってるんだろうか。ちゃんと操縦できるんですよね? 安心感が全くないんだけど。
『指名が来ているらしいです』
『うわ……』
『なるほどなぁ、和泉食品さんとこは新規に部署立ち上げたばかりだから、ノウハウが全くないんだろうな』
『だとしてもですよ。部長、少し無責任なのでは』
『あ、こらっ』
なんかドン引きされたと思ったら、細野さんが口を滑らせたようだ。
なんとなーく、会話の流れでそれっぽいと思ったけど、やっぱこの人が部長さんか。
え、挨拶どうしよう。
『まあ、悪いな嬢ちゃん。挨拶が遅れたが、俺がこいつの部長の佐山だ。俺もよく出張には行ってたんでね、そこら辺の事情は詳しいから安心してくれ』
『行ってた、というか発案者ですよね』
『ははー、まあな。いやぁ、我ながらすごい交渉をしたもんだ』
そう言ってケラケラ笑う佐山さん。
いやちょっと待って、営業話をしはじめたのって、確か和藤って人じゃなかったっけ?
『こちらこそご挨拶が遅れ失礼いたしました。野仲根と申します』
『アルバートから聞いてるよ。細野よりも見込みがありそうだってな。んで興味持った』
アルバートさんとやり取りしとんのかい。
っていうか多忙なんじゃないのか。名前を伏せて様子を探ろうとしていたとか?
『失礼ですが、和藤さんという方が営業を始めたと伺っておりますが……』
『ああ、結婚して佐山さんとこに入ったんだ。和藤と佐山が立ち上げたのが和山ハムだろ、息子と娘をそれぞれ結婚させようって約束してたらしくて、俺達夫婦が抜擢されたって訳だ。まあ、恋愛結婚だし文句はねぇよ』
そういう家庭の事情とかは別にどうでも良い。
コイツが和藤、つまり元凶だったか。許せないんだけど何かしようものならここからつまみ出されるかもしれない。下手なことも言えないんですけど。いや、つーか親会社の人間か! なんも言えないわ! ちくせう。




